徳川幕府がつくった『寛政重修諸家譜』は豊臣氏を渡来系として分類?
『寛政重修諸家譜』は徳川幕府が編纂した武家系図集の集大成です。この系図集で豊臣氏は渡来系の氏族のなかに掲載されている──ように見える謎。
『寛政重修諸家譜』のなかの豊臣氏系図
『寛政重修諸家譜』は江戸時代の大名、旗本の系図を集成した系図集です。
なぜ、そこに大坂の陣で滅亡した豊臣氏の系図が載っているかというと、秀吉の正妻おねの兄の子孫が大名家として存続し、豊臣姓を称していたからです。
『寛政重修諸家譜』は千百十四氏、二千百三十二家を掲載するという膨大な系図集で、全体で千五百三十巻、活字本として出版されているものは全二十二巻と索引四巻です。
活字本では第十八巻に、豊臣氏の系図が載っています。
これがその目次です。
宮道氏、弓削氏は物部氏の系譜、渡会氏は伊勢外宮にかかわる系譜、飯高氏はよくわかりませんが、惟宗(これむね)氏は渡来系である秦氏の系譜です。
『世界大百科事典』は惟宗氏についてこう説明しています。
秦氏はいうまでもなく渡来系の雄族です。
次の大蔵氏も渡来系で、このブログでもとりあげた九州の大名秋月氏の系譜などが掲載されています。
多々良姓の大内氏は、山口県を拠点とした一族で、大内義弘をはじめとする有名武将がいますが、百済王族の子孫を標榜していました。
次の三善氏も百済系、清川氏の始祖は日本に帰化した唐人とされています。
すなわち、惟宗氏から清川氏まで、朝鮮半島や中国にルーツをもつ武家の系譜が並んでおり、その二番目に、豊臣姓の木下氏の系譜が掲載されている──ように見えます。
『寛政重修諸家譜』を編纂する幕府の文官は、豊臣秀吉のルーツが渡来系という情報をもっており、豊臣氏を渡来系グループとして分類したのでしょうか。
編纂者が執筆したまえがきの内容を、そのまま信用すれば、どうもそうではないようです。
幕府編纂者の編集方針
『寛政重修諸家譜』の掲載系図の配列は『新撰姓氏録』を踏襲して、「皇別、神別、諸蕃」の順に並べられています。
「皇別」というのは、天皇家からの分岐した氏族という意味で、武家系図でいえば源氏、平氏です。
「神別」は天皇系ではない貴族を先祖とする氏族で、藤原氏、菅原氏、物部氏などの系統です。
朝鮮半島や中国にルーツをもつと称する氏族が「諸蕃」。つまり、渡来系の氏族です。
上記写真の目次において、渡会氏までが「神別」で、秦氏から清川氏までが「諸蕃」です。
「神別」と「諸蕃」に挟まれた飯高、惟宗、豊臣の三氏は、何なのでしょうか?
『寛政重修諸家譜』では、こう説明されています。
飯高、惟宗のごとき、出所さだかならず。豊臣氏のたぐい、何れの別といひがたきものは、しばらく神別の下におさむ。
豊臣氏など三氏は分類不能だから、とりあえず、「神別」と「諸蕃」のあいだに置くといっているのです。
しかし、上記写真には、渡来系氏族に続いて、「未勘」という項目があり、「もろもろの姓氏、詳ならざるを未勘となづけ、諸氏のしもにをけり」と書かれています。
豊臣氏など三氏が分類不能なら、 「未勘」に入れればクリアーだとおもうのですが、なぜ、そうしないのか疑問です。
さらにいえば、幕府の編纂者は、惟宗氏を不詳扱いしていますが、渡来系であることを強く示唆しています。
惟宗姓神保氏の系図に注釈して、幕府の編纂者は、
と記しています。
惟宗氏(神保氏)については、限りなく渡来系に近いニュアンスで掲載されているわけですが、その次が豊臣氏、そして秦氏という配列には、悪意とまではいえないものの、意図的なものを見るのはゲスの勘ぐりでしょうか。
豊臣氏と惟宗姓島津氏
冷静に考えるならば、豊臣氏が惟宗氏、秦氏という有名な渡来系氏族のあいだに配置されたのは、「偶然」ということになります。
こういうのを奇遇というのでしょうか。
現代日本に住む歴史好きにとって、惟宗氏は比較的有名な渡来系氏族だとおもうのですが、その原因のひとつは、薩摩藩・島津氏の「史実としての系譜」が惟宗氏と考えられているからです。
昭和期に書かれた本には、島津氏の始祖を鎌倉将軍・源頼朝のご落胤としているものもありますが、最近は、そんなことはないようです。
『岩波 日本史事典』でも、「本姓は惟宗」と断じています。
『寛政重修諸家譜』の記事は、島津氏の始祖忠久について、惟宗氏の結びつきを詳述してはいるものの、薩摩藩島津家の自己申告を認めて、源頼朝の「御落胤」としています。
幕府の編纂者が御落胤説に「?」である雰囲気は行間から伝わるのですが、結局、頼朝の直系子孫と記載させたのは、西国の雄藩の政治力でしょうか。
島津氏は清和源氏の氏族として分類され、この膨大な系図集では冒頭に近いところに掲載されています。
もし、島津氏が小さな大名とか旗本クラスの家であれば、「惟宗姓 島津氏」として、豊臣氏の直前に配置されたかもしれません。
(つづく)