桃山堂ブログ

豊臣秀吉の<謎>、火山と古事記の探究、電子書籍への挑戦。

高齢者およびその予備軍のための「うひ山ぶみ」(本居宣長)

本居宣長の「うひ山ぶみ」を読んだのは高校時代ですが、田舎のぐうたら高校生だった私が自主的に読むはずがないので、古文の教科書あるいは副読本に掲載されていたのだと思います。前回のエントリーで紹介した『日本の古代を読む』(上野誠編)というアンソロジーに所収されているのですが、改めて読んでみて、本居宣長はなんて心が広くて優しい人だろう! と感激してしまいました。

 

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教科書の中の本居宣長

うひ山ぶみ」はごく短い文章です。古文の教科書あるいは副読本で読んだのはその抜粋だったのかもしれませんが、そうだとしても、どの部分かということは見当が付きます。

 

『日本の古代を読む』は、編者である上野誠奈良大学教授がわかりやすい現代語に訳しているので、その部分を引用してみます。

 

人間というものは、才能がある人とない人とで、その上達の度合いはたいそう異なるのだけれども、才能があるかないかは生まれついてのことなので、どうすることもできない。

考えても、詮無いことである。

けれども多くの場合、才能がないという人であったとしても、怠ることなく精進してゆけば、それだけ上達してゆくこともある。

 

教科書会社あるいは学校の教師が、子どもにこの文章を読ませたいという発想はよく理解できます。

今の君が、勉強あるいは運動がよくできなくても、コツコツと努力すれば、かならずレベルアップしていくのだよ──。そんな前向きのメッセージを、日本史の教科書にも出ている宣長先生がアドバイスしているのですから。

 

晩学

しかし、最近、「うひ山ぶみ」を読んで、高校生の私が読み飛ばしていた重要なポイントに気がつきました。上の引用部分に続く、以下の内容です。

 

また、晩学であったとしても、努力して励めば、思いの外、上達することだってある。

時間のない人であっても、それぞれが意外にも、時間のある人より上達することだってあるのだ。

だから、才能が乏しい人も、晩学の人も、時間がないからといって望みを捨てて、学問を捨てることなどなかれ。

 

宣長の生きた時代、学問の王道は四書五経漢籍を学ぶことだったので、古事記万葉集を学ぶことは、一部のお公家さんたちを除けば、実利にむすびつかない趣味的な世界であったとおもわれます。

ということは、現役を退いたご隠居さんたちが、門弟の少なからぬ比率を占めていたのではと推測され、そういう人たちに向けて書かれた文章として、「うひ山ぶみ」を読むことができるとおもいます。

そうであるなら、キーワードのひとつである「時間がない」は、仕事で忙しいという意味ではなく、生きている時間が少ないという、もっと切迫した表現であることになります。

 

この文章を書いたのは、大著『古事記伝』を書きあげた直後で、本居宣長は七十歳に近い年齢でした。その三年後にはなくなっているので、ここで繰り返されている「時間がない」という言葉は、宣長自身の思いとも重なっていたのかもしれません。

 

 「うひ山ぶみ」を所収している『日本の古代を読む』には、本居宣長のほか、坂本太郎津田左右吉井上光貞、瀧川誠次郎、青木和夫、石母田正、三浦周行、内藤湖南和辻哲郎、W・G・アストン、辻善之助、林屋辰三郎、折口信夫西田直二郎亀井勝一郎という人たちの文章が掲載されています。 

 

 

名前だけはよく見聞きするけれど、実際にその人の文章を読んだことがない──というあたりが購入の動機になるのかもしれません。

 

私の場合、うちの子どもが毎週土曜日の夕方、アニメ「名探偵コナン」にチャネルをあわせるたびに、条件反射的に「内藤湖南」を思い出すのですが、なにか著作を読んでみようというアクションには結びついていませんでした。

でも、このメンバーのアンソロジーを、いったい、どのような人が買うのでしょう?

