突然ですが、文藝春秋社から本を出すことになりました。
個人出版社・桃山堂を運営する蒲池明弘はこのたび、文藝春秋社から本を出すことになりました。『火山で読み解く古事記の謎』というタイトルで、文春新書の一冊として、三月十七日に刊行されます。
このブログは、電子書籍の話題を中心に桃山堂の取り組みを紹介するものなので、その趣旨には反するようですが、ライター/編集者/営業マン/宣伝部をひとりでやっている会社ですから、桃山堂の「ライター部門」からの報告ということで書かせていただきます。
桃山堂は、一年ほどまえの二〇一六年一月、『火山と日本の神話──亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』という本を出版しました。
電子書籍ではなく、普通の紙の本です。二七二ページ、二千円です。
私の出版活動よく知る人が、文藝春秋社の編集者Mさんと知り合いであったことから、『火山と日本の神話』を読んでもらい、この本のテーマをもっと掘り下げ、かつ、多くの人の共感を得られるようなかたちで本にすることができないかという話が持ち上がりました。
それで、企画書をメールで送ったら、企画会議を通ったという連絡をうけました。
昨年二〇一六年十月のことです。
それから半年で出版したので、いくらか突貫工事のきらいはあるのですが、ベースになる原稿はいくつかできていたので、それを合体させつつ、新たに取材した原稿を書き足して、本にまとめるという作業でした。
ベースになった原稿のひとつは、弊社ホームページに掲載している『火山と日本の神話──亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』の内容紹介の記事です。
ありていにいえば、宣伝記事です。
ただ、単なる内容紹介ではなく、『火山と日本の神話』をつくるときに取材したけれど、本には収容できなかった情報や写真、取材するときにいだいた疑問などを書いています。
備忘の目的をかねた宣伝ページです。
取材メモ「火山と古事記」 - 古事記、火山、秀吉──歴史を幻視する本 桃山堂
メモがわりに、疑問点などを書いていたことは、今回、文春新書用の原稿を書くときのスタート地点になったので、これは思わぬ効用でした。
文春新書の『火山で読み解く古事記の謎』と、このホームページ上の記事は内容的に違うところもあるのですが、一年前のスタート地点を見ていただくことも一興かなとおもって、とりあえず、そのままにしています。
文藝春秋の編集者さんは、ホームページ上のこの記事も見てくれていたようです。
ブログやホームページの面白い記事を出版社の編集者が〝発見〟して、それを土台に本を仕上げるということはごく普通におこなわれています。
ライターの立場でいえば、ブログやホームページに気になることやら、疑問点やら、考え中のことを書いておくことで、それが〝種〟となって、芽を出し、枝葉が育つということはあるとおもいます。
今回、〝種〟がうまく育ったかどうかは、読んでいただいた方に判断していただくことですが、〝種〟として機能したことは確かです。
それなら、パソコンのファイルにメモしてもいいし、紙のノートに書いてもいいではないかということになりますが、できるだけ自分の脳から離して、遠い場所に置いて、客観視するにはネット上というのはなかなか良い場所ではないかとおもいます。
自分のアイデアを客観視することの難しさと重要性はいつもいつも思うことですが、今回の企画でも痛感したことです。
そのあたりもふくめ、新書体験記を書いてみます。
羽犬伝説の筑後地方(福岡県南部)で、火山が激しく活動していたころ
私が個人営業している桃山堂という零細出版社は、このブログでメインテーマとしている秀吉伝説のほか、『火山と日本の神話──亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』という火山神話の本も出しています。
どうして、秀吉と火山なのだ、あまりにも支離滅裂ではないかと糾弾されることも多いので、その言い訳めいた話です。
阿蘇中岳火口から立ちのぼる噴煙。(2016年3月撮影)
羽犬のふるさと「筑後」とは何か
羽犬伝説のある福岡県筑後市は、福岡県といっても博多のある福岡市よりずっと南の熊本よりです。
福岡市などのある福岡北部を筑前というのに対し、筑後市とか八女市とか久留米市は筑後と呼ばれています。
気質とか言葉も微妙に違います。
