桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

「日本列島をパナマ湾に移動することだって朝飯前」というテンプル騎士団の神秘のパワー?

 

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世界一すごいトンデモ本

 

前回、ウンベルト・エーコの小説『フーコーの振り子』を、出版ビジネス本として読んだ感想を書いたわけですが、出版業界は作品の舞台であるにすぎません。

 

作品としてのテーマは、ヨーロッパの本の世界の<裏文化>のようなものです。

 

 硬派な学術出版社ガラモンを表の顔としながら、詐欺まがいの自費出版ビジネスを手がけるマヌーツィオ社を裏の顔とする出版社において、自費出版される本の大半は、科学、学術の常識を逸脱したトンデモ本です。

 

テンプル騎士団をはじめとする秘密結社の歴史、ユダヤ人の陰謀、現代科学を超越した知られざる超科学、宇宙の叡智を知りつくした不死の智者サン・ジェルマン伯爵…。

 

アマチュア研究者、素人作家を、詐欺まがいの自費出版に誘い込んで、荒稼ぎをしているガラモン/マヌーツィオ社ですが、編集スタッフの三人は次第に、トンデモ世界観、トンデモ歴史観に深入りし、自分たち独自の新しい解釈を試みます。

 

 

本来は学術書の編集者です。

情報収集の能力はあるし、論理を構成し、もっともらしく見せる技術ももっています。

 

その結果、彼らは地球の磁気というかたちで、わずかに見えている宇宙的パワーの<源泉>を突き止め、秘密結社である「テンプル騎士団」はその事実を知っていたにもかかわらず、ある理由により封印されたことを発見するのです。

 

 

この宇宙的パワーは、オカルト科学が「地電流」と呼ぶ地球に潜在したエネルギー。

それをある極地点でコントロールすることができれば、「金属を純金に変え/日本列島をパナマ湾に移動することだって朝飯前/原子爆弾どころではない」すごいことが起きるというのです。

 

パリ工芸院にあるフーコーの振り子の実験装置が、この恐るべきパワーを実現する秘密の場所だというところで、作品のタイトルにつながってきます。

 

 

もちろん、これは「世界一すごいトンデモ本」をつくるための編集会議めいた会話が膨らんだホラ話にすぎなせん。

編集者たちの、知的なお遊びです。

 

 

ところがこの<秘密>が外部にもれてしまい、宇宙的な神秘のパワーや秘密結社による世界の刷新を信じる人たちは、すべての謎が解き明かされるときが来たと信じてしまうのです。

その<秘密>を編集者たちから奪うべく、陰謀めいた事件の幕が開きます。

 

 

人間の愚かさは美徳を凌駕する価値をもつのか

 

ウンベルト・エーコの膨大な著作のうち、僕が読んだのは小説『フーコーの振り子』と対談本『もうすぐ絶滅するという紙の書籍について』だけです。

 

この人については、ウィキペディアに載っている経歴くらいしか知らないのですが、『記号論言語哲学』『完全言語の探求』『記号論入門――記号概念の歴史と分析』『美の歴史』という著作リストをみるだけでも立派なアカデミズムの研究者であることがわかります。  

 

 ウンベルト・エーコボローニャ大学で、言語学記号学・哲学・文学などを講じる大学教授であり、ヨーロッパ知識人の世界では、当代随一の古書、稀覯本のコレクターとして知られていたそうです。

それが『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』という対談本の前提となっています。

 

古書だけかどうか不明ですが、自宅と別荘に、約五万冊の蔵書があったそうです。対談では、自分の死後、それをどう処分してほしいかという話題も出ています。

 

 

大学教授の古書コレクションなのですから、自らの思索や研究の糧になる本、自らの芸術的感受性にフィットする美しい本が、収集されていると誰もがおもうはずです。

でも、ちょっと違うようなのです。

 

私は自分がその内容をぜんぜん信じてない本ばかり集めてきましたから、私の蔵書は私の姿を逆さまに映したものになっているはずです。

あるいは、私のなかのあまのじゃく的な部分を映し出したものかもしれません。

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』 437ページ)

 

 

対談のなかで、奇怪な古書の数々を紹介しています。

 