データにもとづかないまったくの憶測ですが、「五十代、六十代、もしかすると、それよりも上の年代の男」が想定されます。

 

もし、そうであるなら、このアンソロジーの冒頭に、「うひ山ぶみ」を置いた上野誠先生の意図がほのかに見えてきます。

 

才能が乏しくても、晩学であっても、時間がなくても、怠らずに学べば──という励ましは、本居宣長の声であり、上野誠先生の声でもあるように聞こえてきます。

 

私は三つの条件、すべてにあてはまっています。

生まれながらの怠け癖を自覚するゆえか、心と体にしみいる重い言葉です。

 

私自身のことをいえば、四十代前半までは、企業の決算発表の記者会見を聞いて、バタバタと記事を書くような新聞記者の生活をしていたのですが、あれやこれやの偶然によって、自分で個人営業する出版社から古事記かんけいの本を出すことになり、付け焼き刃の耳学問であれこれ知識を仕入れているところです。

 

大学とか大学院できちんと古事記をはじめとする古典文学を研究しているわけではないので、「晩学」という言葉をつかうのもおこがましいくらいですが、晩学者の末席くらいにはいるつもりです。

 

それぞれの山へ

どうしても、too lateという意識にとらわれがちですが、百歳ちょっとまで生きることができれば、まだ五十年……いや、それは希望的観測がすぎるとして、八十歳ちょっと生きればあと三十年、それだけの時間があれば、相当のことができのではないか──。そんな自己暗示をかけて、前向きの気持ちを引き出しています。

 

上に引用した文章は、次のような言葉によって結ばれています。

 

様々な困難があったとしても、努力さえしていれば、自らの学問が成ものと信ずるべきだ、と思う。志を捨てるということこそが、学問にとっては、最もよくない選択なのだ。

 

高齢者の仲間入りをするのはずっと先だという気分でいるのですが、高校生のときに素通りした「晩学」とか「時間がない」という言葉に過敏に反応してしまうのは、私がすでに、高齢者予備軍くらいには突入したからかもしれません。

 

うひ山ぶみ」の「山」とは、奥深い山に分け入ることを学問の世界の探究のたとえとしているわけですが、それは学問にかぎったことではないとおもいます。

 

「山」を未知の世界への挑戦であると理解することも可能です。

そうであるなら、「うひ山ぶみ」は超高齢化社会に突入した日本社会において、共有すべき知恵の言葉であるとおもいます。

 

古事記好きの男性だけでなく、多くの高齢者およびその予備軍の人たちに読んでほしい名品です。

 

「試験によく出る評論家」小林秀雄と亀井勝一郎の共通点は美形であること。

前回のエントリーで小林秀雄の文庫本を半ば義務的に読んでいたことを書きながら思いだしたのは、亀井勝一郎です。この文人も「試験に出る評論家」として、昭和時代の高校生に推奨されていたのですが、いま私が読んでいる『日本の古代を読む』というアンソロジーに収録されており、それが抜群に面白い古事記論なのです。

 

 

『日本の古代を読む』は、最近、近所の本屋さんの棚に入っているのを見て購入し、寝る前にすこしずつ読んでいます。

万葉集研究で著名な奈良大学上野誠教授が編者・解説者をつとめています。

収録作品の筆者は以下の通り。

 

本居宣長

坂本太郎

津田左右吉

井上光貞

瀧川誠次郎

青木和夫

石母田正

三浦周行

内藤湖南

和辻哲郎

W・G・アストン

辻善之助

林屋辰三郎

折口信夫

西田直二郎

亀井勝一郎

 

アストン、折口信夫和辻哲郎など別ジャンルの筆者もふくまれていますが、大学で歴史を教えていた先生がほとんどです。

 

亀井勝一郎は、雑誌や書籍のための文章を書いて生活していた評論家ですから、このなかでは毛色の違う人です。

 

亀井勝一郎古事記に「楽園追放」の人類史的記憶を読んだ!

収録されている亀井作品は『神と人との別れ』。

日本書紀との比較で、古事記の性格についてこのように述べています。

 

古事記』とは、古代人の「原始古代人」への憧憬の詩書であり、『書紀』はそれと表裏した悔恨の史書とも言えるのではないか。 

 

「神代」という失われたものへの限りない愛着、神々の喪失感から、あの大らかに古撲な文章が生まれたのではなかったか。 

 

亀井勝一郎の文脈で、「神代」は、「原始古代人」の世界と重なっています。

縄文という言葉も、弥生という言葉も出ていませんが、奈良時代の人たちが遠望する「原始古代」を、私は勝手に「縄文時代」と読みました。

 

 

「言葉の誕生と伝承」のなかで述べたように、神々のいのちとしての言葉の純化と、その保存を第一義としたのだ。

少なくともそこに主眼点をおいたとみられるし、さらに注目すべきことは、仏教伝来という事実が完全に黙殺されていることだ。 

 

 こんあたりの啖呵の切り方は、歴史学者古事記学者には真似できないもので、聞きほれてしまいます。

 

