桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

武藤与四郎『日本における朱の経済的価値とその変遷』──日本列島の鉱山史としての邪馬台国論

朱・辰砂・水銀ブックリスト③

 

朱(辰砂)の鉱山の開発が、邪馬台国の建国につながった──というユニークな論点の本が、一九六九年に刊行されています。それが今回、紹介する『日本における朱の経済的価値とその変遷』です。

鉱山史という視点から書かれた本ではありませんが、著者は鉱山事業者であり、日本列島の<朱の鉱山史>の登場人物であるといえます。

 

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版元は小宮山書店と記されていますが、価格は表示されておらず、簡易な装幀であることから、自費出版ではと推量されます。50ページ足らずの小著ですが、「朱の歴史学」における先駆的な論考です。(国立国会図書館所蔵)

 

 

鉱山事業者であり郷土史

日本列島の鉱山史において、金、銀、銅あるいは鉄よりも古く、本格的な鉱山事業が営まれていたことが知られています。それは朱(辰砂)の採掘です。

中国や朝鮮半島への輸出が始まった時期は不詳ですが、古代から室町時代まで盛んに輸出された記録が残っています。朱は塗料としてのみならず、薬品としての利用価値があったからですが、古代においては不老長寿を掲げる神秘的な医薬品の素材として途方もない価値をもっていたともいわれています。

朱の産地は、火山活動にともなって形成される熱水鉱床として見出されます。火山地帯である日本列島は、東アジアで有数の朱産地であったのです。

 

『日本における朱の経済的価値とその変遷』の著者、武藤与四郎氏は独立系の鉱山事業者で、三重県の伊勢地方にあった朱(水銀)の鉱山にもかかわっています。武藤氏は経済人であるとともに、郷土史家としての顔をもち、東京・北区の歴史を述べた『北区誌』(新人物往来舎)という著作があります。

江戸時代には代々、続いた庄屋の家であったといい、幕末には、幕府による大砲製造の事業に関与し、資金的にも協力していたそうです。という次第で、明治時代になったころには、旧家も傾き、武藤氏の育ったころには、家に伝わる古文書だけが往時の証言者でした。

 

幼少の頃より僅か残されてあった古文書を懐古の思いで、判読に苦しみ乍らも年月をかけて繰り返しては丹念に読んだものだ。

その関係か、古の伝承と世代の変化とに興味を持ち始め古代の人々が経済原資を何所に求めたのか、特に物交時代の生活はどうして賄われたのか、ということから詮索して見たいと思うようになったのである。

(『日本における朱の経済的価値とその変遷』 前書)

 

 鉱山事業者としての武藤氏は、戦前の昭和期に、アルミナを多量にふくむ耐火鉱石の紅柱石を福島県玉川村で発見、採掘しています。戦闘機の製造に必要な鉱石であったようで、「当時の海軍省に度々出入りするようになった」といいます。そこから軍部が主導した朱・水銀の古代鉱床の再開発にかかわることになり、<朱の歴史学>を構想する端緒になったようです。

拙著『邪馬台国は「朱の王国」だった』(文春新書)に、その背景をまとめていますので引いておきます。

 

第二次世界大戦中の日本は、米国、英国をはじめとする連合国の経済封鎖により、鉄、石油をはじめとする資源が輸入できなくなり、採算度外視で国内資源を求めていた時期があります。朱の鉱石を素材としてつくられる水銀もそのひとつでした。

水銀は潜水艦や軍艦の塗装、火薬の起爆剤に欠かせないため、古代、中世の鉱床の再開発が急がれ、武藤氏は三重県多気町の丹生地区で朱の鉱床を調査しています。国内有数の古代朱産地のあったところです。

 

古代以来、日本は中国や朝鮮半島へ朱・水銀を輸出していましたが、室町時代には枯渇の色を濃くし、江戸時代には輸入国に転じていました。

明治以降、近代的な鉱山技術を導入しての再開発がすすめられたほか、戦前の昭和期における北海道での有望な鉱床の発見、さらに軍部による採算度外視の採掘が重なり、第二次世界大戦の時期、国産水銀の世界シェアは四・五%まで増え、国別の生産量でも七位になっています。

戦時中の突貫工事がもたらした記録とはいうものの、日本列島には世界有数の朱の鉱床があることを実証することになりました。この本の著者は、戦中期に生じた朱の鉱床の再開発に関与しているのです。

 

武藤氏の「卑弥呼=渡来人」説

 

『日本における朱の経済的価値とその変遷』は、卑弥呼の治めた邪馬台国を、朱(辰砂)の採掘で繁栄した商業的国家として描いています。50年ほどまえに書かれた本ですが、現時点においても、非常にユニークな視点だと思います。拙著『邪馬台国は「朱の王国」だった』を企画するとき、最も影響をうけたのはこの本でした。

