松田壽男『丹生の研究』──朱の歴史学の先駆けとなった名著
朱・辰砂・水銀ブックリスト①
1970年、早稲田大学文学部の教授であった松田壽男氏の『丹生の研究―歴史地理学から見た日本の水銀』(早稲田大学出版部)が刊行されたことによって、日本の歴史に朱(辰砂)・水銀が深くかかわっていることが知られるようになりました。松田氏の専門は東洋史です。古代中国で朱・水銀が珍重された史実を熟知していたことが、日本列島の朱産地に目を向けた理由であるようです。
朱と水銀の古代史
『丹生の研究』は、邪馬台国やヤマト王権の歴史を直接のテーマとはしていませんが、いくつかの言及があります。拙著の文春新書『邪馬台国は「朱の王国」だった』で紹介できなかった文面もふくめて、いくつかあげてみます。
邪馬台国の時代にすでに朱の採掘が盛んであったことについては、
日本の朱砂は古くからシナ人の異常な関心をひいたらしく、そのために魏志倭人伝にははやくも倭における丹の産が特筆されている。
『丹生の研究』P47
魏志の倭人伝に明らかなように、その朱産は外国人を刮目させるほどであった。
『丹生の研究』P25
と述べています。
神武天皇については、神武天皇の伝説の舞台が奈良の朱産地と重なっていることを述べるくだりで、
この事実が、日本の太古代史に結びつかないとは、誰がいいきれるであろうか。
『丹生の研究』P11
と、重要な問題提起がなされています。
神功皇后については、以下のような記述があります。
神功皇后の伝説にはふしぎなほど朱砂がまとわりついている。それらは、おそらく息長族が朱砂の採取や処理に特技をもつ一族であり、それが国内の朱砂資源の開発にとって、かなり大きな働きをしたことを反映しているのではあるまいか。
『丹生の研究』P282
古事記、日本書紀にある神武天皇、神功皇后の伝説には、水銀ガスの猛毒の知識がみえることも、『丹生の研究』で詳述されています。
なぜ、日本史学界で評価されなかったのか
神武天皇、神功皇后の伝説と朱・水銀の歴史をむすびつけた『丹生の研究』は、かつてない斬新な視点であったとおもうのですが、古代史学界で正面切って議論された形跡はありません。なぜでしょうか。
神武天皇は船によって、生まれ育った九州の日向国を出立、いくつかの戦いを経て、奈良に入り、初代の天皇になります。神功皇后は夫である仲哀天皇の死後、全軍を統率し、朝鮮半島に出兵、みごとに勝利しています。
戦前、戦中期の教科書ではこうした記述を史実として記載していましたが、戦後の歴史学を方向づけた津田左右吉氏、直木孝次郎氏など有力な学者は、神武天皇、神功皇后を実在の人物とは認めていません。そして、記紀の物語の多くを史実ではなくフィクションとしています。それが戦後の歴史学の定説となっています。
つまり、『丹生の研究』が刊行された一九七〇年代、学界の議論においては、神武天皇、神功皇后を前向きにとりあげること自体が不見識であり、戦前・戦中期に逆行するような反動的な行為とみなされた可能性があります。
松田氏が述べていることは、神武天皇、神功皇后の伝説には、朱・水銀とのかかわりが濃厚に見えるということであって、その実在性をうんぬんしているのではないのですが、七〇年代当時の進歩的(左翼的?)な歴史学者にとっては、神武天皇、神功皇后の実在説を側面支援するような研究にみえたのかもしれません。
日本史学界からあまり相手にされなかった原因のひとつは、松田氏は古代中国を中心とする東洋学の研究者であったことにあるようにもみえます。しだいに分業の傾向がつよくなる歴史学界において、中国史の研究者が、日本古代史に言及することは一種の領海侵犯だったのでしょうか。
最も大きな理由は、日本列島における朱・水銀の営みが、十分に〝歴史化〟されていなかったことではないか。私がそう考える根拠は、1970年の時点において、朱の商業的な採掘がおこなわれていたことです。
金銀の歴史の重要さは明らかですが、歴史学、考古学としての研究の歴史は浅く、その全貌が明らかになっているわけではありません。鹿児島県の菱刈金山では現在も採掘がつづいており、新しい鉱床の発見をめざす探査もつづいています。
日本列島に存在した石炭資源が、明治時代以降の近代産業に大きく貢献したことは知られていますが、その歴史については必ずしも熱心に研究されているとはいえないと思います。
石炭、金、朱・水銀。こうした近現代まで採掘がなされた鉱物は、歴史学の研究対象としては、時代が近すぎるのだと思います。
朱の商業的な採掘が終わって、ほぼ半世紀。もしかすると、本格的な研究がはじまるのは、これからなのかもしれません。
おそるべきフィールドワーカー
戦前の松田氏は東洋史の研究者として、中国やシルクロードのある西域を歩きまわっていたようですが、戦後、共産党政権が中国を支配したあと、フィールドワークがまったくできなくなってしまったといいます。
東洋史の研究者が、古代日本における朱・水銀の歴史に没入したのは、古代中国において、朱・水銀がとほうもない価値をもっていたことをよく知っていたからです。朱・水銀によって、古代中国と日本列島はむすびついており、それを実証的に明らかにした作業が『丹生の研究』であるともいえます。
『丹生の研究』には、朱産地として有名な奈良、九州だけでなく、瀬戸内エリア、日本海エリア、東日本などもふくめて、「丹生」という地名を手がかりに古代の朱産地を探査しています。
松田氏の研究によってはじめて、丹生という古代からの地名および人名が、朱・水銀とふかい関係をもつことが実証されました。
この本は大ぶりのB5判(週刊ジャンプのサイズ)で400ページを超す大著です。
拙著である文春新書『邪馬台国は「朱の王国」だった』を読んでいただき、朱の歴史に興味をもたれたなら、ぜひ、『丹生の研究』に目を通していただきたいと思います。
ただ、残念ながら、この本は発行部数がすくない学術書なので、各県の県立図書館くらいにしかないようで、古書市場では高価です。松田氏の研究のエッセンスを知るには、ちくま学芸文庫に入っていた『古代の朱』が最適です。こちらは『丹生の研究』と比較すると、ずっとアクセスしやすい本です。
『古代の朱』の冒頭で松田氏はこう述べています。
だいたい『丹生の研究』は、日本として、いや世界としても、水銀を人文科学の対象として取扱った最初の書物だ。文庫版P8
朱の歴史学は、日本でこそなされるべき研究テーマであるという自負がうかがえる一文です。
『古代の朱』には、日本各地の丹生地名、すなわち古代の朱産地の候補地が一覧表とされています。このリストだけでものすごい情報量で、いろいろなことを考えさせられます。このほとんどの地点を実地調査しているのですから、頭が下がります。
『邪馬台国は「朱の王国」だった』に転載したかったのですが、スペースのかねあいで出来ませんでしたので、このブログに挙げておきます。合併などで変更になっている地点もありますが、『古代の朱』のままで引用しています。
7 千葉県安房郡富浦町丹生
8 長野県大町市丹生ノ子
9 岐阜県大野郡丹生川村(大丹生岳、大丹生池、小丹生池などがある)
16 和歌山県有田郡金屋町丹生
17 和歌山県有田郡吉備町丹生図(東丹生図、西丹生図)
21 奈良県吉野郡下市町丹生
24 奈良県御所市関屋字丹生谷
25 奈良市(旧柳生村)丹生町
27 滋賀県伊香郡余呉村上丹生および下丹生(もとは丹生村と称した)
36 神戸市兵庫区山田町丹生山
45 鹿児島県姶良郡溝辺町丹生附