桃山堂ブログ

豊臣秀吉の<謎>、火山と古事記の探究、電子書籍への挑戦。

豊臣秀吉の「石集め文書」は古墳神社の創建伝承と重なること

大坂城を築城するとき、古墳群から石を運んでくるよう指示した豊臣秀吉の古文書が存在します。前回、紹介した古墳と一体の稲荷社・瓢箪山稲荷神社(東大阪市)が秀吉によって創始された天正十一年は、石運びの時期と一致しています。

 

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これも大坂城の石垣につかえそうな石室の石。山畑古墳群のひとつですが、高台にあるので、被害にあわなかったようです。

 

千塚の石

 

大坂城かんけいの本では、ときどき紹介されていますが、こんな古文書があります。

 

千塚之石、一段能候間、可持候条、従彼地若江之本道まて道事、早々可造候、 不可有油断候、為其申候、恐々謹言、

                  筑前守 秀吉 (花押)

 

 

千塚の石は、ひときわ良いので、かの地より若江本道までの道を、早々に造ることを指示し、油断あるべからず──と言い添えています。

天正十一年八月十九日、小野木清次、一柳市介に宛てた秀吉の書状として、名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集①』(二五七ページ)に収められている学界公認の古文書です。

 

「千塚」の「塚」は古墳をさす場合もあるので、千塚は古墳がたくさんという意味。

この地にかぎらず、古墳集積地にみうけられる地名です。

 

「若江」は、現代の地図にもある東大阪市の地名で、同市に隣接する八尾市には「千塚」の地名がみえます。

 

このあたりは非常に古墳の多いところで、規模壮大な天皇陵こそありませんが、小さな円墳、方墳が群集しています。

 

東大阪市の「山畑古墳群」は、八尾市に「高安古墳群」へと連なっており、千かどうかはともかく、数百を超えるおびただしい古墳があったようです。

 

新しい道まで造設して、石運びをしようというのですから、大坂城工事のスケールの大きさがうかがい知れます。

 

上記の古文書の「千塚」がこのエリアの古墳群をさすことは、かねてより指摘されています。

 

当ブログとしてはこの古文書が、瓢箪山稲荷神社の社伝と重なり合っていることに注目します。

 

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瓢箪山稲荷神社の野面積みテイストの石垣。

 

秀吉は古墳からの石集めに先立ち、族長の古墳にあいさつした?

 

 

「山畑古墳群」において最大の山畑五二号墳こと「瓢箪山古墳」に稲荷社があり、三大稲荷のひとつとされる有名な神社となっています。

 

社伝によると、天正十一年二月、秀吉の指示によって創建されたというのですが、小野木清次、一柳市介に石集めを指示した書状の日付は、同年八月です。

 

古墳群の石室の石を拝借するお礼というか、罪滅ぼしのような意味で、「山畑古墳群」で最も大きい瓢箪山古墳に稲荷神社が新設された──と解釈できるのではないでしょうか。

 

この古墳群で最大の古墳なのですから、埋葬者はおそらくこのエリアを支配していた族長でしょう。  

 

この推察が正しければ、秀吉は、無断で古墳から石を持ちだしたのではなく、族長に一応の「あいさつ」をすませていたということになります。

 

遠い昔の墳墓とはいえ、ひとさまの墓から石を拝借する行為は、ほめられたものではありません。

 

道義的、宗教的な問題はあるとおもいます。

 

しかし、「あいさつ」がわりに大将格の古墳に稲荷社をつくったという話が史実であれば、なんとも秀吉らしいエピソードです。

(つづく)

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瓢箪山古墳では、横穴式石室も祭祀対象になっています。さすが、古墳稲荷!

古墳そのものが<神>です。