スウェーデンの学者オロフ・ルトベックが書いた三〇〇〇ページの大著では、スウェーデンは「ノアの方舟」のノアの息子ヤフェトの祖国で、スウェーデン語こそアダムが話していた原初の言葉であることが立証されているそうです。

 

スコットランド出身の一九世紀の天文学者は、クフ王のピラミッドに宇宙のあらゆる寸法が含まれていることを発見したそうです。ピラミッドの高さの一〇〇万倍は地球と太陽の距離だとか、四辺の長さの合計を倍にすると、赤道から緯度六〇分の一度までの距離になる、つまり、クフ王のピラミッドは地球の周長の四万三二〇〇分の一の縮尺になっている、というのです。

 

エーコ先生は、

「この分野は今日、インターネットに引き継がれて、非常に充実しています。インターネットでピラミッドを検索してみてください」


と、トンデモワールドへのガイダンスまで提供しています。

 

 

人間の想像世界の、本当に気の遠くなるような広がり

 

秘密結社の真実の発見、トンデモ言語学、ピラミッド超科学などについての膨大な古書コレクションから得た奇妙奇天烈な<学説>が、フーコーの振り子』にはしつこいほど紹介されています。

 

ヨーロッパの読書人であれば、驚嘆したり、大笑いしたりできるポイントがいっぱいありそうな気配はします。

でも、正直なところ僕にはよくわからないところが多いです。

日本人でそのあたりまで楽しめるのは、プロ級に変態な読書家(A先生ですとか、お亡くなりになったS先生とか)くらいしかいないのではないでしょうか。

 

 

ただ、そうした部分は飛ばし読みしても、支障はないような構成になっているとおもいます。

 

というのも、『フーコーの振り子』には、トンデモ古書のコレクションからえた知識を発表するためとしかおもえない、一見ムダな記述が多いからです。ウンベルト・エーコはそうした珍妙な<学説>の数々を楽しみながら書いているようにみえます。

 

日本でも、トンデモ本をそれと知りつつ、楽しもうという趣向があり、その筋のコレクターがいます。

 

また、たとえ偽書だとしても、その偽書が成立した背景を知ることは、歴史研究として価値がある、という大学の歴史学教授もいます。

 

エーコ先生の珍書コレクションはそれともすこし違うようです。

 

学術的な価値、文芸的な美しさはなくても、人間の愚かさを証明することによって、価値をもっている本がある──ということのようなのです。

 

対談本『もうすぐ絶滅するという紙の書籍について』には「珍説愚説礼讃」という章があって、ウンベルト・エーコはこう発言しています。

 

愚かしさをテーマに語ろうとは言ったものの、これは、半分天才で半分馬鹿という、この人間という存在に対するオマージュなのです。

そして人間は誰しも、ちょうど我々二人ともがそうであるように、死ぬときが近づいてくると、愚かしさが美徳を凌駕するんだと考えるようになります。(299ページ)

 

ここまで言われてしまうと、ウンベルト・エーコのトンデモ古書のコレクションは、人類愛によって包まれているとさえおもえてきます。

 

地道な学術出版の裏で、詐欺まがいの自費出版ビジネスを手がけるガラモン/マヌーツィオ社は、人間世界の暗喩のようにもみえてきます。

 

対談相手のフランス人脚本家ジャン=クロード・カリエール氏はこう応じています。

 

「私やあなたが収集しているすべての書物は、我々の想像世界の、本当に気の遠くなるような広がりを証明しています。

逸脱や狂気を愚かしさと区別することはとりわけ困難です」

 

僕は映画のことはよく知らないのですが、有名な脚本家らしいです。

ブリキの太鼓』『存在の耐えられない軽さ』などを手がけています。この人もエーコ先生に負けず、トンデモ古書をずいぶん集めています。

 

 

たとえ専門家に相手にされないトンデモ本であっても、「人間の想像世界の、本当に気の遠くなるような広がり」 に貢献できるということなのでしょうか。

 

 

希望なのか、救いなのかよくわかりませんが、ふたりの老賢人の対話は、本の世界の底知れない広がりを教えてくれます。