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桃山堂ブログ

豊臣秀吉の<謎>、火山と古事記の探究、電子書籍への挑戦。

秀吉と羽犬伝説と前方後円墳

 福岡県筑後市羽犬塚という地名の発祥をめぐって、豊臣秀吉と「羽犬」すなわち翼のある犬の伝説が語られています。こじつけめいた話をいろいろ書いてしまいましたが、私が秀吉と羽犬の伝説が気になって仕方がない最大の原因は、羽犬伝説の地、筑後エリアに九州では最大級の古墳群が存在するからです。このブログでも、たびたび話題にしているとおり、秀吉と古墳には無視しがたい結びつきがあるように見えるからです。

 

(以下の記事は、電子書籍「秀吉伝説集成」の一作『秀吉と翼の犬の伝説』の内容紹介です)

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この前方後円墳のそばの道を、秀吉ひきいる大軍勢が通って、薩摩へと向かった。

 

 

そこは北部九州最大の古墳群

羽犬塚のある福岡県筑後市に有名な企業、観光地はありませんから、自治体としての知名度は低いとおもいます。筑後市とは、どのような地域なのでしょう? 国立国会図書館ウェブサイトにある資料検索で、「筑後市」として調べてみると、百件ちょっとの資料がありますが、そのうち九十件以上が、古墳や遺跡など文化財発掘の調査報告書です。筑後市には前方後円墳、円墳をはじめ、おびただしい数の古墳時代の遺跡があります。

 

筑後市から久留米市、八女郡広川町、八女市へと連なる低い丘陵地帯には、大小三百基ほどの古墳が群集しており、「八女古墳群」と呼ばれています。北部九州では最大の古墳集積地です。この古墳群で最大の前方後円墳「岩戸山古墳」(全長一三五メートル)は、継体天皇との紛争の主役である筑紫君磐井の墓だといわれています。

 

羽犬塚のある筑後市は、古代の記憶をたたえた古墳の町です。羽犬塚の「塚」は、古墳を指す言葉でもあるので、羽犬塚という地名そのものが古墳とかかわる可能性があります。

 

羽犬塚が北部九州で最大の古墳エリアに位置することに注目するのは、秀吉をめぐる史実と伝承において、古墳にかかわる話が目につくからです。

 

秀吉の母親の出生地は名古屋・御器所とされていますが、八幡山古墳をはじめとして古墳の多いところで、東海地方で最大の前方後円墳である断夫山古墳(全長一五〇メートル)も徒歩一時間圏にあります。秀吉母子が参詣していたという伝承をもつ高座結御子神社熱田神宮境外摂社)の稲荷社は小さな円墳と一体の神社です。

 

羽犬塚から二キロほどのところにある岩戸山古墳と名古屋の断夫山古墳は、天皇陵を除けば、六世紀に造営された古墳のなかで第一位、第三位にランクされ、同じ設計プランによって造営されたとも考えられています。

 

古墳の視点を借りると、名古屋と羽犬塚のある筑後地方には共通点があるわけですが、別の言い方をすると、六世紀の継体天皇の時代、尾張筑後地方は、日本列島で有数の政治勢力であったということです。

 

断夫山古墳の埋葬者とされている尾張氏は、継体天皇に配偶者を送り込んで外戚になるなど強い提携関係にあります。筑後の筑紫君磐井は継体天皇と敵対して激しい戦いになりますが、それ以前においては、継体天皇を支える勢力の一翼を担っていたという説もあります(水谷千秋『継体天皇朝鮮半島の謎』ほか)。

 

石の兵士の守る前方後円墳のそばで

八女古墳群で最も古い前方後円墳は、羽犬塚の集落から北東二キロほどのところにある石(せき)人山(じんさん)古墳(全長約一一〇メートル)です。筑後市と八女郡広川町をまたぐように鎮座しており、この前方後円墳のそばに一條という集落があります。

 

九州遠征における秀吉の行軍ルートについてはいくつかの地域伝承があり、「太閤道」と呼ばれています。史料や伝承をもとにそれをまとめた労作『太閤道伝説を歩く』(牛嶋英俊)は、筑後市前後のルートについて、

 

秀吉通過の道筋はおおむね久留米市府中から広川町相川・一条、筑後市羽犬塚をへて長田にいたる。その間、太閤道の伝承は広川町一条のみだ

 

 

と説明しています。この地域では最古の前方後円墳のある集落だけが、秀吉についての記憶を伝承しているのです。

 

八女古墳群のよく知られた特徴は、古墳の墳丘に埴輪ではなく、石の造形物が置かれていることです。「石人」と呼ばれる古代の鎧兜に身をかためた武人の石像はその代表的なもので、石人山古墳という名称の由来となっています。いま、この古墳を訪ねてみると、横穴式石室のそばで、小屋に保管された「石人」を見ることができます。ほんとうに人間の大人と同じくらいの大きさです。緻密な文様の彫られた石棺も有名です。

 

住民が伝承する「太閤道」は、石人山古墳の外周をなぞるように伸びている三メートル幅の道です。農道に毛の生えたような道ですが、この道を行軍してきた秀吉は古墳のかたわらで休息をとり、そのとき、一條集落の住民が一服の茶を献上したというのです。こうしたことが「太閤道」の伝承として、この集落で語りつがれてきたそうです。

 

秀吉と古墳のつながりについては、当ブログのカテゴリー「古墳/土師氏」にいろいろな記事を載せています。 →

 

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秀吉伝承がのこる「太閤道」。この道を秀吉ひきいる大軍勢が通り抜けた。