桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

野馬土手──千葉県の各地に残る幕府直営牧場の遺構

拙著『「馬」が動かした日本史』(文春新書)掲載のこの地図は、幕府直営牧場の領域を示したものです。江戸時代半ばの地図をもとに、千葉県が復元したものですが、下総国(千葉県北部)の五分の一くらいを放牧地が占めている印象で、にわかに信じられないような広さです。

 

 

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幕末期の飼育頭数は小金牧千頭、佐倉牧三千頭、嶺岡牧千頭と推計されています(大谷貞夫『江戸幕府の直営牧』)。

一か所あたりの飼育頭数でいえば、佐倉牧はこの時期、国内最大級の牧場です。

 

千葉県にあった幕府直営牧場のはじまりは、徳川家康の時代にさかのぼるとも言われていますが、創設期の実態については不明な点が多くあります。

 

幕府の放牧地の柵や馬の誘導のために造られた土手が、千葉県の各地に残っています。

これが、野馬土手(のまどて)です。 

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知らずに歩くと、単なる林にしか見えない。

これはJR南柏駅から、十分たらずの場所にある「松ヶ丘野間土手」。

保存状態が良好な野馬土手のひとつで、詳しい説明パネルもあるので、野馬土手の見学にはお勧めのポイントです。

 

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柏市側に馬の放牧地があり、流山市のほうにある民家、田畑との境界線に野馬土手が築かれていました。

 

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土手と土手の間に、堀がつくられているので、比高でいうと、四、五メートルありそうです。

 

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ここが、土手のあいだの堀の部分。

 

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中野牧跡の見学会

 

野馬土手をもう一か所、紹介します。

新京成線の北初富駅から東に約三〇〇㍍。千葉県鎌ケ谷市のこのあたりは「下総小金中野牧跡」として国史跡に指定されています。

 

鎌ケ谷市役所の主催による野馬土手の見学会があったので、取材をかねて、参加させていただきました。

見学会のあったこの場所を、捕込(とっこめ)といいます。

 

一年に一度、放牧地で暮らしている何百頭という馬を一か所に駆り集めて、幕府の役人が馬を吟味し、優良な馬は放牧地から離され、乗馬としての調教を受けました。

民間に売却される馬もピックアップされ、それ以外は再び牧に戻されます。

馬たちを追い詰めて、最後に誘導する施設を捕込といいました。

 

「下総小金中野牧跡」は小金牧跡地に残っている唯一の捕込の跡。一〇〇㍍四方の広さが土手によって三区分されており、持ち出す馬、牧に戻す馬を分けて、一時的に置いておくスペースができていました。

 

 

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鎌ケ谷市の新富中学校の校庭に沿ったところにも、野馬土手があります。

放牧地にいる馬たちを水飲み場に誘導するための土手なので、それほど高くありません。

 

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文化庁などによって作成されたパネルには、「馬は牧の中で放し飼いされ、水のみ場のほかはえさも与えられず、ほとんど野生の馬だったことから、野馬と呼ばれていました」と説明されています。

 

 

「ほとんど野生の馬」とはどういう意味なのか。

なぜ、由緒正しい幕府の牧場に「ほとんど野生の馬」がいたのか。

説明パネルを前にいくつもの疑問が生じた。

「野馬(のま)」とは何なのか。ここにも「馬の日本史」のひとつの謎がある。(文春新書『「馬」が動かした日本史』)

 

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馬の産地ではよく見かける馬頭観音

 

 

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アパートに沿った緑地。

その正体は、野馬土手でした。

 

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土を積み上げて、土手をつくった歴史が見えてきそう。

 

寒立馬──下北半島で自然放牧される馬たち

2020年1月20日刊行の文春新書『「馬」が動かした日本史』にかかわる写真を中心に関連する記事を書いています。今回は下北半島の話題です。

 

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下北半島の北東部突端にある尻屋崎(青森県下北郡東通村)に、自然放牧されている野飼いの馬が三十頭ほどいます。「寒立馬(かんだちめ)」の愛称で知られている馬たちです。

一頭ごとに外見が異なるのは、さまざまな種類の馬が混血した雑種であるからです。 

 

 

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現在、尻屋崎の放牧地にいる馬たちは、アングロノルマンなどによって〝改良〟された南部馬の子孫が、さらにブルトン種などと交配された馬です。

お腹ポッチャリで、下半身はがっしり。そうした体形は日本の馬の特徴を保っているものの、カラフルな毛並みをした馬が多く、良くいえばハーフ美人の雰囲気があります。

 

 

 

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白い灯台のある岬の突端が馬たちのお気に入りであるのは、海からの風が最も強く吹く場所だからです。海風は馬にまとわりつくアブ、ハエを追い払ってくれるのです。

私が訪れた日は、快晴でしたが、台風の接近時のような強い風が吹きつづけていました。

海辺など強い風の吹く土地は大きな木が育ちにくいので、草原的な環境が形成されます。

学術用語では「風衝草原」というそうです。

 

四方を海に囲まれ、山や谷が複雑な地形を作る日本列島は、局所的な強風地の多い「風の国」でもあると、気象学者の吉野正敏氏は著書『風の世界』で述べている。

鯉のぼり、たこ揚げ、風車(かざぐるま)。そうした風にまつわる伝統行事や子供の遊びが多いのも、「風の国」ならではの光景だ。

恐山の霊場水子供養の空間でもあるが、硫黄をふくんだ黄色い岩地に水子地蔵が置かれ、花の代わりに手向けられたおびただしい数の赤い風車がカサカサと音をたてつづけていた。

