桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

豊臣秀吉を渡来人の子孫とする謎の系図

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国立国会図書館に所蔵されている『諸系譜』という系図集に、豊臣秀吉を渡来人の子孫とする系図が掲載されています。『諸系譜』とは、幕末生まれの国学者たちが収集した系図資料がまとめられたものです。

 

国立国会図書館で『諸系譜』を見る

 

現代の戦場というわけでもありませんが、本日の話のはじまりは東京・永田町です。

与野党の激しいバトルの舞台、国会議事堂のそばにある国立国会図書館。その三階の「古典籍資料室」は、俗世から隔絶されたような静寂の空間です。

和書、漢籍、明治時代の和装本などの貴重書を扱うセクションですが、『諸系譜』はこの部署によって所蔵されています。

 

鈴木真年(まとし)ら幕末生まれの国学者が採取した系図資料をまとめた系図集で、ここに「太閤母公系」と題された豊臣秀吉の母方系図が収められています。

完成時期は不詳ですが、明治時代のはじめと考えられています。

 

豊臣秀吉の母方は代々の刀鍛冶で、その先祖は五世紀ごろの応神天皇のとき、朝鮮半島から日本列島に移住した佐波多村主(さはたのすぐり)いう渡来人。

そして、その渡来系鍛冶の一族は大和国から美濃国を経て、秀吉の祖父の世代に尾張国に移ったという内容です。

 

『諸系譜』は学術出版の雄松堂書店によってマイクロフィルム化されており、国立国会図書館のほか、主要な公立図書館や大学の図書館で閲覧できます。

ただし、国会図書館に行っても、『諸系譜』の原本の閲覧は原則としてできないようです。資料の傷みがはげしいためです。

僕もマイクロフィルムでしか見たことがありませんが、気軽にコピー申請できるので、これはこれで便利だとおもいます。

 

『諸系譜』にある秀吉母方の系図は以下のようなものです。

 

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系図の冒頭の「包永」のところにはこう書かれています。

 

佐波多村主後 天蓋平三郎

包永

大和国当麻 後堀河天皇御宇 貞応比 或伏見天皇御時 正応比 刀剣鍛冶工

 

天蓋平三郎「 包永」は、鎌倉時代の刀工で、当麻派、保昌派、尻懸派、千手院派とともに大和五派とされる手掻(てがい)派の始祖的な人物です。

 

刀剣史の専門家に一度、この系図を見てもらったことがあるのですが、刀工系図としては、いろいろと難点があり、そのまま史実とは認められないそうです。

 

このブログの目的は、真実の刀工系図を作成しようというものではありません。

ここでは、渡来系の佐波多村主を先祖に位置づけ、奈良の刀工を初代とする秀吉の系図があるということを確認するにとどめたいとおもいます。

 

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豊臣秀吉の系図学  近江、鍛冶、渡来人をめぐって』(宝賀寿男+桃山堂)より転載。弊社のつくった本です。

 

  

『諸系譜』とはどのような資料なのか

 

ところで『諸系譜』とは、どのような性格の系図集なのでしょうか。

 

一見したところ、かなり雑然とした印象があります。

ひとつの基準を設けて編纂された系図集ではなく、収集し記録した膨大な系図資料をとりあえずまとめたという感じでしょうか。

系図ごとに完成度もまちまちで、なかには研究途上のメモのような系図もあります。

 

江戸と明治にわたって活躍した国学者の鈴木真年(一八三一~一八九四)の収集した資料が主体となっていますが、同学の士である中田憲信(一八三五~一九一〇)が、それをベースとしつつ、自身の収集系図も織り込んで、まとめたのではないかと推定されています。

 

中田憲信も国学者としての素養をもつ人ですが、維新後の本職は法律家で、甲府地方裁判所の所長などの要職を歴任しています。

 

『諸系譜』は国立国会図書館にある原本が唯一のもので、写本は存在しません。

いつ、どのような経緯で国立国会図書館に収まったかも不明です。

 

鈴木真年の作品や遺稿の多くが、三菱系の静嘉堂文庫(東京都世田谷区岡本)で所蔵されていることからもわかるとおり、鈴木真年は三菱財閥の岩崎家の支援をうけて、全国規模の系図調査をおこなったようです。

地方の神社、寺院、旧家に伝わる系図を、鈴木真年は精力的に採取していたと、日本家系図学会の宝賀寿男氏にうかがいました。

 

問題なのは、資料の採取先をきちんと記録していないケースが多いことです。

 

秀吉母方系図のデータも、どのような経緯で見出されたものなのか、『諸系譜』には記載されていません。

 

史料としての価値は低いということになり、アカデミズムの歴史学研究者からはほとんど相手にされないまま、今日に至っています。

 

今のところ、秀吉の渡来人系図について論評しているのは、宝賀寿男氏をはじめとする系図研究のフィールドにいる人たちだけのようです。

 

秀吉の渡来人系図をどう考えるべきか

 

この秀吉母方の系図には疑問点が多く、そのまま史実として信用することはできそうにありません。

 

それならば、偽系図というべきなのでしょうか。

 

最も多く見うけられる系図の偽造は、源氏、平氏などの名門に自家の先祖をつなげて、家柄を飾るものです。

一方、『諸系譜』の秀吉系図は、佐波多村主というほとんど知られていない渡来人を遠祖としています。

同じ渡来系でも、百済王族や漢の王族の末裔を称するのとは意味合いが異なります。

 

それに、豊臣一族が自分たちの系譜として、社会的に公表していたものでもありません。

 

したがって、『諸系譜』の秀吉系図は、単純な偽系図とはみなしえないものです。

 

もし、この系図が史実とはほど遠い内容だとしたら、誰が何の目的で、こうした系図を作成したのかという疑問が生じます。

新撰姓氏録』にちらりと出ているだけの佐波多村主と豊臣秀吉を結びつける理由は何だったのでしょうか。

 

『諸系譜』の秀吉系図は、内容が史実であっても、史実でないとしても、多くの謎をはらんでいます。

(つづく)