自費出版ビジネスの迷宮
業界暴露本として読む『フーコーの振り子』
ウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』は、『薔薇の名前』に次ぐ二作目の小説です。
イタリアの小さな出版社を舞台にした小説だとなんとなく聞いたことがあるくらいで、刊行当時、手にすることはありませんでした。読んでみたのは、自分で小さな出版事業をはじめたあとです。
イタリアの<知の巨人>、博覧強記の哲学者・言語学者にして小説家、エーコ先生には恐縮なのですが、僕はこの本を「ビジネス書」のように読みはじめたわけです。
でも、お手本やモチベーションを提供することが「ビジネス書」の役割とするならば、非常に問題のある内容でした。
詐欺まがいの自費出版が物語の軸となっているからです。
『フーコーの振り子』を執筆するとき、ウンベルト・エーコは、自費出版ビジネスをしている会社をいくつか取材しています。だから、フィクションではあっても、ビジネスの手法そのものはほぼ現実を描いているそうです。対談本『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』のなかで、そう発言していました。
物語の舞台は、ミラノにあるガラモン社という出版社で、思想、文学、歴史など人文関係の専門書を出しています。従業員は四、五人。学術的な価値のある高尚な本、いわゆる「良書」をつくる地味な出版社です。
ガラモン社はそれなりのステイタスを得ているので、アマチュア研究者、素人作家の持ち込み原稿があります。
出版する価値のある原稿は千に一つもないことを承知のうえで、ガラモン社の編集者は、アマチュア研究者、素人作家と面談し、原稿を預かります。そして、後日、こう告げるのです。
たいへんすばらしい原稿だが、残念ながら弊社では出版できない。ただ、自分が知っているある出版社は、あなたの原稿のテーマにふさわしい出版活動をしているので、もしかすると、出版が実現するかもしれない。ご紹介しましょうか。
そう言われてアマチュア研究者、素人作家が訪れるマヌーツィオ社は、詐欺まがいの自費出版をおこなっている会社なのですが、気の毒な被害者はそんなこと知りません。ガラモン社とマヌーツィオ社は実は同じ経営者が運営する二つの出版社で、スタッフも重複しています。
つまり、ボツ企画を収益源とするための<裏ビジネス>なのです。
犯罪者なのか、幸せを売る男なのか
マヌーツィオ社の社長(ガラモン社の社長でもある)は演技力にあふれ、素人作家の原稿を手にして、感激の表情を隠しません。
実に素晴らしい。◯◯賞はまちがいありません。ただ、心配なのは時代に先駆けすぎていて、この素晴らしい内容を理解できる読者が限られていること。したがって、部数は二〇〇〇部、うまくいけば二五〇〇部というところでしょうか。
提示される出版の条件はだいたい以下のような内容です。
印刷部数の上限は一万部、ただし、一年半を経て、売れ残りが出た場合は、作者本人の買い取り分をのぞいて廃棄処分。
売り上げのうち著者の取り分(著者印税)は初版二〇〇〇部についてはゼロ。増刷分から一二パーセント。
印刷、紙代など出版のコストは著者持ち。
すっかり頭に血がのぼっている素人作家は、契約書にサインしてしまいます。
初版二〇〇〇部といいながら、これはウソ。現実に印刷するのは数百部で、半分は作者が買い取り、のこりは新聞社、雑誌社に送られるが、当然、無視。
ところが、この詐欺出版社とグルの雑誌社があり、作品を大絶賛する書評が掲載される。
素人作家は狂喜乱舞、本を数百部、追加注文する。現実には在庫などないわけだから、新たに印刷して、作者に送る。
一年半が経過し、出版社から、素人作家に連絡が来る。
当初、心配していたとおり、売れ行きがいまひとつで、◯千部を裁断処分せざるをえない。もし、あなたが必要であれば、何部かお送りします。いかがでしょうか。
作者は最愛の本が裁断され、ゴミになるかとおもうと気が動転し、つい、「売れ残り◯千部」を買い取ってしまう。
もちろん、売れ残りなど存在しない。
出版社は新たに◯千部を印刷し、作者に送りつける。
しばらくすると、被害者である素人作家の項目が立てられた著述家名鑑が作成される。本当に有名な作家や大学教授の名前が並んだ人名録のなかに、自分の名前を発見した素人作家は、「時代に先駆けすぎてセールスはいまひとつだったが、学術的な評価は得たのだ」と感動し、満足する。
被害者であるアマチュア研究者、素人作家が集まるパーティも催される。そのなかにもっともらしいゲストも混じっているので、被害者たちは、文壇気分を味わうこともできる。
というところですが、詐欺まがいの自費出版ビジネスとはいえ、ここまで完全にだましてくれるならば、ガラモン/マヌーツィオの社長が、自分のことを<幸せを売る男>と自称するのも許される気がします。
高尚な文化を支えるインチキなビジネス
取材にもとづいているとはいえ、小説なので、どこまでが事実で、どこから創作なのかはよくわかりません。
アマゾンなどネット書店の普及した現在、これほど完璧なインチキはできないとおもうのですが、似たような話なら日本にもあるかもしれません。
この小説のなかでは、思想や文学など高尚な出版活動を、インチキな自費出版ビジネスが経済的に支えるという構図が、ひとりの経営者とスタッフたちによって、裏と表の顔として成立しているわけですが、これは出版業界全体の構図を戯画化したものとも解釈できます。
出版の仕事は文化とか芸術との接点があるとはいえ、その多くは、株式会社のビジネスです。「本づくり」を手段として、どこかでお金儲けをすることは必然であるわけです。
裏と表の顔を自在に使い分けるガラモン/マヌーツィオは極端なケースでしょうが、現代の出版事業には、多かれ少なかれ、そうした傾向はあるようにおもいます。
ところで、学術出版社ガラモンに原稿を持ち込んでボツにされ、マヌーツィオにまわされる典型的なタイプは、とんでも科学、とんでも歴史学の世界観にはまりこんでいるマニアックな人たちです。
以前のエントリーで書きましたように、僕は豊臣秀吉についての面白い(と思っているのは自分だけかもしれませんが)アイデアを得たつもりになって、奇妙な妄想にとりつかれ、いくつかの出版社に企画を持ち込んだのですが相手にされず、自分で小さな出版社を立ち上げ、その企画を起点とする活動をはじめてしまいました。
自費出版ではありませんが、非常に自費出版に似ていることは否定できません。
ただし、被害者は自分、加害者も自分なので、犯罪行為にはなりません。
世界人口のなかではごく少ない割合なのかもしれませんが、妄想にとりつかれて、それを本として出版することに、血眼になってしまう人がいるようです。
その根元は何なのでしょう?
謎です。
(つづく)