伊勢地方の「朱の歴史」がわかる二つの資料館
奈良と伊勢は日本列島における二大朱産地といっていいと思いますが、残念ながら、奈良には「朱の歴史」がわかる博物館、資料館がありません。文春新書『邪馬台国は「朱の王国」だった』に関係する話題を紹介する企画の第四回は、伊勢地方にある二つの博物館の案内です。
中央構造線に沿って点在する伊勢地方の朱産地
伊勢地方の朱の鉱床は東西二六キロ、松阪市から丹生神社と鉱山跡のある多気町を経て、伊勢神宮のある伊勢市におよんでいます。
中央構造線の南北それぞれ一キロくらいの範囲に鉱床が集中しています。
奈良県の朱産地と同じく、千五百万年まえの巨大な火山活動にともなう熱水鉱床です。
伊勢地方で朱の鉱石が確認されているエリアのいちばん東端にあるのが、伊勢市辻久留で、そこは伊勢神宮の外宮(げくう)の隣接地といってもいい場所です。
乱雑なこの原案をもとに、編集者さんとデザイナーさんが、きちんとした地図にまとめてくれました。
この地図で提示したかったことは、
①伊勢神宮が朱産地のごく近くに鎮座していること
②伊勢神宮が朱の鉱床をつくった中央構造線のほぼ真上に鎮座していること
です。
この事実はかねてより指摘されていることですが、この事実が持つ意味については、過小評価されているのではないでしょうか。
グーグルマップの上で見れば、中央構造線と伊勢神宮の位置関係は明らかです。
伊勢市の隣、度会町にある「朱の博物館」
三重県度会町は伊勢市に隣接する小さな自治体ですが、「朱」(辰砂、硫化水銀)をメインテーマとする博物館があります。
度会町ふるさと歴史館です。
「度会町ふるさと歴史館」について | 度会町公式ホームページ
伊勢神宮から西に約十キロ、「森添遺跡」という縄文時代の後期末から晩期にかけての遺跡があります。
この遺跡の発掘調査によって、朱石を磨りつぶすための石器、朱の鉱石、朱で内部が真っ赤に染まった土器が大量に発見されました。
朱の鉱物(辰砂)を磨りつぶして、粒子状の朱とする。
縄文時代から、このような道具で、朱の粉をつくっていた。
左側の石の、赤い部分が、朱(辰砂)のかたまり。
森添遺跡の発掘調査の責任者だった奥義次氏は、朱の考古学の第一人者。
度会町ふるさと歴史館の運営にもかかわっています。
森添遺跡が注目される理由は、東北地方、三河地方など、他地域の系統の縄文土器が見つかったからです。
奥氏をはじめとする研究者は、伊勢に産出する朱を求めて、日本列島各地の人たちがこの地を訪れていると解釈しています。詳細を知りたい方は、奥先生が執筆している『三重県史 通史編 原始・古代』の関連項目をご覧ください。
<朱の道>は縄文時代から、伊勢から各地にのびていました。
伊勢神宮の信仰、アマテラスの歴史は縄文時代から存在した──というのは早計であるとしても、まったく無関係とも断じがたいところがあります。
廃校を利用したミニ博物館
度会町ふるさと歴史館は、児童数減少により廃校となった旧小川郷小学校を再活用するための施設です。
もとの職員室が、資料館の事務室に。
今も先生たちの話し声が聞こえてきそうです。
度会町ふるさと歴史館の開館日は、限られているので、もし、お出かけなさるときはご注意を。
開館日は、毎週木曜日、毎月第2、4日曜日の午前9時から午後4時(入館は午後3時30分まで)*第5木曜日と年末年始を除く
丹生鉱山のある多気町の資料館
戦後の昭和期まで朱を採掘していた丹生鉱山、丹生神社のある三重県多気町。
町立図書館のなかに、「朱の歴史」をテーマのひとつとする「勢和郷土資料館」があります。
昭和期のものですが、採掘用の道具。
みごとな朱の鉱物(辰砂)が展示されている。
伊勢の朱産地は、室町時代ごろ、古代的な技術では採掘が困難となり、中断していた。昭和期に採掘を再興したひとり、北村覚蔵についての紹介。
もうひとつの見所、中央構造線
三重県多気町には、「朱の歴史」にかかわるもうひとつの重要サイトがあります。
中央構造線の露頭です。
伊勢地方の朱の鉱床は、千五百万年の巨大な火山活動で生じた熱水が、中央構造線およびそこから分岐する大地の亀裂に入り、凝結し、優良な鉱床となったと理解されています。
左は花崗岩質の領家帯。右の黒っぽいほうは三波川帯。
ふたつの地層の境界線が、日本列島を横断する巨大な断層となり、伊勢と奈良では朱の鉱床をうみだしています。
中央構造線であることを示す看板などは出ていないので、うっかりしていると、見すごしてしまいます。
こちらも、お出かけの際は、多気町役場などにご確認ください。