大坂城の石垣は、古墳の石室の<面的>移動だったのか
福岡県飯塚市のカクメ石古墳内部の石室。石の美しさも考えられているようだ。
豊臣時代の大坂城には、近郊の古墳群から運んできた古墳石室の石が大量につかわれていたことが、秀吉発給の文書によって知られています。なぜ、秀吉は古墳から石を集めるよう指示したのでしょうか。
古墳石室は<面的移動>が可能だという証拠
上記の写真は、福岡県飯塚市にある「カクメ石古墳」内部の石室です。
筆者の実家が九州なので、たまたま撮影していた写真です。豊臣秀吉とも大坂城とも関係ありません。
良い風合いの石によってみごとな壁面が構築されており、そのまま、城の石垣に使えそうです。
カクメ石古墳はもともと別の場所にあったのですが、保存のため、飯塚市役所のそばに移設されています。
石室内部の壁面の石組みは、一種のパズルのようなものです。
写真を撮影しておけば、解体して石の全パーツを運んで、もとどおりに再現できるわけです。
前々回のエントリーで紹介しましたように、豊臣秀吉は大坂城の石垣につかうため、東大阪市から八尾市にかけての古墳群から大量の石を運び出しています。
石室解体から石垣の造営に至る作業は、どのようなものだったのでしょうか。
空想にすぎないのですが、基本的には、カクメ石古墳の移設工事と同じだったのではないでしょうか。
大坂城と古墳では目的も規模も違いますから、石組みのすべてをそのまま再利用できたとはおもえませんが、主だった石の配置を絵図により記録しておけば、それをもとに壁面を再構成できたはずです。
上記写真でいえば、正面の大きな正方形の石とその上、左右の縦長の石などは、大坂城の石垣にもつかえそうな立派な石です。
石室から持ち出した石を、一から組み上げるよりも、「面的な移動」のほうがずっと効率的であるのは確かです。
古墳からの石の持ち出しは、現代の基準では刑法(二三五条 窃盗罪、二六一条 器物破損罪その他)に触れる可能性が高く、道義的、宗教的にも大いに問題がありますが、土木技術の基準においてはとても合理的だったといえます。
カクメ石古墳の外観。円墳の土はそげ落ち、石室の構造だけがのこる。
秀吉は古墳の石室を見ていたかもしれない
熱田神宮の境外摂社となっている高蔵古墳群のうちの円墳が、豊臣秀吉と母親が参詣していたと伝わる稲荷神社そのものであることは以前、申し上げたとおりです。
上記写真のカクメ石古墳は、直径十五メートルほどの円墳ですから、ちょうど秀吉母子の伝承をもつ稲荷社の円墳と同じくらいの大きさです。
幼少期の秀吉は円墳内部の石室を遊び場として、上記写真のような石室内部の構造を目にしていた可能性があります。
大規模な石垣を備えた城は、織田信長が造営した安土城が先駆けで、大坂城はそれに続いたといわれていますが、古墳の石の城石垣への利用は安土城でも、行われていた形跡があります。
もしかすると、それを進言したのは秀吉だったのかもしれません。
(つづく)