司馬遷『史記』──不老長寿の神仙幻想と日本列島
邪馬台国ブックリスト②
日本列島に朱・水銀の豊かな鉱床がある──。その情報が、中国文化圏にもたらされたのは、いつごろのことなのでしょうか。
文献のうえでは、三世紀後半に書かれた「魏志倭人伝」における「その山には丹あり」という記述が最初の事例ですが、当然ながら、情報の伝来はそれをさかのぼることになります。「朱の王国」としての邪馬台国をかんがえるとき、司馬遷の「史記」にしるされた徐福についての記述は無視できないのですが、あまりにのぼんやりとした情報で、年代も邪馬台国時代からは六百年ほど隔たっているので、文春新書『邪馬台国は「朱の王国」だった』では、軽く触れただけでした。
というわけで、今回は邪馬台国かんれん本として「史記」をとりあげてみます。
「後漢書」のなかの徐福
中国の歴代政権が作成した史書のいくつかには日本列島についての記述があって、「魏志」のなかの「倭人伝」に邪馬台国についての記述があることはおなじみの事実です。後漢が滅亡して、魏呉蜀の三国時代がはじまるので、順番としては逆になりますが、「魏志」が書かれたあと、「後漢書」が作成されています。
「後漢書」の日本列島について記述は、「魏志倭人伝」の丸写しに近いもので、邪馬台国、卑弥呼について私たちがよく知る内容が書かれていますが、いくつか重要な相違点があり、そのひとつは、司馬遷の「史記」にある徐福の話の概要を掲載していることです。「史記」の淮南衝山列伝にある記事です。
「史記」では、徐福が赴いた島を倭(日本列島)と明示していませんが、「後漢書」は倭の項目の、邪馬台国、卑弥呼のくだりの直後に、徐福の記事を載せています。徐福が発見し、その後、定住した島国は日本列島であることをほぼ断定しているわけです。
「史記」の淮南衝山列伝をもとに概要を紹介してみます。私には古代中国の文献を読む能力などありませんから、日本語訳をコンパクトにしただけです。
秦の始皇帝は、不老不死の薬を探させるため、徐福を海の彼方に向かわせた。徐福はそのありかである蓬莱山を知る神と出会ったものの、神はその場所を見せても良いと言ったが、持ちかえることは許さなかった。
徐福は、何を献上すれば、不老不死の薬を持ちかえることが許されるのか尋ねた。その神は、良家の男子、女子、さまざまな職人(原文では「百工」)を献上すれば、望みの物は得られるであろうと答えた。
これを聞いた始皇帝は喜び、三千人の童男、童女に五穀の種、さまざまな職人を添えて、徐福を再び派遣した。ところが、徐福は彼の地にとどまり王と称し、戻ってくることはなかった。
不老長寿のメソッドを柱とする神仙思想は道教とむすびつき、中国の精神文化においてひとつの潮流をつくっていますが、神仙の術を方術といい、それを行う人を方士といいました。「後漢書」の倭のくだりでは、徐福の肩書きを「方士」としています。かねてより指摘されているように、徐福伝説は不老不死を夢見た古代中国の神秘医学の世界と重なり合っています。
不老長寿の効能をかかげる仙薬をつくるとき、最も重要な素材として珍重されたのが朱、水銀でした。水銀の有害性を知る現代人には信じがたいことですが、『神農本草稀経』『抱朴子』など古代医学のテキストをみると、神秘的な医学において、水銀や朱がいかに重視されていたかは明らかです。
「史記」のなかの徐福には、朱や水銀とのかかわりが見えます。
「史記」は中国の史書の元祖的な存在であり、その基調はリアリズムであるはずですが、徐福の話は真偽不詳の伝説めいた気配が濃厚です。しかし、司馬遷が荒唐無稽の伝説に価値をみいだしていたとは思えませんから、史実的要素の強い伝承であるのではないでしょうか。
そう考えてみると、ここに登場する「神」が、始皇帝の使者、徐福に交換条件として要求した「さまざまな職人(百工)」が、非常に奇妙なものに見えてきます。
異国からの使者に「職人」の派遣を要求する「神」などいるものでしょうか。
始皇帝の生きた時代は紀元前三世紀は、日本列島でいえば弥生時代ですが、徐福に「百工」を要求した「神」を、そのころの日本列島の有力者というくらいに解釈することで、この伝承は現実の歴史との接点をもちうるはずです。
不老不死の効能(もちろん、そんなものは無かったのですが)のある水銀や朱を採掘することと引き替えに、中国の先進的な技術を求める<等価交換>と解釈することもできるとおもうのです。一種の貿易行為であるともいえます。
じつは、前回紹介した「佐世保邪馬台国説」の『真説邪馬台国』(恋塚春雄)は、徐福伝説と日本列島の水銀鉱床とのかかわりを論じています。徐福伝説と朱・水銀の関係をとりあげた最初の論考かどうかは未確認ですが、この点においても、『真説邪馬台国』にはユニークな古代史本であったといえます。
永遠に流動する水銀の川
「史記」秦始皇本紀には、始皇帝についてのこんな一文があります。
始皇日く、「吾、真人を慕ふ。自ら真人と謂ひて、朕と称せざらん」と。
世界の真理をきわめ、不老不死を達成した「真人」すなわち仙人への願望のあまり、始皇帝は帝王の一人称である「朕」をやめて、自分のことを「真人」と呼ぶと宣言しているのです。
はじめて、中国世界を統一し、比類無き帝国を築いた始皇帝ですが、しょせんは生身の人間、やがては老い、死の恐怖におびえることになります。「史記」秦始皇本紀は、こう述べています。
始皇、死をいうことをにくむ。群臣、あえて死のことをいう者なし。
「死」をにくんだところで、それを避けることは不可能です。始皇帝は亡くなり、世界でも屈指の巨大な墳墓に埋葬されました。有名な始皇帝陵です。
墓には機械仕掛けの弓矢があり、埋葬空間に近づこうとする者を射殺すようになっていたと書かれています。
「史記」によると、始皇帝の埋葬空間には、水銀の流れる川があり、それは水銀の海にそそいでいました。こちらも機械仕掛けによって、水銀の川は、永遠に流れ続けるようにつくられているというのです。原文の読み下しを引いてみます。
水銀を以て百川、江河、大海をつくり、機もて相灌輸す
永遠に流れつづける水銀の川が、<永遠の生命>をシンボライズしていることは言うまでもありません。始皇帝陵は、共産党政権となった現代においても、未発掘で内部状況を知るよしもありません。水銀の川がどうなっているのかも、いまだ謎につつまれています。
日本各地の徐福伝説
徐福伝説は日本各地にのこっていますが、日本人が「史記」を読み出したあと、付会された伝説なのか、それとも史実として徐福にかかわる一団の居住地だったのか、判断するのは難しいことです。
有名な伝承地は、佐賀県、長崎県、鹿児島県、そして、熊野地方の中心都市である和歌山県新宮市といったところです。
朱・水銀の分布のうえでは、佐賀県、長崎県は「九州西部鉱床群」、鹿児島県は「九州南部鉱床群」と命名されている代表的な産地です。
熊野地方は、神武天皇の東征伝説で、船によって九州から移動してきた軍団の上陸ポイント、つまり、奈良に至る進軍ルートの起点です。
これをとらえて、「徐福=神武天皇」という説で本を書いている中国人の学者もいますが、別の話になってしまうので、本日はこのあたりで終わりとさせていただきます。