桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

治水技術と渡来人──成富兵庫と豊臣秀吉を系譜的に考える

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成富兵庫の代表的な治水事業「石井樋」。洪水防止に加え、上水道のことも考慮されている。

http://www.maff.go.jp/j/nousin/sekkei/museum/m_izin/saga/ (画像は農水省ホームページ「土地改良偉人伝」より転載。以下の写真も同)

 

 

佐賀県では<治水の神さま>として郷土の偉人になっている戦国武将の成富兵庫。渡来系の有力氏族「大蔵氏」の子孫といわれ、豊臣秀吉とのゆかりも知られています。

 

渡来系の名族大蔵姓の武将たち

 

『大蔵姓成富家譜』という古文献のタイトルが物語っているように、成富氏は渡来系大蔵氏の系譜です。

 真偽のほどは不明であるものの、系図のうえでは、中国・後漢の皇帝を先祖としています。

 

九州の大蔵系氏族は、「種」の通字によって、同族としての一体感を表明しています。

 

成富兵庫は重安のまえ、賢、重を名のっていた時期があり、前回のエントリーでとりあげた高橋紹運は鎮を名のっています。

 

 

和左衛門の佐賀の歴史あれこれ」という郷土史ブログに、成富兵庫の略伝が紹介されているので、引用させていただきます。

 

 龍造寺隆信天正十二年(1584)島原で戦死後、肥前国は島津の脅威に晒されます。

嫡男龍造寺家政は、秋月種実の仲立ちで一時、島津氏へ下ります。

しかし鍋島直茂豊臣秀吉に通じるため、使者を送り関白殿下に謁見、その使者が成富茂安です。

 

佐賀の龍造寺は結局、豊臣方の先方となって薩摩へ攻め入るわけですが、その前段階の微妙な時期に、成富兵庫は大坂城の秀吉のもとへ使者として赴いているのです。

 

成富兵庫はこのとき、二十五歳前後。現在でいえば新入社員に毛のはえたような若手社員です。

 

よほど優秀でも、お家の存亡をかけたような折衝をまかされるものでしょうか。

これがまず、ひとつの疑問です。

 

 

この時点では 龍造寺が大名家で、鍋島直茂は家老です。

秀吉の後押しもあって、じわじわと実権を強め、結局、江戸時代の佐賀が鍋島藩となることはご承知のとおりです。

 

ブログ記事はつづけて、秀吉およびその側近たちの成富兵庫に対する評価がいかに高かったかを紹介しています。

 

島津攻めや高麗陣での武者振りを、太閤や浅野長政ほめ上げ、(中略)黒田如水は肥後一揆(1589年)で非凡の武士と見て他に例がないとほめたたえ、加藤清正は人柄、武勇、築城、治水の功をほめ、一万石で招こうとしたそうです。    

 

一万石という大名並みの待遇でスカウトされながら、佐賀から熊本へ移らなかったのも偉い! と、今度は佐賀県人からも、ほめまくられる成富兵庫です。

 

秀吉と成富兵庫は日本史上、有数の治水家

 

成富兵庫は『コンサイス日本人名事典』『国史大辞典』にも掲載されているので、明らかに歴史上の人物です。

それは武将としての戦歴や政治手腕ではなく、「治水家」としての評価によるものです。

つまり、土木技術者です。

 

 

 

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この写真は成富兵庫の代表的な土木事業「石井樋」の遺構。

 

佐賀市嘉瀬川と多布施川の分流点にあって、佐賀の城下町に澄んだ飲料水を供給するとともに、農業用水の供給、水害防止の目的も持っていたそうです。

 

この写真をみると、石垣の技術が生かされていることがわかります。

 

残念ながら、僕は現場を見ていません。

近いうちに、行ってみたいとおもいます。

 

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これは石井樋周辺の航空写真。 

 

脱ダム派の治水土木の専門家である京都大学名誉教授の今本博健氏は二〇一一年三月、講演のなかで戦国期から江戸時代初頭の武士と治水についてこう述べています。

 

戦国武将はみな名治水家であったが、その代表が武田信玄豊臣秀吉で、両者のやり方は違っていた。

信玄のやり方は、霞堤だとか、信玄堤という水制工をもちい、どちらかといえば流れを上手に扱った。

ところが秀吉は、徹底的に力でねじ伏せている。例えば、巨椋(おぐら)池に流れ込んでいた宇治川を全部断ち切って、付けかえた。

 

秀吉は、高松城の水攻めや墨俣の一夜城などに見るように水を扱うことが好きで、見事にやっている。

 

近世になって、幕藩体制の確立とともに、幕府や藩による治水が進められた。川村孫兵衛、野中兼山、成富兵庫重安など、江戸時代には名治水家が輩出した。

今本/記念講演−1」

 

つまり、成富兵庫と豊臣秀吉は、日本史における治水家として、代表的な存在であるわけです。

 

渡来系の系譜と治水技術の因果関係

 

山川出版社の高校生用の教科書『詳説日本史』には、五世紀ごろの日本列島についてこう書かれています。

 

朝鮮半島や中国とのさかんな交渉のなかで、鉄器、須恵器の生産、機織り、金属工芸、土木などの諸技術が、主として朝鮮半島からやってきた渡来人たちによって伝えられた。

 

京都の桂川の葛野大堰、大阪の茨田堤など、渡来人が担ったとされる古代土木の伝承地は少なからず存在します。

 

土木や治水の分野が、渡来人の活躍の舞台であったことは明らかです。

 

伝説的始祖の渡来から千年。

一族のなかで継承され、洗練された土木技術が、成富兵庫らによって開花した──というような単純明快なストーリーではないとしても、渡来系の系譜と治水技術のあいだには何か結びつきがありそうです。

 

 

豊臣秀吉の場合、渡来系の系譜ははっきり言って、ウワサのようなものです。

渡来系の佐波多村主にはじまる系図やそれらしい所伝はいくつかありますが、成富兵庫と違って、武家社会において公的な表明されたものではありません。

 

しかし、秀吉は成富兵庫に、同族的な親近感をいだいていたのではと疑ってしまいます。

 

そう考えてしまう理由のひとつは、二五歳前後の成富兵庫が大坂城で秀吉に謁見して政治的な折衝をなしていることです。

その後、成富兵庫は、肥前国と豊臣政権をつなぐ外交を担っているそうです。

 

秀吉のバックグラウンドを考えるうえで、成富兵庫は貴重なデータを提供してくれる人物であることは確かです。

(つづく)