関東、関西の人に、それを説明するのは困難ですが、乱暴に言ってしまえば、博多のある福岡市が東京二十三区だとすると、筑後地方は多摩地区です。
かえって話がこんがらがりそうですが、同じ福岡県でも、田舎的な性格がより濃厚である──ということです。
私の先祖が代々、暮らしていた福岡県八女市黒木町は、筑後地方のなかでも、さらに熊本との県境に近いところです。
9万年まえ、阿蘇が何万年に一度という規模のすさまじい巨大噴火をしたとき、火砕流が県境の山を越えて、八女市にも到達しています。
八女市岩戸山歴史資料館に掲載されていたパネルです。
岩戸山古墳、石人山古墳のあるあたりが筑後エリアで、このあたりまで火砕流(ピンク色)が流れてきています。
火砕流とは、大規模な噴火のときに生じる現象ですが、火山ガス、火山灰などによる気体と固体の混合した流動体です。
もともとはマグマですから、火砕流は冷えて固まると固体になります。岩状にがっちり固まると、溶結凝灰岩と命名されます。
固まり方がゆるいと、鹿児島のシラス台地のような土地になります。こちらは岩ではなく、土です。
阿蘇カルデラ噴火でできた石は、今でも商売に使われている
八女市に到達した火砕流は溶結凝灰岩となり、「八女石」と呼ばれる有用な石材となっています。
加工しやすく、見た目もいいので市場性の高い石なのだそうです。
江戸時代には、石橋の材料にもなっています。
石灯籠などの材料となり、八女市の郷土産品のひとつです。
阿蘇噴火に由来するこの石は、古代から加工に適した石として知られていたようで、八女古墳群には、「石人」と称される石の守護像が置かれています。
埴輪のかわりのようなものです。
これは、八女古墳群では最大の岩戸山古墳にあった「石人」です。
六世紀、継体天皇のときのヤマト政権と敵対して、戦いに敗れた筑紫君磐井を葬った前方後円墳だとかんがえられています。
羽犬の墓が、阿蘇噴火に由来する「八女石」かどうかは未確認です。
こじつけめいた話になってしまいましたが、羽犬伝説の筑後地方は、阿蘇文化圏の一角にあったことはご理解いただけたのではないでしょうか。
福岡県南部における、200万年まえの火山活動
私の先祖代々が暮らしていた黒木町は、もともと独立した自治体でした。その隣村を矢部村といいましたが、いまは双方とも合併により八女市の一部となっています。
矢部村には、200年ほどまえ、激しい火山活動があり、筑紫溶岩、日向神溶岩と呼ばれる火山岩としてものの本にその名をみます。
火山について、本格的に調べはじめたのはこの三年くらいですから、先祖の地がそのような恐るべき火山地帯にあるとは知りませんでした。
あまりに山間地の田舎すぎて、メジャーな観光地にはなれないのですが、矢部村には日向神渓という渓谷美をアピールするエリアがあって、もう四〇年以上まえの小学校のころ、何度か連れて行かれたことがあります。
「ひゅうがみダムに行く」という音として記憶していました。
日向神ダムです。
漢字でみると、にわかに妄想力のスイッチが入ります。
風景の記憶はほとんど残っていないのですが、いま、ネット検索してみてみると、典型的な火山的風景です。
矢部村にも、金山があって、近現代においては、大分県からつづいている鯛生金山の一部として知られています。
鯛生金山は一時期、産出量で日本一になっていた時期があります。
過去の累計による総産出量では、第五位です。
相当に規模の大きな金の集積が、この地にあったことは歴然とした事実です。
わが先祖の地である黒木町に隣接する星野村、矢部村には、大正、昭和時代までつづいていた金山の歴史があって、華麗なるゴールドに彩られているのですが、残念ながら、わが黒木町ではまとまった金は採れなかったようです。
鯛生金山の跡地。
ともかくも、このあたりは、日本でも有数の金山があったところであり、それは200万年ほどまえの火山活動により形成された金鉱床なのだとおもいます。
そうした金をもとめて、渡来人だとか、後醍醐天皇の皇子だとか、星野氏、五條氏などの武士団だとか、前の回にとりあげた徐福だとか、虚実おりまぜて、さまざまな人たちが行き交った痕跡があります。
そうした史実と幻想の土壌から、秀吉と羽犬の伝説が生じているのでないか──。その視点から、『秀吉と翼の犬の伝説』という電子書籍をつくり、こんなブログを書き連ねているのですが、先祖代々が暮らした土地への過大評価と、それにもとづく私自身の誇大妄想である可能性は否定できません。
