ニッチでマニアックな電子書籍に未来はあるのか
河原の石(自分撮影)
商業出版するには、テーマが狭すぎた
前回につづいて、大手出版社に送りつづけた秀吉本企画が、どうしてボツになったのかについて検討してみます。
僕がやっている小さな個人出版社・桃山堂から、出版した本はいまのところ、以下の四冊です。
①『豊臣女系図 ── 哲学教授櫻井成廣の秀吉論考集』
②『豊臣秀吉の系図学 ── 近江、鉄、渡来人をめぐって』
③『黒田官兵衛目薬伝説 ── 目の神、鉄の神、足なえの神』
④『火山と日本の神話 ── 亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』
①については、紙の本とあわせて、電子書籍も刊行しています。
②③④については、いまのところ、紙の本だけです。近いうちに、電子書籍を出すべく準備をしているところです。
紙の本としては、四冊とも、発行部数は、一〇〇〇部から一五〇〇部のあいだです。だいたいさばけそうな作品もあれば、相当、きびしい作品もあります。重版はありません。
この数字は、商業出版といえるような部数ではありません。
桃山堂は、大手出版社に売り込んでボツになった企画書から発生した零細プロジェクトです。
だから、これは実現しなかった<仮定>であるわけですが、プロの編集者が、手を加えて、化粧をほどこして、大手出版社のネームバリュー、広告力、営業力で販売してみても、二〇〇〇部程度ではないでしょうか。
こればかりは、わからないことですが。
どう考えても、たいして売れそうにない本の企画に、伝統ある出版社が、予算と時間を投じるはずがありません。
ボツにされるのは当然すぎることです。
多少、自己弁護のようなことを申し上げるならば、内容がつまらないとか、原稿がよく書けていないという以前の段階で、企画のテーマが、一般読者を対象とする商業出版の本としては、狭すぎたようです。
上記の四作品のタイトルをみていただくだけでも、偏った内容の本であることが歴然としています。
あまりにもニッチで、マニアックすぎたということです。
これも、有名出版社に送りつづけた秀吉本企画がすべてボツにされた理由だとおもいます。
電子書籍の市場もマンガとライトノベルの世界ということですが…
僕が電子書籍に関心をもったとき、まず考えたことは、
「電子書籍の世界であれば、ニッチでマニアックな本の居場所があるのではないだろうか」
ということでした。
僕はあまりの無知ゆえに、最初、電子書籍の世界を、理想郷のような新世界としておもいえがいていた時期があります。
偉そうな顔をしている既得権者のいない、自由で平等な世界です。
でも、これはありえない理想論で、ないものねだりだということは、アマゾンキンドルが登場し電子書籍が次第に広がっていくなかで、はっきりしてきました。
電子書籍でも、売れているのはマンガ、ライトノベル、ビジネス書などで、紙の本と同じような傾向です。
考えてみれば、というか、考えなくてもわかる当たり前の話です。
電子書籍ストアの現場にいる人に聞いてみると、そうした傾向は紙の本よりさらに著しいようです。
現状において、僕がつくっているようなニッチな歴史本(ともいえないような変な本なのですが)は、電子書籍ストアでの販売が非常にむずかしいジャンルです。
電子書籍をメインに活動するつもりで、小さな出版社を立ち上げながら、『豊臣女系図』という一作目を電子化しただけ出して、その後、電子書籍の制作を休止してしまったのも、それが第一の原因です。
理想と現実の大きすぎるギャップ
電子書籍は時間によって劣化することがなく、保管のコストもきわめて小さいものです。
時間をかけてすこしずつ売れてゆくことを目指す作品──いわゆるロングテール狙いのニッチな本は、理屈の上では電子書籍に向いているはずです。
現実にはそうなっていないです。
その理由についても、考えるべきことが多そうです。
人文系といいますか、郷土史系といいますか、そのあたりの作品は電子書籍のマーケットの現状をみると、セールス的には難しいジャンルです。
その可能性を、すこしでも広げようというのが、当ブログをはじめた理由のひとつです。
といっても、良いアイデアがあるわけではありません。
いろいろチャレンジしながら、
「ニッチでマニアックな電子書籍をどのように展開すればいいかのか」という課題について考えてみます。
良い知恵があれば、ご教示いただきたい次第です。
一人反省会として、書きはじめたのに、あまり反省しようとせず、つい、自己弁護のような話を書いてしまい、反省しています。
さんざん失敗しておきながら、反省が足りないのでしょうか。
まあ、このブログそのものが一人反省会のようなものなので、時間をかけて反省してみようとおもいます。
(つづく)