 

朱の採掘と輸出によって、日本列島に一種の好景気が発生し、その活況のなかで、邪馬台国が誕生し、巨大古墳の時代が始まった──という武藤氏のアイデアは非常に魅力的です。

 

その邪馬台国論を史実としてそのまま認めるのは難しいとは思いますが、ここで紹介していみます。

武藤氏の提示している説によると、卑弥呼は大陸からの日本列島に移住してきた渡来人であり、邪馬台国は渡来人集団によって建国されたというのです。 

 

 西暦二百二十年頃、卑弥呼と称された、聡明で若く美しい女王に引率された一大集団が我が国へ渡来し来り、一旦九州の筑紫へ上陸した。その地を邪馬台国という。

(『日本における朱の経済的価値とその変遷』P11)

 

その後、卑弥呼の集団は、伊勢に移り、そこを拠点とした。それは伊勢が、朱の一大産地であったからというのです。

卑弥呼にまつわる歴史的な記憶が、天照大神として継承されたと述べているので、武藤氏の説は、「邪馬台国・伊勢」説であり、「卑弥呼=アマテラス」説であるといえます。

 

巨大古墳の財源としての朱

私が武藤氏の論考を読んで、最も共感したのは、巨大古墳が造営された背景に、朱の採掘と輸出による繁栄を見ていることです。

三世紀から六世紀は、古墳時代と呼ばれ、世界的にも突出した規模の墳墓が各地で造営されており、弥生時代とは隔絶した豊かさを誇示しています。大阪府堺市の仁徳陵古墳(全長四八六メートル。宮内庁による近年の測量では五二五メートル)は、中国の始皇帝陵(全長三五〇メートル)、エジプトのクフ王(全長二三〇メートル)のピラミッドとともに世界三大墳墓ともいうそうです。

 

奈良県桜井市に出現した前方後円墳は、各地に広がりますが、その財源については、従来、農業生産性の向上とする解釈が支配的でした。しかし、その後の実証的な研究では、弥生時代古墳時代を隔てるほどの画期的な技術革新があったとは思えないという見方も出されています。

 

古墳造営の財源を、朱の採掘と輸出とする見方は、もちろん、ひとつの仮説にすぎないのですが、私は説得力を感じます。

 

応神陵や、十四万坪に及ぶ仁徳陵はいづれも世界一の広域のものと云うがその建設の費用も莫大なものであったろう。(中略)右古代国家の建設に果たした朱の役割は、きわめて大きかった。

(『日本における朱の経済的価値とその変遷』P1)

 

歴史の叙述としては、非常に隙の多いものかもしれませんが、『日本における朱の経済的価値とその変遷』が無視できない価値をもっているのは、朱の採掘現場に立って、古代の日本を遠望していることです。

武藤氏という鉱山師によって提示されたのは、朱の鉱山の歴史と邪馬台国の歴史がリンクする可能性です。それは、日本列島の古代史を考えるうえで非常に意味のあるアイデアだと思うのです。

展覧会図録『縄文 1万年の鼓動』── <朱の日本史>は縄文時代に始まる

朱・辰砂・水銀ブックリスト②

 

今回、紹介する<朱の本>は、現在、東京・上野の国立博物館で開催中の『縄文 1万年の鼓動』の図録です。7月20日刊行の拙著『邪馬台国は「朱の王国」だった』(文春新書)の参考文献ではないですが、朱の日本史をかんがえるうえで看過できない資料なのでここでとりあげてみます。

 

展覧会の会期は9月2日まで。残念ながら、この図録は、一般書店では販売されていませんが、東京国立博物館ミュージアムショップでは会期終了後も販売されるようです。

 

意外とこの手の展覧会図録は、図書館にあったりもします。ぜひ、<朱の歴史>という視点から、縄文の美術を見直していただきたいと思います。

www.tnm.jp

 

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朱の国・日本のルーツは縄文時代にあり

 

<朱の日本史>における3つのエポックを選ぶとすると、以下のようになると思います。

 

  1. 1500万年まえ(新第三紀・中新世)の巨大な火山活動で、奈良、伊勢に日本列島最大の朱の鉱床が形成される。
  2. 縄文時代、朱の初期的な採掘がはじまり、土器、木櫛などに朱色の装飾がほどこされる。
  3. 1970年代、奈良、伊勢で稼行していた朱(水銀)鉱山が閉山。日本列島における朱の商業的採掘はこの時点で終了。

 

縄文時代は、日本のものづくり文化において、朱の利用がはじまった時代でもあります。

「縄文 1万年の鼓動」展の会場を訪れ、そのことを再認識した次第です。

 