まとまりのない文章になってしまいましたが、同じ福岡県のなかでも、筑前とは違って、筑後地方においては火山的な地質が濃厚であることはご理解いただけたのではないでしょうか。
それは、否定できない地質学的な事実です。
あまりにも個人的な関心、というか地縁からスタートした電子書籍シリーズ「秀吉伝説集成」
桃山堂の電子書籍シリーズ「秀吉伝説集成」は、編集者であり著者陣のひとりでもある蒲池明弘のあまりにも個人的な関心事からスタートしています。紙の本では難しいニッチなこだわりを作品化できるところが、電子書籍のメリット。
とはいえ、当然の結論ながら、お金を出してそうした作品を購入していただける奇特な方はほとんどいないことが判明したので、こうしてほぼ全貌をブログで公開している次第です。
税金を払え! とすごんでいるわけではありません。福岡県筑後市の守護神となっている翼のある犬「羽犬」。
福岡県の八女市の黒木町はわが御先祖の土地
本の企画を立てるとき、著者や編集者の個人的な関心からスタートするというのは当たり前のようですが、現実には、「どれくらい売れそうか」という算盤勘定の比重がつよまっているのが、昨今の風潮ではないでしょうか。
著者や編集者の〈熱〉のようなものの気配を感じない本も少なくありません。
「秀吉伝説集成」は、史実とはいえないかもしれないけれど、豊臣秀吉という歴史上の現象の〈真実〉に触れているかも知れないという伝説や伝承を紹介しようという企画なのですが、その出発点のひとつが、秀吉と羽犬の伝説です。
翼のある犬という存在そのものが史実である可能性はゼロですが、それなのに、伝説として今日においても生命力をもっているのは、なにがしかの真実をふくんでいるのではないか──とおもうのです。
しかし、そもそも、どうして私が羽犬伝説を知っていたかというと、父親までの先祖代々が暮らしていた福岡県八女市黒木町笠原という熊本との県境に近い山間地で、そこ行くためには羽犬塚駅から、バスに乗る必要があるからです。
かんたんに言えば、お祖父さん、お祖母さんの家に行くとき、羽犬塚を通るわけです。
標高五〇〇メートルを超えるとおもうのですが、段々畑があり、お茶とかお米とか、作っています。
徐福伝説の古墳
羽犬塚駅からバスで30分くらいのところに山内という集落があり、そこの真如寺というお寺に先祖代々、世話になっているのですが、この寺のすぐそばに「童男山古墳群」があります。
円墳がほとんどですが、30基くらいの古墳が集積しています。6世紀の古墳らしいです。
このあたりは、ほんとうに古墳がゴロゴロしているところで、八女古墳群と称されていますが、正確にいえば、童男山古墳群のようないくつもの古墳群をまとめて、八女古墳群と称しているわけです。
このパネルに書かれているように、童男山古墳には、いわゆる「徐福伝説」があります。
徐福伝説は各地にあるので、その真偽を詮索しても詮ないことだとおもうのですが、徐福はさておいても、この地域には、渡来系の人たちが活動していた濃厚な形跡があります。
わが先祖の地・黒木町の地名は、女優・黒木瞳の芸名の由来でもあるのですが、この地には、黒木氏という武士団がいました。
黒木氏は大蔵氏の流れをくむ渡来系の一族とされています。
渡来系のなかでは、漢氏と称される人たちです。
八女市の山間地には、星野という集落があり、歴史上、有力な金山のあったことはすでに申し上げました。
星野氏と黒木氏は同族とされ、ともに渡来系と目される人たちです。
徐福伝説の背景にあるのは、こうした渡来系氏族のうごめきであるのは間違いないとおもうのです。
中国なのか朝鮮半島なのかわかりませんが、危険を顧みず、日本列島に渡ってくる目的は、この地にあった黄金資源なのではないでしょうか。
先に申し上げたとおり、羽犬伝説を「黄金を探す犬」として理解できるならば、徐福伝説ともゆるやかにつながるとおもうのですが、いかがでしょうか。
秀吉と羽犬伝説と前方後円墳
福岡県筑後市の羽犬塚という地名の発祥をめぐって、豊臣秀吉と「羽犬」すなわち翼のある犬の伝説が語られています。こじつけめいた話をいろいろ書いてしまいましたが、私が秀吉と羽犬の伝説が気になって仕方がない最大の原因は、羽犬伝説の地、筑後エリアに九州では最大級の古墳群が存在するからです。このブログでも、たびたび話題にしているとおり、秀吉と古墳には無視しがたい結びつきがあるように見えるからです。
