桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

寒立馬──下北半島で自然放牧される馬たち

2020年1月20日刊行の文春新書『「馬」が動かした日本史』にかかわる写真を中心に関連する記事を書いています。今回は下北半島の話題です。

 

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下北半島の北東部突端にある尻屋崎(青森県下北郡東通村)に、自然放牧されている野飼いの馬が三十頭ほどいます。「寒立馬(かんだちめ)」の愛称で知られている馬たちです。

一頭ごとに外見が異なるのは、さまざまな種類の馬が混血した雑種であるからです。 

 

 

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現在、尻屋崎の放牧地にいる馬たちは、アングロノルマンなどによって〝改良〟された南部馬の子孫が、さらにブルトン種などと交配された馬です。

お腹ポッチャリで、下半身はがっしり。そうした体形は日本の馬の特徴を保っているものの、カラフルな毛並みをした馬が多く、良くいえばハーフ美人の雰囲気があります。

 

 

 

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白い灯台のある岬の突端が馬たちのお気に入りであるのは、海からの風が最も強く吹く場所だからです。海風は馬にまとわりつくアブ、ハエを追い払ってくれるのです。

私が訪れた日は、快晴でしたが、台風の接近時のような強い風が吹きつづけていました。

海辺など強い風の吹く土地は大きな木が育ちにくいので、草原的な環境が形成されます。

学術用語では「風衝草原」というそうです。

 

四方を海に囲まれ、山や谷が複雑な地形を作る日本列島は、局所的な強風地の多い「風の国」でもあると、気象学者の吉野正敏氏は著書『風の世界』で述べている。

鯉のぼり、たこ揚げ、風車(かざぐるま)。そうした風にまつわる伝統行事や子供の遊びが多いのも、「風の国」ならではの光景だ。

恐山の霊場水子供養の空間でもあるが、硫黄をふくんだ黄色い岩地に水子地蔵が置かれ、花の代わりに手向けられたおびただしい数の赤い風車がカサカサと音をたてつづけていた。

そういえば、宮崎県の都井岬でもたえず海風が吹いていたし、群馬県も「カカア天下とからっ風」の土地柄だ。

大阪・河内地方の花園ラグビー場東大阪市)といえば、生駒山から吹いてくる「生駒(いこま)颪(おろし)」。正月の全国高校ラグビー大会では、勝敗を左右するほどの強風がしばしば話題となる。(『「馬」が動かした日本史』第四章)

 

 

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下北半島の強風を利用した風力発電の風車が、車窓から見えました。

 

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水子地蔵のまわりにはたくさんの風車

立馬の放牧場の近くには、仏教霊場として名高い恐山があります。

恐山は水子供養の聖地でもあります。

花の代わりに手向けられた風車がカサカサと回り続けていました。

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風車の背景には恐山

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 硫黄によってイエローに染まった地面。

恐山は気象庁により指定されている活火山のひとつです。

馬産地の背景に、火山的な土壌が見えるのは、ほかの馬産地と共通しています。

 

古墳時代の「河内の馬飼い」の記憶をとどめる大阪府四條畷市

2020年1月20日刊行の文春新書『「馬」が動かした日本史』にかかわる写真を中心に、関連する話題を書いています。第2回は、大阪府の河内地方にあった古墳時代の馬産地についてです。

 

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古墳時代の河内地方には、ヤマト王権の牧があったといわれています。その中心は、大阪府四條畷市にありました。「讃良(さらら、ささら)の牧 」です。

四條畷市立歴史民俗資料館では、古墳時代の馬産地にかかわる資料を見ることができます。

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馬の赤ちゃんという説のある埴輪。古い本には犬の埴輪として紹介されていますが、現在は、子馬説が有力だそうです。

 

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「サララの牧」の風景を復元する大型サイズの絵が展示されています。

この絵画作品は博物館のスタッフが描いたそうです。みごとな出来映え!

 

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馬の全身骨格が出土

四條畷市には市内のそこら中に、古代の馬にかかわる遺跡が点在しています。その中でも、寝屋川市との市境にある蔀屋(しとみや)北遺跡は見晴らしもよく、パネルや復元など遺跡説明の施設が最も整っています。

大阪府の「なわて水みらいセンター」の建設工事にともなう発掘調査で、馬一体分の全身の骨が発見された場所です。

 

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野島館長が指さす方向に古代の牧場はあったらしい。

いちばん知りたかったのは、四條畷市の周辺に古代の馬牧がつくられた地理的、風土的な条件だ。蔀屋北遺跡から一望できる生駒山(標高六四二㍍)を指さしながら、野島館長はこのように説明してくれた。

生駒山系の急斜面を馬は上れません。山から流れる川はいくつかに分かれ、天然の柵になっている。そして古墳時代には、この蔀屋北遺跡のすぐ目の前は海だったのです。山と海、川に囲まれた東西二㌔㍍、南北三㌔㍍の長方形が牧の範囲として想定されています」

