桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

岩屋城の猛将・高橋紹運と豊臣秀吉は系図のうえでは渡来人の子孫

 

f:id:kmom:20160908180624j:plain

岩屋城二の丸は戦死者の墓域になっている。 

 

福岡県・太宰府天満宮の裏山にある岩屋城の戦いで、壮絶な籠城戦の末に絶命した高橋紹運(鎮種)。高橋氏の系譜は、渡来系の有力氏族である大蔵氏につらなっています。

 

渡来系の名族・大蔵氏の一族

 

前回のエントリーで、岩屋城の猛将・高橋紹運について書きましたが、そのつづきです。

日本家系図学会会長・宝賀寿男氏の労作『古代氏族系譜集成』の下巻は、朝鮮半島や中国にルーツをもつと考えられる渡来系の氏族についてさまざまなデータが示されているのですが、ここに高橋紹運豊臣秀吉にかかわる興味深い記述があります。

 

渡来系氏族・大蔵氏の九州における広がりを説明する内容です。

 

「大蔵朝臣姓は純友乱時の大蔵春実、その孫で刀伊入寇時の種材の業績により太宰府官人として定着し、筑前筑後豊前、豊後など北九州に敷衍した。

 

その主な名字としては、原田、秋月、高橋 ── 筑後国高橋住、武蔵に分る。筑前の高橋氏は立花と改め、武家華族 (後略)」(一四七五ページ)

 

武家華族になった立花氏とは、高橋紹運の実子である立花宗茂の系譜で、江戸時代をとおして福岡県の柳川で大名として存続しています。

 

『古代氏族系譜集成』はこの記述の二ページ先で、「佐波多村主(さはたのすぐり)」という渡来系氏族について、大和国宇太郡から美濃国をへて、尾張国に移ったと記しています。

 

これは、豊臣秀吉の母方の系図情報です。

 

これが正しければ、豊臣秀吉高橋紹運、その実子立花宗茂、この三人は同じ系統の渡来人の子孫ということになります。

 

弊社桃山堂から出版した『豊臣秀吉の系図学』(宝賀寿男+桃山堂)でも紹介していますが、佐波多村主にはじまる代々の鍛冶は豊臣秀吉の母方につながるとする系図があるのです(国立国会図書館所蔵『諸系譜』所収「太閤母公系」)。

 

f:id:kmom:20160909150447j:plain

 

秀吉の先祖は、 高橋氏の先祖の家来?

 

平安時代の朝廷で編纂された『新撰姓氏録』によると、阿智(あち)王という渡来人集団のリーダーは、応神天皇とき、七つの氏族(「七姓の漢人

」)を率いて日本に移住したといいます。

日本書紀応神天皇二〇年のくだりには、阿知使主として渡来伝承が出ています。

一応、五世紀初頭ごろということになります。

 

遺文として伝わる『新撰姓氏録』関係箇所の読み下しです。 

阿智王、誉田天皇(諡は応神)の御世、本国の乱を避け、母ならびに妻子、母弟迁興徳、七姓の漢人らを率て帰化り。

七姓とは第一を段といふ。これ、高向村主、高向史、高向調使、評首、民使主首らの祖なり。次を李姓といふ。これ、刑部史の祖なり。

次を皂郭姓といふ。これ、坂合部首、佐大首らの祖なり。

次を朱姓といふ。これ、小市、佐奈宜らの祖なり。

次を多姓といふ。これ、檜前調使らの祖なり。

次を皂姓といふ。これ、大和国宇太郡、佐波多村主、長幡部らの祖なり。

次を高姓といふ。これ、檜前村主らの祖なり。

  

この一団に、秀吉とかかわるかもしれない佐波多村主がいます。

 

村主(すぐり)というのは、渡来系の人たちに共通する姓です。

連(むらじ)、朝臣宿禰のたぐいです。

 

高橋氏の本家筋である大蔵氏は、この渡来人集団のリーダーとして記録されている阿智王を先祖としています。

 

阿智王という人は、中国後漢霊帝のひ孫だというのですが、こうした系図をどう解釈するかは論者によってさまざまです。

 

① ほぼ全面的に事実と認める。

② 史実の要素はゼロに近いと考える。

③ すべてが真実とはいえないが、ある程度の史実を反映していると考える。

 

僕は③の立場ですが、渡来人の問題は難しくて、どう考えればいいのか、よくわからないことが多いです。

 

豊臣秀吉の母方かもしれない佐波多村主は、阿智王の家来のようなものですから、古代にさかのぼると、高橋紹運の系譜のほうがずっと偉かったということになります。(もちろん、こうした系図情報が真実ならば、という話ですが)

 

ここに、ひとつの疑惑が生じます。 

 

高橋紹運の実子である立花宗茂は、岩屋城の戦いの翌年、豊臣方の薩摩遠征隊の中核として活躍します。

その戦いぶりが秀吉に認められて、柳川を与えられ、大友氏とは別に大名として取り立てられます。

 

豊臣秀吉立花宗茂を衆人環視のなかでほめまくっていたようで、そのいくつかは、文字に記録され現在に伝わっています。

 

「忠義の士、九州第一」

「上方にも汝ほどの若者あるべしとも覚えず」

(東の本多平八郎に対して)「宗茂は西国無双の誉れあれば云々」

    (『名称言行録』より)

 

立花宗茂は立派な武将であったようですが、なにか過剰なものを感じます。

 

「阿智王グループ」という古代的因縁によってひいきされていた──ということが現実にありうるのでしょうか。

 

立花宗茂ひとりであれば、そんな疑惑をもつことはありません。

しかし九州には、もうひとり、大蔵氏系統の武士で、豊臣秀吉加藤清正から、やたらとほめられている人がいます。

 

佐賀県・鍋島家の成富兵庫という武将です。

 (つづく)

 

阿知使主 - Wikipedia

七姓漢人 - Wikipedia

 

阿知使主、「七姓の漢人」についてはウィキペディアにも出ています。