第一展示室を入ってすぐのところに、「漆塗注口土器」と命名されている鮮やかな赤味を帯びた土器がありました。かんたんに言えば、日本茶をいれる急須の形です。

説明文によると、この赤色は「朱漆」であるそうです。展覧会図録『縄文 1万年の鼓動』ではアップ写真が掲載されており、あざやかな朱の輝きを確認できます。

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粘着の性質をもつ漆に、朱(辰砂、硫化水銀)を混ぜ合わせ、土器を朱色に彩っているのです。これは、現在の朱色の漆器と基本的には同じ彩色手法で、朱塗りの伝統が縄文時代にはじまっていることを教えてくれます。

 

この土器が見つかったのは、北海道八雲町と説明されています。

北海道は九州と並ぶ火山の密集地で、火山活動に由来する朱の鉱床が数多くあります。

 

朱の鉱石は風化しやすく、砂状の朱となって川底や地面のくぼ地に堆積するので、縄文時代の人たちの目にも、美しい朱色の砂として目に入っていたはずです。

とくべつの採掘技術がなくても、朱砂は手に入るものなので、北海道で朱塗りの縄文土器が出土するのは、まったく自然なことです。

 

もっとも、北海道はヤマト王権および古代日本の版図ではありませんから、邪馬台国以降の<古代の朱>とはかかわっていません。北海道で本格的な朱・水銀の商業的採掘がはじまるのは、戦前の昭和期でもはや現代史の範疇です。

 

 赤色の木櫛

 同じ第一展示室に、埼玉県桶川市出土の「漆塗櫛」があって、これも赤色がほどこされていますが、こちらはベンガラ(酸化鉄)であると説明されています。

 

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このほかにも、赤の装飾をもつ土器がかなりの数、展示されていましたが、朱(辰砂)による赤色なのか、ベンガラ(酸化鉄)の赤色なのか、展覧会図録『縄文 1万年の鼓動』の解説文を読んでも、はっきりと書かれていないものが少なくありません。おそらく未検査なのだと思います。

 

一般的な説明のうえでは、朱のほうがあざやかな光沢をもつ赤色となり、ベンガラはややくすんだ色になるとされています。

貨幣的な価値においては、朱のほうがはるかに上回っていますが、それは彩色の素材としての優秀さに加え、薬品としての利用をはじめ、朱には化学的な素材としての価値が認められていたからです。水銀をつくり出す素材としての価値です。

 

色彩の良し悪しを縄文時代の人たちが認識していたのかどうか不明ですが、朱の彩色に特別の価値を見いだしていたのかもしれません。

 

「縄文 1万年の鼓動」の展示会場を歩いていると、思いのほか、朱(あるいはベンガラ)によって彩色された縄文土器が多いことが印象に残りました。

朱、ベンガラの赤色をのぞけば、黒色の装飾があるくらいです。

 

日本のやきものの歴史で、釉薬による緑色系統の彩色がはじまるのは、平安時代のことですから、縄文時代にはじまる長い、長い期間、<赤と黒の時代>がつづいたことになります。

 

千利休の茶道に深くむすびついている楽家の茶碗が、赤と黒であることも、縄文時代以来の彩色土器と無縁ではない──と考えている人も少なからずいるようです。

 

日本人の美意識において、<赤>がいかに重要であるかは言うまでもありませんが、そこに朱の歴史とのつながりを見たいとおもいます。

 

伊勢地方の<朱の縄文遺跡>

邪馬台国は「朱の王国」だった』がメインテーマとしているのは、邪馬台国の時代である三世紀から奈良時代までの<朱の日本史>ですが、縄文時代についてもすこしだけ言及しています。 すこし長くなりますが、その部分を引用します。

 

伊勢神宮の内宮から西に約十キロ、三重県度会郡度会町の宮川の右岸で一九八六年から三次にわたる発掘調査によって、朱石を磨りつぶすための石器、朱の鉱石、朱で内部が真っ赤に染まった土器が大量に発見されました。

森添遺跡と命名され、土器によって約三千年まえの縄文時代の後期末から晩期にかけての遺跡であると判明したのですが、調査責任者の奥義次氏を困惑させたのは、三重県では見かけない形状の土器がたくさん混じっていることでした。

その後の調査によって、東北、北陸、長野県など中部高地の土器であることがわかり、縄文時代の交易ネットワークとして注目されることになりました。その背景がすべてわかっているわけではありませんが、奥氏をはじめとする研究者は、伊勢に産出する朱を求めて、日本列島各地の人たちがこの地を訪れていると解釈しています(『三重県史 通史編 原始・古代』)

 

伊勢地方の<縄文の朱>を展示した「度会町立ふるさと歴史館」(開館日は毎週木曜と第二、第四日曜)のことは、以前、このブログでも紹介しました。

朱の考古学の第一人者である奥先生からレクチャーをうけたのはこの小さな博物館でした。

 

