桃山堂ブログ

豊臣秀吉の<謎>、火山と古事記の探究、電子書籍への挑戦。

豊臣秀吉と伏見稲荷をつなぐ<土>の文化、<土>への信仰

 

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年明け早々の神事で、稲荷山の神に土器が奉られる

 

 

<土の神>としての伏見稲荷

 

伏見稲荷大社で毎年一月五日に開かれる大山祭は、「お土器の行事」ともいい、同社で最も重要な祭祀のひとつである──ということを知り、京都に向かったのは二〇〇九年のことでした。

 

細かい記憶はなくなってしまいましたが、そのころ僕は、<土>だとか、<やきもの文化>をキーワードとして、秀吉と稲荷信仰のつながりを探ろうと取材していたのだとおもいます。

 

 

本殿で行われる祭礼は、外からはよく見えませんでした。

そのあと、伏見稲荷大社の裏山にあたる稲荷山の山中にある祭祀場を目指して、土器を入れた神輿をかつぐ行列が動きだします。

 

当時の取材メモをみると、鳥居や祠のつづく坂道を二〇分ほど歩く、と記録してあります。

祭祀の場所には、小さなテーブルくらいの石がありました。

そのうえに、手のひらくらいの素焼きの土器を八〇個ほど盆にのせて、生産豊穣を祈願するのです。

「斎(いみ)土器」とも「耳(みみ)土器」ともいうそうです。

 

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年明けのこの祭でこの土器を得ると、その一年は幸運に恵まれるというので、以前は取っ組み合いの奪い合いが演じられていたそうです。

 

特に酒造関係者は必死でした。

この土器を酒倉に入れておくと、良い酒が醸造されると信じられていたからです。

 

けが人が出るように騒ぎになることも多かったためか、現在は希望者に有料(一個五〇〇円)で配布する方式に改められています。

 

それでも希望者が列をなし、なんとか「お土器」を手に入れようと、殺気だった雰囲気でした。

僕もその列に加わり、ありがたく配布にあずかりました。

 

 

この祭りの主役である土器は、神社の裏にある稲荷山の粘土をつかって焼かれていたのですが、資源枯渇により、現在は他県の粘土が材料になっているそうです。

 

つまり、この祭の背後には、伏見で採取した粘土によって、土器や土人形がつくられてきた長い歴史があるということです。

 

新年早々におこなわれるこの祭の本質が、<土の恵み>に対する感謝であることは明らかです。

 

日本書紀』に記されている伏見居住の土師氏による土器づくり。

現在も継承されている伏見の土人形。

 

そうした<土の文化>がこの地にあって、それが伏見稲荷の信仰のなかに残っている──と解説されています。

 
昭和五九年刊の『伏見稲荷大社』(京都新聞社)という本のなかで、郷土史家の奥村寛純氏はこう述べています。

 

稲荷社には必ず一対の伏見製の土狐が前肢を立てて坐っている。これこそ稲荷神の神使である。

今はところによっては陶製のものがかなり出回っているが、やはり、稲荷山の土で作った伏見製の土狐でないと霊験が少ないと、言われている。(中略)

元禄期においても既に土製の狐がずいぶん売られ、買求めて神棚に祀られていた。

 (一二七ページ)

 

 

大森惠子氏の『稲荷信仰と宗教民俗』は六〇〇ページを超える大著で、各地の稲荷信仰の実相が報告されているので、僕はこの本を手元に置いて、稲荷信仰についての百科事典がわりにつかわせていただいています。

この本の冒頭(第一編第一章)は、「土と稲荷信仰」というタイトルで、伏見稲荷を中心として、稲荷信仰が<土>にかかわる精神文化といかに深く結びついているかが論述されています。

 

お稲荷さまというと、「稲」の文字の印象がつよいので、お米の豊作をもたらしてくれる農業神という理解が広がっています。

 

しかしお稲荷さまは、最初から農業神であったのではないという説もかねてより主張されています。

 

農業神である根拠は<土の神>という性格にある──ということが、『稲荷信仰と宗教民俗』でも示唆されています。

 

 

稲荷伝承、土の伝承の交点としての伏見

 

 

このブログでは、秀吉の名字である羽柴が土師(ハジ/ハシ)に関係するのではないかという説を端緒として、土師氏/古墳にかかわる文化領域と秀吉一族との接点を探っています。

 

 秀吉の母親のふるさと名古屋の御器所が、伏見と同じような土器、土人形の産地であったことも紹介しました。

御器所は、有名な円墳・八幡山古墳をはじめ古墳の集まっているエリアでもあります。

 

<土>の技術者集団である土師氏およびその造形物である古墳や土器にかかわる所伝が、秀吉一族の周辺でいくつか確認できます。 

 

 

関西の神道関係者のあいだでは、「秀吉さんは稲荷信者」ということが常識的に語られているようです。

しかし、すべては伝承めいた話なので、確実な史料を踏まえた歴史学のうえで、秀吉が稲荷の信仰者であるという事実を立証するのは簡単ではないとおもいます。

 

小学校の算数で習ったと記憶していますが、集合と集合の<交わり>という概念があります。

秀吉をめぐる言説には、<土>をめぐる伝承群と<稲荷>をめぐる伝承群があるのですが、二つの集合の交わりに伏見が存在しています。

 

 秀吉と稲荷は、伏見という場所で、<土>の文化によって結びついているといえます。

 

さらにいえば、秀吉と伏見稲荷の共通点として、

 

金属文化/鍛冶をめぐる伝承

渡来人をめぐる伝承

 

という二つを指摘することができます。

 

こうしたテーマは、秀吉の稲荷信仰の謎を考えるうえで、重要なポイントであるはずです。

 

秀吉の伏見城伏見稲荷大社に注目しながら、秀吉と稲荷神のつながりをさらに考えてみることにします。

(つづく)