「豊臣秀吉の祖父は鍛冶かも」という情報を通して、高座結御子神社を考える
渡辺世祐『豊太閤の私的生活』
渡辺世祐(一八七四~一八五七)氏は東京大学史料編纂所に勤務したあと、明治大学教授をつとめていたアカデミズムの研究者ですが、政治家、武将としてではなく、個人としての豊臣秀吉に強い興味をもっていたようで、『豊太閤の私的生活』という著作をのこしています。
講談社学術文庫にも入っているのですが、今は古本でしか入手できないようです。
この本のなかで、秀吉の母親について、
「美濃(岐阜県)の鍛冶関兼貞の女(むすめ)であるともいう」(文庫版 一四三ページ)
と記し、不確定な情報のひとつとして紹介しています。
有名な学者が書いた本なので、この本を引用するかたちで、「母方祖父は鍛冶かもしれない」という情報は一定の広がりをもったといえます。
また、幕末生まれの国学者鈴木真年は系図研究『諸系譜』(国立国会図書館所蔵)において、渡来系の佐波多村主(さわたのすぐり)という刀鍛冶の一族を秀吉の母方の系譜として示しています。
弊社刊『豊臣秀吉の系図学 近江、鍛冶、渡来人をめぐって』は、この渡来系の鍛冶系図をテーマのひとつとしています。
秀吉の母方が鍛冶の一族だという話は確実な史料によって裏付けられたものではないものの、根も葉もない話だともいえないのは、この情報が孤立したものではなく、ひとまとまりの<伝承群>を形成しているからです。
高座結御子(たかくらむすびみこ)神社内の小さな稲荷社に、秀吉母子が参っていたという話を前回とりあげましたが、これも母方が鍛冶系だという話の関連情報であると考えられます。
この神社の鎮座する場所は、鍛冶や製鉄の人たちにゆかりがあるからです。
剣の神タカクラジを祀る高座結御子神社
熱田神宮の摂社とはいうものの、こんなにも立派な高座結御子神社
熱田神宮の摂社である高座結御子神社が鎮座するのは、JR、名鉄の「金山駅」から歩いて一〇分くらいのところです。
「金山」という地名のとおり、金属加工業にゆかりの深い地域で、駅のそばにある金山神社には「尾張鍛冶発祥の地」の看板があります。
社伝によると、九世紀、熱田神宮に属する鍛冶が屋敷内に祀った金山彦神がそのはじまりとされています。
ここは古くから刀剣や鉄具類の製造地で、室町時代から江戸時代初期にかけては「金山鍔」という刀装具の産地としても知られていたそうです。
高座結御子神社が主祭神として祀っているのは高倉下(タカクラジ)という神さまで、「古事記」では、神武天皇(イワレヒコ)が日向国を旅立ち、大坂に立ち寄ったあと、熊野に上陸したときのエピソードで登場します。
イワレヒコの軍勢は熊野の神さまの毒霧攻撃(?)をうけ、全員が気を失ってしまうくだりです。
その夜、タカクラジは夢をみます。
アマテラスの命をうけたタケミカヅチが夢の中で、
「韴霊という私の剣をお前の倉に置く。それを天孫に献上するように」
と語るのです。
タカクラジが、朝、目をさますとほんとうに剣がありました。
タカクラジが駆けつけて、イワレヒコに聖剣を奉ると、気を失っていた軍勢の誰もが正気に返ります。
熊野の神を打ち払い、進軍をつづけ、大和盆地に至ることができました。
この剣は、その後、大和国の石上神宮に保管されている──と結ばれます。
古事記におけるタカクラジの役どころは聖剣の運搬者ですが、人間というより神話的キャラクターです。
刀剣にかかわる神だといえます。
和歌山県新宮市の神倉神社は、熊野における神武天皇伝説の中心的なエリア。最近はパワースポットとしても有名だそうです。タカクラジは、熊野に実在した人だという説もあり。
刀鍛冶の協力者としての稲荷神
お稲荷さまというと、一般には農業の神さま、商売の神さまのイメージが強いようですが、刀鍛冶の崇敬する神であることは、能楽作品「小鍛冶」によってよく知られていることです。
伝説の刀工、三条宗近は天皇に作刀を命じられたものの、思うようなものが作れず、信仰する稲荷大明神に祈ります。
すると、稲荷神が出現して相槌をつとめ、この神の援助によって、名刀「小狐丸」が完成したのです。
現代においても稲荷神は、鍛冶や金属加工、製鉄にかかわる人たちによって信仰されています。
十一月八日に、全国の製鉄、鍛冶職の人たちがとりおこなう「ふいご祭」は、伏見稲荷大社をはじめ多くの稲荷神社が祭場となっていることからも信仰の歴史を知ることができます。
高座結御子神社の境内にある小さな稲荷社に秀吉母子が参っていたという伝承に、「秀吉の母方祖父は鍛冶かもしれない」という情報を重ねてみると、違った色彩を帯びることになります。
高座結御子神社は、古来、鍛冶の集住地であった「金山エリア」の近くにあり、聖剣の神タカクラジを祀っているのですが、刀鍛冶に縁のある稲荷社に秀吉母子のゆかりが語られているからです。
豊臣秀吉について、史実とは言えないまでも、不思議なリアリティのある<伝承群>がいくつか存在します。
刀鍛冶かんれんの情報はそのひとつですが、古墳や土師氏についての<伝承群>もこれまでのエントリーで紹介させていただきました。
「秀吉さんは稲荷神を信仰していた」という話も関西方面の神社界では半ば常識のように語られていますが、秀吉の書いた書簡や当時の記録によって確定できることではなく、これもひとつの伝承にすぎないともいえます。
高座結御子神社の稲荷社に秀吉母子が参っていたという話において、①鍛冶 ②古墳/土師 ③稲荷 という三つの<伝承群>が交差しています。
高座結御子神社は熱田神宮の境外の摂社ですが、一キロほど離れた熱田神宮の本宮のほうには、これといった秀吉伝承がありません。
これもまた、不思議なことです。
(つづく)