朱塗りの縄文土器。その素材である朱(辰砂)は、どのように入手したものだったのでしょうか。

 「縄文 1万年の鼓動」の展覧会では、朱の入手ルートについては話題とされていませんが、個人的には、どうしてもそのあたりが気になります。 

 

motamota.hatenablog.com

 

 

三重県の県紙「伊勢新聞」に紹介していただきました。

 伊勢新聞の8月5日付文化面で、拙著『邪馬台国は「朱の王国」だった』(文春新書)を紹介していただきました。

 

三重県かんれんの新刊書をとりあげる「三重の本 書評」というコーナーで、五段組の大きな扱いです。

 

 

 

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三重県の伊勢地方は、奈良県宇陀市桜井市エリアと並ぶ朱・水銀の巨大産地で、『邪馬台国は「朱の王国」だった』の主要舞台のひとつです。伊勢神宮の歴史も、朱の視点からクローズアップしています。

 

日本地質学会が公表している「県の石」で、三重県の石は辰砂、すなわち朱の鉱石です。

 

朱の歴史において大きな役割を演じた三重県の新聞で、こうして取り上げていただけるのはありがたいかぎりです。

 

書評記事には、地元の新聞らしく、

三重、奈良両県にまたがる室生火山群や、水銀産地だった多気町丹生に痕跡をとどめる。

 

と地域にふれた解説もなされています。

謎の知識人集団のウェブサイトに紹介文を載せてもらいました。

拙著『邪馬台国は「朱の王国」だった』についての紹介文を、大学時代の友人M君たちが共同運営しているウェブサイトに載せてもらいました。

 

winterdream.seesaa.net

 

うちわぼめ御免

いわゆる〝うちわぼめ〟というやつですから、たっぷり眉に唾をつけて読んでいただければと思います。

元新聞記者で、脳みその中は半端な読書と耳学問で得た知識だけ、専門知識に欠ける私の書いた文書を、ごく自然にすくい上げてくれています。

短所は、裏から見ると、長所ということ?

 

蒲池さんが書く歴史本のアプローチが面白いのは、歴史学、考古学、科学から、伝承にまで目くばりを効かせ、思わずうなずく視点を示しつつ話を進めるところだ。

この本のアングルもそうだが、専門学説のみならず地域の歴史家らの案にも注目、机上研究だけでなく多くの地域を歩いて探り、現代の眺めに古代の風景をさりげなく浮かばせて、読書の楽しさに実感を加えてくれる。

 

M君たちのサイトは「趣味的偏屈アート雑誌風同人誌」というとおり、グループによる運営であるのですが、その前身は高校時代にやっていた同人誌にあるそうです。

詳しいことは聞いていませんが、どうもかなりハイレベルな芸術、思想、文芸についての高校生同人誌だったように推察しています。というのも、M君は私が属していた大学のゼミの知的指導者であったからです。大学二年生時点で、M君はすでに<知識人>の風貌をもっていました。

 

最近、おもいついた「読書家二分類」の新説

最近、思い至ったのですが、読書家を自称する人(昔の言葉でいえば知識人)は二つのグループに分類できるのではないでしょうか。(サンプル上の制約により、日本人男性についての分類)

① 高校時代、幅広く深い読書をした人

② 高校時代、大学受験を優先し、限られた読書しかしていない人

 

小学校にはじまる学校教育では、「読書」を推奨して、子どもたちに本に親しませようとしていますが、中学、高校になって、度を過ぎた読書によって、勉強に支障が出ることさえあります。

友人のM君は明らかに、①に分類すべき人です。たぶん、その仲間の同人誌およびウェブサイトのメンバーも同類なのではないでしょうか。

 

自分の知人のうち、①のグループに属する読書家が、数人、思い浮かびますが、どこか共通点があるのです。

 

私はマルクス柳田国男も、大人になってから購入(あくまでも購入!)しましたから、明らかに②です。

私は読書家を自称するほど、本を読んでいるわけでもないので、②に入るかどうかも微妙です。

仮に、大人になって懸命の読書をして猛追したとしても、①の分類の人たちと同じ世界を共有することはできないのではと思います。

 

①グループと②グループの違いは、読書量とは別の問題です。

学歴とも無縁です。

 

高校時代に豊かな(過剰な?)読書をしたかどうかで、どうして、二分類が可能なほどの違いが生じるのでしょうか──。

と私が言っているだけですが。

そこには、人間の精神と本をめぐる、妖しく、怖ろしい問題が横たわっているような気もしますが、簡単に答えが出そうにないテーマなので、本日はこのあたりでやめておきます。