海というのは、現在の大阪平野に深く入り込んでいた内海、いわゆる河内湖だ。縄文時代の高温期に最も拡大した内海は次第に縮小していたが、この当時、まだ残っていた。

(文春新書『「馬」が動かした日本史』)

 

 

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四條畷市に鎮座する忍陵神社の近くに、かつて馬守神社という古代馬産地に由来する神社があったそうです。その神社はなくなりましたが、御祭神であった「馬守大神」は、忍陵神社に合祀されています。

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河内地方の古代馬産地を知るには、四條畷市は訪れるべき場所です。

 

 

 

 

御崎馬──宮崎県串間市に生息する半野生の馬

2019年1月20日刊行の文春新書『「馬」が動かした日本史』にかかわる写真を中心に、関連情報を紹介します。第1回は、宮崎県串間市にいる日本固有の馬である御崎馬(みさきうま)です。

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宮崎県でも最も南にある串間市。さらにその南端の都井(とい)岬に、百二十頭ほどの馬が自然放牧されています。

完全な放し飼いなので、広い放牧地のどこに馬がいるかは、その日の馬の気分次第。車でなければ、馬の群を探すのは大変と聞いていたので、レンタカーを借りてJR串間駅から都井岬に向かいました。

 

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放牧地は五・五平方㌔㍍。しばらく、うろうろしたあと、比高五〇㍍ほどの丘のような場所に十八頭の馬の群がいるのを見つけました。

 

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ほかに来訪者もいなく、びくびくしながら接近したのだが、まったく気にするそぶりもなく、黙々と草を食べ続けています。睡眠中以外のほとんどは食事時間で、一日に四十㌔㌘(生重量)ほどの草を食べるそうです。

 

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それにして、宮崎県にいる馬がどうして、feral horse(再野生化した馬、半野生の馬)として分類されているのでしょうか。

 

御崎(みさき)馬(うま)は江戸時代、秋月氏高鍋藩(宮崎県高鍋町串間市など)が管理していた放牧地にいた馬の子孫だ。江戸時代から一年を通して放し飼いされ、自然の植物だけを食べて生活していた。

明治以降、地域住民の所有となったが、やがて販売目的が失われ、人間による管理がほとんどなくなったあとも、馬たちは同じ場所で暮らしている。エサとなる草は豊富にあるから、人間の手を借りなくても、馬たちは群をつくり、野生動物としてのルールに沿って暮らしているのだ。

人の手を介すことなく生殖し、世代をつないでいる。そのユニークな生態が半野生の馬として注目され、京都大学の霊長類研究の草分けでもある今西錦司氏をはじめ、内外の研究者によって報告されている。

(文春新書『「馬」が動かした日本史』)

 

 

 

 

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放牧地は広大で、馬のいる場所を探すのは意外とたいへんです。

まず最初に、灯台の近くにあるビジターセンターを訪れ、馬が集まるポイントを聞いておくのがいいようです。

ビジターセンターには、馬がいる場所を示す地図があって、最新の情報が提供されていました。

 

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縄文時代の「朱」の遺跡、徳島県で発見

2019年2月19日付けの新聞各紙に、徳島県阿南市縄文時代の朱(辰砂、水銀朱)の生産遺跡が発見されるという記事が出ていました。

 

徳島県阿南市は、弥生時代の朱の生産遺跡のある場所として有名ですが、縄文時代にさかのぼるとは!

今後のさらなる調査が期待されます。

 

これは共同通信の配信記事です。

 

縄文の「朱」生産遺跡 徳島、石臼や赤い耳飾りも

徳島県阿南市の加茂宮ノ前遺跡で、古代の赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千~3千年前)の石臼や石きね300点以上のほか、朱が塗られた耳飾りが出土し、県教育委員会が19日までに、発表した。

加茂宮ノ前遺跡で出土した、朱が塗られた耳飾り3点(18日午後、徳島県阿南市)加茂宮ノ前遺跡で出土した、朱が塗られた耳飾り3点(18日午後、徳島県阿南市三重県度会町の森添遺跡などでも縄文後期の朱の原石や朱が付着した土器が見つかっているが、水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多としている。

今回、原料となる石も出土しており、朱を生産していた可能性がある。朱が塗られた土器も見つかり、当時の具体的な使用状況が分かるという。

石を円形に並べた遺構も16基見つかった。直径約1~3メートルで、小石が敷き詰められており、祭祀(さいし)用とみられる。縄文時代後期では東日本を中心に石を並べた環状列石が見られるが、西日本では珍しい。

約5キロ離れた若杉山遺跡(同市)では弥生―古墳時代に朱を採掘していたとみられる坑道跡が発見されている。

同志社大の水ノ江和同教授(考古学)は「縄文時代の水銀朱の生産過程がよく分かる。付近には原石が採取できる若杉山があり、水銀朱が大規模に生産されていた可能性がある。祭祀遺構と住居跡が同時に見つかっており、集落の景観を考える上でも重要な成果」と話した。

弥生や古墳時代では墓や遺体に朱がまかれている例がある。

現地説明会は23日午前10時~11時半、午後1時~2時半の2回。〔共同〕