血戦の地「岩屋城」で、豊臣秀吉を招く祝宴はひらかれたか
岩屋城は九州戦国史の激戦の舞台として名高い。
政争に敗れて左遷された菅原道真の廟墓であり、天神信仰のメッカである太宰府天満宮。その背後の山に九州戦国史では非常に名高い岩屋城があります。豊臣秀吉はここでひらかれた島津氏主催の宴席に招待されたのでしょうか。
豊臣秀吉、太宰府を訪れる
天正十五年(一五八七)三月一日、薩摩の島津氏を討つべく、大坂城を出陣した豊臣秀吉の軍勢は二十八日、九州に上陸、福岡、熊本を通過して鹿児島に進軍します。
五月上旬には島津氏が降伏したため、秀吉軍はほぼ同じルートを北上し、六月六日、太宰府天満宮を訪れ、この地に一泊したと記録されています。
福岡藩がまとめた『黒田家譜』には、当日のことをこのように記述しています。
秀吉ははじめ観世音寺の近くの宿泊所に入ったが、島津義久がこの日のために用意した茶屋があったので、そちらに移動して、祝宴の茶の湯が開かれたようです。
茶屋とは、貴人のための宿泊所、休憩所のことです。
義久が用意した茶屋は、どこにあったのでしょうか。
江戸時代初期の学者の小瀬甫庵がまとめた秀吉伝記『太閤記』のこの日のくだりを見ると、こう書かれています。
「六日、同国宰府安楽寺岩屋に御茶屋を義久より立て置き、一興を催ししかば、即ち、御泊り有り」
島津義久が新しくつくっておいた茶屋は「岩屋」にあって、宴会のあと、秀吉はそこで宿泊したようにも読めます。
壮絶! 岩屋城の戦い
祝宴の会場となった「安楽寺岩屋」とはどこなのでしょうか。
安楽寺とは天満宮の別名ですから、その背後にある山城すなわち「岩屋城」が岩屋だとおもわれるのですが、太宰府における秀吉の祝宴会場を特定してくれる論文その他の資料がみつからず、確証はありません。
学術論文ではないので、論証のまねごとは後回しにして話をすすめてみます。
岩屋城は九州の戦国史ではものすごく有名な激戦の舞台です。
秀吉の九州遠征の前年、天正十四年の七月、岩屋城には高橋紹運ひきいる七百余人の兵がこもり、二万という薩摩・島津氏の大軍勢と向き合っていました。
二万人 対 七百人 という驚くべき、多勢に無勢の戦いです。
七月十四日、島津氏の攻撃によって戦端が開かれますが、岩屋城の兵は徹底抗戦、圧倒的な軍勢の差にもかかわらず、戦いは膠着します。
七月二十七日、島津方の総攻撃によって、岩屋城は陥落、籠城の兵は全員討ち死にという壮絶な結果によって、激戦の幕はおりています。
僕は生まれが福岡県なので、高橋紹運はなじみの武将ですが、全国的な知名度はいまひとつかもしれません。
秀吉に目をかけられた立花宗茂のお父さんという方がわかりいいかもしれません。
これも九州に住んでいない人にはリアリティーを伝えにくい話ですが、福岡県の太宰府を薩摩の島津氏が制圧するというのは、たいへんな事態です。
九州の南端にある薩摩が、九州北部の福岡県エリアまで勢力圏に組み込むということは、ほぼ九州全域を制圧したことになります。
秀吉が九州へ出陣を決する直前の九州はそうした状況であったわけです。
薩摩というか鹿児島の人たちは、どうしてこんなに戦いが強いのでしょう?
明治維新は薩長連合の結果なのでしょうが、軍事的には薩摩が主力であったのですから、今にしておもうとすごいというか奇妙な話です。
やや強引な論証ですが
最後に論証のまねごとです。
福岡県の太宰府は、本来、島津氏の領国ではないのですから、島津義久が茶屋を建ててうんぬんという記述は、文意をくみとりにくいくだりです。
この時代の太宰府に、島津氏の直接的な管理下にあった土地があったのでしょうか。
思いつくのは、激戦の末、奪取した岩屋城です。
小瀬甫庵の書く「宰府安楽寺岩屋」と当地における島津氏の管理する土地が交差する場所は岩屋城ということになります。
ゆえに、祝宴会場は岩屋城である。
素人論証、これにて終了。
なぜ、当ブログが岩屋城にこだわり、いろいろと屁理屈をつけて、ふだんは控えている史料の論証に手を出してまで、秀吉に岩屋城を訪問させたがっているかというと、岩屋城が古代山城「大野城」の遺構の一部を改造したものだからです。
この年の九州遠征において、豊臣秀吉は最低でも二か所、古代山城の跡に宿営しています。
というわけで、筆者は秀吉が古代山城に関心をもっていたのではとにらんでいるのです。
ありていに言えば、秀吉が古代山城「大野城」の跡に足を踏み入れていたほうが、話が面白くなるということです。
恐縮ですが、眉に唾をつけつつ、読んでいただければありがたいです。
(つづく)
岩屋城のちかくには、壮絶な討ち死にをとげた籠城兵たちの墓標がある。