そういえば、宮崎県の都井岬でもたえず海風が吹いていたし、群馬県も「カカア天下とからっ風」の土地柄だ。

大阪・河内地方の花園ラグビー場東大阪市)といえば、生駒山から吹いてくる「生駒(いこま)颪(おろし)」。正月の全国高校ラグビー大会では、勝敗を左右するほどの強風がしばしば話題となる。(『「馬」が動かした日本史』第四章)

 

 

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下北半島の強風を利用した風力発電の風車が、車窓から見えました。

 

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水子地蔵のまわりにはたくさんの風車

立馬の放牧場の近くには、仏教霊場として名高い恐山があります。

恐山は水子供養の聖地でもあります。

花の代わりに手向けられた風車がカサカサと回り続けていました。

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風車の背景には恐山

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 硫黄によってイエローに染まった地面。

恐山は気象庁により指定されている活火山のひとつです。

馬産地の背景に、火山的な土壌が見えるのは、ほかの馬産地と共通しています。

 

古墳時代の「河内の馬飼い」の記憶をとどめる大阪府四條畷市

2020年1月20日刊行の文春新書『「馬」が動かした日本史』にかかわる写真を中心に、関連する話題を書いています。第2回は、大阪府の河内地方にあった古墳時代の馬産地についてです。

 

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古墳時代の河内地方には、ヤマト王権の牧があったといわれています。その中心は、大阪府四條畷市にありました。「讃良(さらら、ささら)の牧 」です。

四條畷市立歴史民俗資料館では、古墳時代の馬産地にかかわる資料を見ることができます。

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馬の赤ちゃんという説のある埴輪。古い本には犬の埴輪として紹介されていますが、現在は、子馬説が有力だそうです。

 

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「サララの牧」の風景を復元する大型サイズの絵が展示されています。

この絵画作品は博物館のスタッフが描いたそうです。みごとな出来映え!

 

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馬の全身骨格が出土

四條畷市には市内のそこら中に、古代の馬にかかわる遺跡が点在しています。その中でも、寝屋川市との市境にある蔀屋(しとみや)北遺跡は見晴らしもよく、パネルや復元など遺跡説明の施設が最も整っています。

大阪府の「なわて水みらいセンター」の建設工事にともなう発掘調査で、馬一体分の全身の骨が発見された場所です。

 

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野島館長が指さす方向に古代の牧場はあったらしい。

いちばん知りたかったのは、四條畷市の周辺に古代の馬牧がつくられた地理的、風土的な条件だ。蔀屋北遺跡から一望できる生駒山(標高六四二㍍)を指さしながら、野島館長はこのように説明してくれた。

生駒山系の急斜面を馬は上れません。山から流れる川はいくつかに分かれ、天然の柵になっている。そして古墳時代には、この蔀屋北遺跡のすぐ目の前は海だったのです。山と海、川に囲まれた東西二㌔㍍、南北三㌔㍍の長方形が牧の範囲として想定されています」

海というのは、現在の大阪平野に深く入り込んでいた内海、いわゆる河内湖だ。縄文時代の高温期に最も拡大した内海は次第に縮小していたが、この当時、まだ残っていた。

(文春新書『「馬」が動かした日本史』)

 

 

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四條畷市に鎮座する忍陵神社の近くに、かつて馬守神社という古代馬産地に由来する神社があったそうです。その神社はなくなりましたが、御祭神であった「馬守大神」は、忍陵神社に合祀されています。

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河内地方の古代馬産地を知るには、四條畷市は訪れるべき場所です。

 

 

 

 

御崎馬──宮崎県串間市に生息する半野生の馬

2019年1月20日刊行の文春新書『「馬」が動かした日本史』にかかわる写真を中心に、関連情報を紹介します。第1回は、宮崎県串間市にいる日本固有の馬である御崎馬(みさきうま)です。

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宮崎県でも最も南にある串間市。さらにその南端の都井(とい)岬に、百二十頭ほどの馬が自然放牧されています。

完全な放し飼いなので、広い放牧地のどこに馬がいるかは、その日の馬の気分次第。車でなければ、馬の群を探すのは大変と聞いていたので、レンタカーを借りてJR串間駅から都井岬に向かいました。

 

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放牧地は五・五平方㌔㍍。しばらく、うろうろしたあと、比高五〇㍍ほどの丘のような場所に十八頭の馬の群がいるのを見つけました。

 

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ほかに来訪者もいなく、びくびくしながら接近したのだが、まったく気にするそぶりもなく、黙々と草を食べ続けています。睡眠中以外のほとんどは食事時間で、一日に四十㌔㌘(生重量)ほどの草を食べるそうです。

 

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それにして、宮崎県にいる馬がどうして、feral horse(再野生化した馬、半野生の馬)として分類されているのでしょうか。

 

御崎(みさき)馬(うま)は江戸時代、秋月氏高鍋藩(宮崎県高鍋町串間市など)が管理していた放牧地にいた馬の子孫だ。江戸時代から一年を通して放し飼いされ、自然の植物だけを食べて生活していた。

明治以降、地域住民の所有となったが、やがて販売目的が失われ、人間による管理がほとんどなくなったあとも、馬たちは同じ場所で暮らしている。エサとなる草は豊富にあるから、人間の手を借りなくても、馬たちは群をつくり、野生動物としてのルールに沿って暮らしているのだ。

人の手を介すことなく生殖し、世代をつないでいる。そのユニークな生態が半野生の馬として注目され、京都大学の霊長類研究の草分けでもある今西錦司氏をはじめ、内外の研究者によって報告されている。

(文春新書『「馬」が動かした日本史』)

 

 

 

 

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放牧地は広大で、馬のいる場所を探すのは意外とたいへんです。

まず最初に、灯台の近くにあるビジターセンターを訪れ、馬が集まるポイントを聞いておくのがいいようです。

ビジターセンターには、馬がいる場所を示す地図があって、最新の情報が提供されていました。

 

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