亀井勝一郎日本書紀も評価、そのながれで本居宣長の死角を指摘

でも、古事記をこうしたアングルから評価する人は、ほかにもいます。

亀井勝一郎の論考が出色なのは、古事記とは違った性格をもっている日本書紀の神話的側面を高く評価していることです。

 

 よく知られているとおり、本居宣長によって、日本書紀は、中国的合理精神の産物であると見なされ、古事記に対してマイナス的な価値を帯びることになります。

 

亀井勝一郎は、そこに本居宣長の死角が生じているというのです。

 

宣長は神々に近づこうとした人である。「楽園恢復」を志した人だ。しかし逆に神々から別れつつある、いわば「古代人」の深い動揺があった。

一切の漢心を拒絶することで、彼はこの動揺の実体を見失ったのではないか。 

 

古事記が <古事記が「楽園追放」以前の思い出> であるならば、日本書紀は <追放の過程──即ち神人分離の記録> であると、亀井勝一郎は断じています。

 

人類にとって「楽園」の記憶とは何かというテーマは、これまた難しい問題で、宗教的な救済としての理解も、歴史的な記憶としての解釈もできるはずです。

 

どうしてこんなに売れているのだろう? という興味から購入してしまった『サピエンス全史』でも、そのあたりがテーマのひとつになっていました。

もちろん、後者の視点ですが、これだけ科学や技術文化が進歩しているのに、現代人の幸福度は、新石器時代の人類より低い可能性が高いという指摘です。

 

新石器時代はだいたい一万年くらい前からですから、日本の時代区分の上では縄文時代

日本人にはわりとお馴染みの議論で、「自由で平等、幸せな縄文人」というやつです。

 

 

古事記を「楽園追放」の物語として読み解く亀井勝一郎の論考は、『サピエンス全史』にも結びつくような、現代的でスリリングな内容です。

 

名だたる古代史家をそろえたアンソロジーの<とり>に、亀井勝一郎をもってきた上野誠先生の慧眼に敬服します。

 

このアンソロジーの冒頭を飾るのが、本居宣長の「うひ山ぶみ」ですから、江戸時代後期から昭和時代にかけての、古代をめぐる日本人の論考が、円環構造となって、亀井勝一郎につながっているようにも見える構成です。

プロローグとエピローグのような感じ。

 

古事記にかかわる文章だけを集めたアンソロジーではありませんが、津田左右吉井上光貞石母田正など、古事記研究史における名だたる登場人物もそろっており、「古事記本」としても楽しめる内容です。

 

超ハンサムなおじいさん

ところで、小林秀雄に次いで、「試験に出る評論家ナンバー2」だった亀井勝一郎のどの作品を、高校時代の私が読んだのかまったく記憶にありません。

 

小林秀雄の文庫本は概して薄かったのに比べ、亀井勝一郎の文庫本はどれも厚かったのではないだろうか──。そうした触覚的な、指先の記憶がぼんやりとある程度で、脳の内部になんのデータも蓄積されていないことは情けないかぎりです。

受験勉強の延長として、無理りやり目だけ動かし、活字を追っていたことは明らかです。 

 

『日本の古代を読む』の帯に印刷された写真を見て、私は亀井勝一郎という人の顔を知らなかったことに気がつきました。

 

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いちばん左が亀井勝一郎

鼻は高いし、目はぱっちり。

うーむ、こんなにハンサムなおじいさんだったとは! 

 

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若いころの写真はこちら。

太宰治と仲が良かったそうです。

 

相当、悪いことをしたのではないかと心配してしまいます。

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 そういえば、小林秀雄も美形だし、声もすばらしい。

 

私たち昭和の受験生を苦しめた名文家のお二人がそろって美男であることと、お二人が昭和の出版の世界において売れっ子であったことの間には因果関係があるのでしょうか?

上野誠編『日本の古代を読む』が私にもたらした、もうひとつの<謎>です。

小林秀雄の文庫本は、うちの近所の文房具屋さんにも並んでいたこと。

 長崎市の名門書店、好文堂の週間ベストセラーランキングで、私が書いた『火山で読み解く古事記の謎』が突然、第七位に浮上! 

