桃山堂ブログ

豊臣秀吉の<謎>、火山と古事記の探究、電子書籍への挑戦。

前田晴人教授の「桃太郎=豊臣秀吉」説について考える

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これは愛知県犬山市の桃太郎神社。サルが家来というのも気になる。

 

 

「桃太郎」の物語は、細川幽斎が、豊臣秀吉の政治構想と業績を顕彰するために創作した近世神話である──。

大阪経済大学歴史学の教授をなさっていた前田晴人氏は、『桃太郎と太閤さん』(二〇一二年刊)という著書で、こんな説を披露しています。

 

薩摩の島津氏は鬼なのか

 

前回のエントリーでとりあげた岡山県の古代山城「鬼ノ城」は、桃太郎伝説の舞台という説もあるので、今回は『桃太郎と太閤さん』について考えてみます。

 

著者の前田教授(現在は退職し同大客員教授)は『日本古代の道と衢』などの学術書によって知られる古代史家です。

ご自身でも言っておられるように豊臣秀吉の活躍した戦国期はもとより、桃太郎研究は専門外ですから、この本は余技ということになるのでしょうが、なかなか力のこもった論考です。

 

 

秀吉の晩年の居城であり、死に場所ともなった伏見城は、現在の住所表記では、京都市伏見区桃山町であるので、地名によって「桃山城」とも呼ばれます。

秀吉の統治期を「桃山時代」というのも同じ理由です。

 

「桃太郎=豊臣秀吉」説は、桃山と桃太郎の一致をひとつの根拠としているので、ダジャレ学説のようですが、そうとばかりは言えない深みがあります。

 

当ブログのテーマにもかかわるところがあるので、ポイントを紹介してみます。 

 

「鬼」とは、中央の政治権力に従うことを拒む「まつろわぬ人」であるという議論が、かねてより民俗学系の研究者によりなされています。

 

これを豊臣秀吉の時代に当てはめると、天皇の権威をバックにした関白秀吉の意向に従わない地方勢力──具体的には薩摩の島津氏が「鬼」、秀吉は鬼退治に向かう桃太郎であるという構図になると前田教授は言っています。

 

すなわち「桃太郎」は、秀吉の九州遠征を題材として構想されたというのです。

 

秀吉の九州出兵は、大分県を領国としていた大友宗麟からの支援要請にこたえた形をとっています。

天正一四年七月十二日付の秀吉から大友氏への書状は、薩摩討伐の決定を告げるものですが、そこに

 

「この上は征伐、加えらるべく候」

 

「逆徒退治、程あるべからず候」  

 

という文言があります。

ここに、桃太郎の鬼退治へと神話化されるモチーフを見いだせると前田教授は述べています。

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桃太郎の作者(?)細川幽斎は当代随一のインテリ武将

 

細川幽斎は和漢の書籍に通じ、和歌、連歌の才にも恵まれた当代随一の文人として有名な武将です。

 

豊臣秀吉の九州遠征のときは、すでに隠居して、息子の細川忠興家督を譲っていたので、戦闘には加わっていませんが、陣中見舞いをすべく九州に赴いています。

秀吉の連歌茶の湯の相手をつとめているようすが、『九州道の記』という紀行文に記録されています。なぜか、戦についてはまったく書かれていません。

 

細川幽斎は当時の歌壇の指導者だったので、薩摩の領主島津義久とは和歌をとおして交流があったそうです。

そのため、九州遠征の戦前、戦後において、秀吉と島津の交渉の仲介役になっていることを前田氏は強調しています。

 

秀吉の九州政策において、幽斎は当事者であったということです。

 

細川幽斎の先祖は伏見城と同じ場所に城を築いていた?

  

細川幽斎は、織田信長の家臣であったころ、山城国長岡(現在の京都府長岡京市向日市エリア)の領地を得て、長岡藤孝を称していました。

 

桓武天皇平安京のまえに短期間、都を置いていた長岡京のあるところです。桓武天皇がこの地への遷都を模索したのは、母方の祖母にあたる大枝(大江)氏の拠点地だったからという有力な説があります。

 

長岡京は京都では有数の古墳エリアで、大枝(大江)に改姓した土師氏の居住地でした。この一族が桓武天皇の母方です。

 

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「幻の都」という言葉につられて長岡京跡に行ったことがあるのですが、ほんとうになにもない。

 

 

細川幽斎はもともと三淵氏の生まれで、養子に入って細川家を継いだとされています。

 

この本を読むまで知らなかったのですが、幽斎の実家の三淵氏はもともと伏見を拠点とする一族であった可能性があるそうです。

伏見と長岡とは隣接地です。現在の地図をみても、長岡京市京都市伏見区と接しています。

 

 細川幽斎は、伏見、長岡というこのエリアに地縁をもっていた人らしいのです。

 

『桃太郎と太閤さん』における論証の山場は、幽斎の先祖の三淵氏が、秀吉の伏見城(桃山城)があった同じ場所に小さな城を築いていたのではないかという主張です。

 

江戸時代に書かれた京都の名所旧跡ガイド『山州名跡志』の伏見故城の項にある

 「ここに初め小城あり。水淵大和守、築くところなり」 

 という記述が引かれています。

幽斎の実家の三淵氏は水淵氏と表記されることもあるので、これは幽斎の先祖について述べているのではというのです。

 

もし、この論証が正しければ、細川幽斎が「桃太郎=豊臣秀吉」の物語を構想するモチベーションは、自らのルーツにかかわっていることになります。

 

伏見城跡に桃を植えたのは誰だ

 

ここで問題になるのが伏見の桃山、すなわち秀吉の最後の居城・伏見城のあった桃山です。

 

桃山という地名については、ひとつの謎があります。

 

秀吉が生きていたころの伏見城には、桃の木などなかったというのです。

 

江戸時代初頭のいつのころか、誰かによって桃が植樹され、桃林となったことから「桃山」という地名が生じました。

 

前田教授は、上に述べたような地理的な状況証拠によって、伏見城の跡地に桃を植えた<犯人>が細川幽斎であることをうっすらと示唆しています。

 

「桃山」の主である秀吉が「桃太郎」ということになります。

 

これも、この本を読むまで知らなかったことですが、「桃太郎」は鎌倉時代室町時代に形成されたいわゆる「伽草子」ではないそうです。

成立の時期がずっと新しく、江戸時代のはじめころ。つまり、細川幽斎の時代と重なるのです。

 

前田教授はこう結論づけています。

 

「彼は秀吉を「桃太郎」という名の聖なる英雄として描き、永遠に彼の事績をこの話のなかに閉じ込めようと策したのではないだろうか。

これ以上はあり得ないという短編の物語のなかに、極限の形で秀吉の生涯と偉業が抽象化されていると考えるのである」 

 

 

前田氏の主張する「桃太郎=秀吉」説に全面的に賛成するつもりはないのですが、この説には不思議な魅力があります。

 

細川幽斎の前名である長岡藤孝は、在所の長岡を名字にしたものです。

 

長岡は古墳エリアで、土師氏/菅原氏の信仰地である長岡天満宮はよく知られた神社です。

 

長岡とは、長い丘すなわち前方後円墳だという地名説もあります。

 

細川幽斎豊臣秀吉のブレーンというだけでなく、なにか秘密を共有していたような気配がします。

(つづく)

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