(以下の記事は、電子書籍「秀吉伝説集成」の一作『秀吉と翼の犬の伝説』の内容紹介です)
この前方後円墳のそばの道を、秀吉ひきいる大軍勢が通って、薩摩へと向かった。
そこは北部九州最大の古墳群
羽犬塚のある福岡県筑後市に有名な企業、観光地はありませんから、自治体としての知名度は低いとおもいます。筑後市とは、どのような地域なのでしょう? 国立国会図書館ウェブサイトにある資料検索で、「筑後市」として調べてみると、百件ちょっとの資料がありますが、そのうち九十件以上が、古墳や遺跡など文化財発掘の調査報告書です。筑後市には前方後円墳、円墳をはじめ、おびただしい数の古墳時代の遺跡があります。
筑後市から久留米市、八女郡広川町、八女市へと連なる低い丘陵地帯には、大小三百基ほどの古墳が群集しており、「八女古墳群」と呼ばれています。北部九州では最大の古墳集積地です。この古墳群で最大の前方後円墳「岩戸山古墳」(全長一三五メートル)は、継体天皇との紛争の主役である筑紫君磐井の墓だといわれています。
羽犬塚のある筑後市は、古代の記憶をたたえた古墳の町です。羽犬塚の「塚」は、古墳を指す言葉でもあるので、羽犬塚という地名そのものが古墳とかかわる可能性があります。
羽犬塚が北部九州で最大の古墳エリアに位置することに注目するのは、秀吉をめぐる史実と伝承において、古墳にかかわる話が目につくからです。
秀吉の母親の出生地は名古屋・御器所とされていますが、八幡山古墳をはじめとして古墳の多いところで、東海地方で最大の前方後円墳である断夫山古墳(全長一五〇メートル)も徒歩一時間圏にあります。秀吉母子が参詣していたという伝承をもつ高座結御子神社(熱田神宮境外摂社)の稲荷社は小さな円墳と一体の神社です。
羽犬塚から二キロほどのところにある岩戸山古墳と名古屋の断夫山古墳は、天皇陵を除けば、六世紀に造営された古墳のなかで第一位、第三位にランクされ、同じ設計プランによって造営されたとも考えられています。
古墳の視点を借りると、名古屋と羽犬塚のある筑後地方には共通点があるわけですが、別の言い方をすると、六世紀の継体天皇の時代、尾張と筑後地方は、日本列島で有数の政治勢力であったということです。
断夫山古墳の埋葬者とされている尾張氏は、継体天皇に配偶者を送り込んで外戚になるなど強い提携関係にあります。筑後の筑紫君磐井は継体天皇と敵対して激しい戦いになりますが、それ以前においては、継体天皇を支える勢力の一翼を担っていたという説もあります(水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』ほか)。
石の兵士の守る前方後円墳のそばで
八女古墳群で最も古い前方後円墳は、羽犬塚の集落から北東二キロほどのところにある石(せき)人山(じんさん)古墳(全長約一一〇メートル)です。筑後市と八女郡広川町をまたぐように鎮座しており、この前方後円墳のそばに一條という集落があります。
九州遠征における秀吉の行軍ルートについてはいくつかの地域伝承があり、「太閤道」と呼ばれています。史料や伝承をもとにそれをまとめた労作『太閤道伝説を歩く』(牛嶋英俊)は、筑後市前後のルートについて、
秀吉通過の道筋はおおむね久留米市府中から広川町相川・一条、筑後市羽犬塚をへて長田にいたる。その間、太閤道の伝承は広川町一条のみだ
と説明しています。この地域では最古の前方後円墳のある集落だけが、秀吉についての記憶を伝承しているのです。
八女古墳群のよく知られた特徴は、古墳の墳丘に埴輪ではなく、石の造形物が置かれていることです。「石人」と呼ばれる古代の鎧兜に身をかためた武人の石像はその代表的なもので、石人山古墳という名称の由来となっています。いま、この古墳を訪ねてみると、横穴式石室のそばで、小屋に保管された「石人」を見ることができます。ほんとうに人間の大人と同じくらいの大きさです。緻密な文様の彫られた石棺も有名です。
住民が伝承する「太閤道」は、石人山古墳の外周をなぞるように伸びている三メートル幅の道です。農道に毛の生えたような道ですが、この道を行軍してきた秀吉は古墳のかたわらで休息をとり、そのとき、一條集落の住民が一服の茶を献上したというのです。こうしたことが「太閤道」の伝承として、この集落で語りつがれてきたそうです。
秀吉と古墳のつながりについては、当ブログのカテゴリー「古墳/土師氏」にいろいろな記事を載せています。 →
秀吉伝承がのこる「太閤道」。この道を秀吉ひきいる大軍勢が通り抜けた。