というきわめて個人的ニュースから、四十年まえの書店事情を思い出しました。

 

 

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『火山で読み解く古事記の謎』、週間ベストセラー・ランキング第七位の謎

 

新書界の巨星『応仁の乱』と伊集院静先生の『大人の流儀』の間にはさまれ、いわゆるビルの谷間のラーメン屋状態です。

 

長崎市で突然、火がついたように売れ始めたのなら素晴らしいのですが、実は、私の(実質的な)出身地が長崎市なので、親戚筋、知り合い筋がまとめ買いしたのではないかと想像されます。

 

他県の人には伝わりにくいことですが、長崎で好文堂といえば伝統と格式の老舗書店ですから、そのランキングに掲載されたことは、なんだか表彰台に立たされたような面映ゆい気持ちです。

まとめ買いだけではないことを願っています。

 

生まれたのは福岡市ですが、幼稚園から高校までは長崎市で暮らしていました。

通っていた学校は、長崎市内の西城山小学校、緑が丘中学校、県立北高

長崎県大村市というところにも一時期、いました。

 

私の実家のある町から、好文堂まではバスで三十分くらいですが、すこしは本を読みはじめた高校時代には、好文堂であれこれ物色していました。

でも、お金もないから、文庫本くらいしか買えなかったですけどね。自慢できるような本を買った記憶もありません。

 

本居宣長』についてのぼんやりした記憶

四十年くらいまえのことですから、うろ覚えですが、小林秀雄の『本居宣長』(新潮社)が新刊として出たとき、好文堂の週間ランキングで第一位だったような気がします。いや、うろ覚えではなく、もうすこしはっきりした記憶です。

新聞の長崎県版に出ていた売上ランクで見たような……。

 

いま、ネットで調べてみたら、四千円!

こんなに高額で、難しい本、いったい、誰が買っていたのでしょう?

一昔前の日本には、なんと読書家が多かったのかと、驚いてしまいます。

それとも、みんな見栄張りだったのでしょうか。

 

でも、今の時代、見栄で買うような本なんて思いつきません。

やはり、小林秀雄が偉かったということなのでしょうか。 

 

文房具屋でも売っていた小林秀雄

私の中学、高校時代は一九七〇年代から八〇年代にかけてですが、そのころ、小林秀雄は「試験に出る評論家ナンバー1」として学校でも推奨されていたので、文庫本になっているものは半ば義務的に読みました。

好文堂まで行かなくても、近所には、店の片隅に本を並べている文房具屋があって、そこにも小林秀雄の文庫本は並んでいました。

 

あと、志賀直哉芥川龍之介島崎藤村漱石

当時は出版社がどこかなんて意識していませんでしたが、このラインナップ、明らかに新潮文庫です。あの文房具屋さんは本屋兼業とはいえ、新潮文庫だけを置いていたと推察されます。

 

いま考えると、小林秀雄は「文房具」だったわけですが、その文房具屋さん兼本屋は跡形もありません。

 

 私の場合、『本居宣長』を単行本で読んだ記憶がなく、上下二冊の文庫本でした。

大学時代かあるいは、社会人になってからでしょうか?

 

 

本居宣長〈上〉 (新潮文庫)

本居宣長〈上〉 (新潮文庫)

 

 

本居宣長の墓について記述はとても印象的でしたが、古事記そのものについては、そんなに踏みこんでいないというか、テーマにはしていなかったような記憶があります。

 

読み直そうとおもいつつ実行していないことを、好文堂の週間ランキングで思い出しました。

 

長崎市というか長崎県の読書界で、好文堂は独占的な権威をもっていたのですが、その後、紀伊国屋書店をはじめ全国チェーンの書店が相次いで出店し、競争はきびしくなっています。

店舗も往時より小さくなってしまい残念ですが、中心商店街である「浜の町」のアーケードにあり、長崎関係の本もきちんとそろえている貴重な本屋さんです。

観光でお越しのおりには、ぜひ、長崎本コーナーをのぞいてください。

 

1985年4月、新人記者の僕は、トランシーバーをもって事件現場に飛び出した

四月ははじまりの季節。新しい職場、新しい学校でこの春の日々をおくっている人も多いとおもいますが、私がY新聞社に勤務していたころの先輩のSさんは四月から、大学教授となって再スタートを切りました。

 

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Y新聞社を辞めて十何年という私はモグリのようなものですが、S先輩の華麗なる転身を祝う会に参加させてもらいました。

すっかり縁遠くなっているので、声をかけてもらえるだけでも、ありがたいことだと思います。

入社当時の一九八〇年代の新聞社について、いろいろ話が出たので、本日はそれを書いてみます。

 

私がY新聞社に入社したのは一九八五年の四月で、浦和支局に配属されました。Sさんは年次で三つ上。

会合は浦和支局に勤務した十人くらいの集まりで、参加メンバーのなかでは私がいちばん若い方でした。

 

無線の国家試験のこと

昔話のひとつとして話題になったのがトランシーバー。

 

事件や火事が起きると、若手の記者は、カメラとトランシーバーをもって現場に飛び出しました。

当時、新聞社の支局は、簡易無線の基地でもあり、トランシーバーの親機というのか、一メートル以上ある大きな装置がありました。

昔の刑事ドラマに出てくるような無線装置といえば、一定以上の年齢の方なら映像を喚起していただけるとおもいます。

 

支局で陣頭指揮をとるデスクはトランシーバーの無線通話によって、現場の記者とやりとりをしました。

 

年齢がばれてしまいますが、ウルトラマン科学特捜隊が、「こちら本部です。現場のハヤタ隊員、聞こえますか、ドウゾ」というのと同じリズムで、「◯◯です。ドウゾ」とやっていました。

なにか芝居がかった感じで、妙に気恥ずかしかった記憶があります。

 

「ドウゾ」というのが、こちらの話は以上で終わりの符丁です。

 

法律の施行細則だかなんだか忘れましたが、国が定めているルールです。

そうした無線通信にかかわる諸々を学ぶために、入社するまえの大学最後の春休み、その貴重な一週間を、トランシーバー使用にかかわる国家資格をとるための講習と試験に費やした暗い思い出があります。

 

だから、二級だか三級だか知りませんが、私は簡易無線にかんする国家資格の保有者です。

このスマホ時代にそんな国家資格が存続していればの話ではありますが。

 

暗室の思い出

Sさんのお祝いの会では、支局にあった「暗室」についても話題となりました。

暗室とは、写真の現像室のことです。

 

当時、カメラで撮影した写真は、自分で現像していました。

だから、締め切りが迫っているときは、事件・事故の現場から支局に戻るとすぐに、暗室に直行します。

白黒のフィルムをロールに巻いて、二種類の液体につけて、うまくいけばフィルムのできあがり。

現像機といったとおもいますが、フィルムに光をあててピントをあわせ、印画紙に焼き付けて、現像液、定着液というこれまた二種類の液体につけると、写真の完成。

 

写真が現像できたら、「写真電送機」なるもので、本社に送る作業です。

回転する写真に接した、針のような突起がすこしずつ移動し、一枚の写真を送るのに五分くらいかかっていました。

あの機械の仕組みは、いまだによくわかりません。

 

写真一枚、送るのにたいへんな時間と労力が必要でした。

いまなら、スマホ一台あれば、写真をとって送信できてしまいます。

もちろん、トランシーバーなんか必要ありません。

 

どうして、暗室が話題になったのかというと、ものすごく恐ろしいデスクの異動が決まったとき、支局員は暗室に飛び込んで、うれし涙で抱き合った──というエピソードからです。

暗室は、デスクの死角となる若手記者たちの自由空間でもあったわけです。

 

ワープロではなく、マジックペンで記事を書いていたこと

私が新聞社に入った一九八五年、まだワープロは新聞社で導入されておらず、原稿用紙にマジックペンで記事を書いていました。

ワープロが導入されたのは入社三年目ではなかったかと思うのですが、いま考えてみると、手書き時代の新聞社で徒弟時代をすごすことができたのは貴重な経験です。

 

トランシーバーをかかえて事件現場であたふたし、暗室で写真の焼き付けに難儀し、原稿用紙に脂汗をたらしていた私は今、パソコンに向かってさえないブログを書き、売れない電子書籍づくりに悪戦苦闘しています。

 

トランシーバー、暗室、原稿用紙。

 

わずか三十年まえなのか、三十年もまえなのか、年代によって感じ方は違うはずですが、この三十年間のメディア環境の激変に改めて驚愕してしまいます。

 

ブログ書きとしての私は<一年生>で、まだまだ見習い、駆け出しの段階です。

方向性が定まらないまま、右往左往していますが、ネット上あるいは電子書籍における日本語表現はどうなるのか気になります。

 

この何年間か、古事記のことばかり考えていたので、古事記にはじまる日本語表現の歴史の過去と未来にも興味があります。

 

古事記にはじまる<本>の歴史。

新聞とかネットとかの<メディア>の歴史。

日本列島における言葉の歴史。

 

そうした大きな流れのなかで、ブログや電子書籍について考えることができれば面白いとおもうのですが、相変わらず、その場その場の仕事を処理するだけで一日が終わってしまいます。

 

宴会の酩酊のように話が拡散してしまいましたが、はじまりの季節の四月、新しい決意でこのブログにもとりくんでみるつもりです。