桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

展覧会図録『縄文 1万年の鼓動』── <朱の日本史>は縄文時代に始まる

朱・辰砂・水銀ブックリスト②

 

今回、紹介する<朱の本>は、現在、東京・上野の国立博物館で開催中の『縄文 1万年の鼓動』の図録です。7月20日刊行の拙著『邪馬台国は「朱の王国」だった』(文春新書)の参考文献ではないですが、朱の日本史をかんがえるうえで看過できない資料なのでここでとりあげてみます。

 

展覧会の会期は9月2日まで。残念ながら、この図録は、一般書店では販売されていませんが、東京国立博物館ミュージアムショップでは会期終了後も販売されるようです。

 

意外とこの手の展覧会図録は、図書館にあったりもします。ぜひ、<朱の歴史>という視点から、縄文の美術を見直していただきたいと思います。

www.tnm.jp

 

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朱の国・日本のルーツは縄文時代にあり

 

<朱の日本史>における3つのエポックを選ぶとすると、以下のようになると思います。

 

  1. 1500万年まえ(新第三紀・中新世)の巨大な火山活動で、奈良、伊勢に日本列島最大の朱の鉱床が形成される。
  2. 縄文時代、朱の初期的な採掘がはじまり、土器、木櫛などに朱色の装飾がほどこされる。
  3. 1970年代、奈良、伊勢で稼行していた朱(水銀)鉱山が閉山。日本列島における朱の商業的採掘はこの時点で終了。

 

縄文時代は、日本のものづくり文化において、朱の利用がはじまった時代でもあります。

「縄文 1万年の鼓動」展の会場を訪れ、そのことを再認識した次第です。

 

第一展示室を入ってすぐのところに、「漆塗注口土器」と命名されている鮮やかな赤味を帯びた土器がありました。かんたんに言えば、日本茶をいれる急須の形です。

説明文によると、この赤色は「朱漆」であるそうです。展覧会図録『縄文 1万年の鼓動』ではアップ写真が掲載されており、あざやかな朱の輝きを確認できます。

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粘着の性質をもつ漆に、朱(辰砂、硫化水銀)を混ぜ合わせ、土器を朱色に彩っているのです。これは、現在の朱色の漆器と基本的には同じ彩色手法で、朱塗りの伝統が縄文時代にはじまっていることを教えてくれます。

 

この土器が見つかったのは、北海道八雲町と説明されています。

北海道は九州と並ぶ火山の密集地で、火山活動に由来する朱の鉱床が数多くあります。

 

朱の鉱石は風化しやすく、砂状の朱となって川底や地面のくぼ地に堆積するので、縄文時代の人たちの目にも、美しい朱色の砂として目に入っていたはずです。

とくべつの採掘技術がなくても、朱砂は手に入るものなので、北海道で朱塗りの縄文土器が出土するのは、まったく自然なことです。

 

もっとも、北海道はヤマト王権および古代日本の版図ではありませんから、邪馬台国以降の<古代の朱>とはかかわっていません。北海道で本格的な朱・水銀の商業的採掘がはじまるのは、戦前の昭和期でもはや現代史の範疇です。

 

 赤色の木櫛

 同じ第一展示室に、埼玉県桶川市出土の「漆塗櫛」があって、これも赤色がほどこされていますが、こちらはベンガラ(酸化鉄)であると説明されています。

 

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このほかにも、赤の装飾をもつ土器がかなりの数、展示されていましたが、朱(辰砂)による赤色なのか、ベンガラ(酸化鉄)の赤色なのか、展覧会図録『縄文 1万年の鼓動』の解説文を読んでも、はっきりと書かれていないものが少なくありません。おそらく未検査なのだと思います。

 

一般的な説明のうえでは、朱のほうがあざやかな光沢をもつ赤色となり、ベンガラはややくすんだ色になるとされています。

貨幣的な価値においては、朱のほうがはるかに上回っていますが、それは彩色の素材としての優秀さに加え、薬品としての利用をはじめ、朱には化学的な素材としての価値が認められていたからです。水銀をつくり出す素材としての価値です。

 

色彩の良し悪しを縄文時代の人たちが認識していたのかどうか不明ですが、朱の彩色に特別の価値を見いだしていたのかもしれません。

 

「縄文 1万年の鼓動」の展示会場を歩いていると、思いのほか、朱(あるいはベンガラ)によって彩色された縄文土器が多いことが印象に残りました。

朱、ベンガラの赤色をのぞけば、黒色の装飾があるくらいです。

 

日本のやきものの歴史で、釉薬による緑色系統の彩色がはじまるのは、平安時代のことですから、縄文時代にはじまる長い、長い期間、<赤と黒の時代>がつづいたことになります。

 

千利休の茶道に深くむすびついている楽家の茶碗が、赤と黒であることも、縄文時代以来の彩色土器と無縁ではない──と考えている人も少なからずいるようです。

 

日本人の美意識において、<赤>がいかに重要であるかは言うまでもありませんが、そこに朱の歴史とのつながりを見たいとおもいます。

 

伊勢地方の<朱の縄文遺跡>

邪馬台国は「朱の王国」だった』がメインテーマとしているのは、邪馬台国の時代である三世紀から奈良時代までの<朱の日本史>ですが、縄文時代についてもすこしだけ言及しています。 すこし長くなりますが、その部分を引用します。

 

伊勢神宮の内宮から西に約十キロ、三重県度会郡度会町の宮川の右岸で一九八六年から三次にわたる発掘調査によって、朱石を磨りつぶすための石器、朱の鉱石、朱で内部が真っ赤に染まった土器が大量に発見されました。

森添遺跡と命名され、土器によって約三千年まえの縄文時代の後期末から晩期にかけての遺跡であると判明したのですが、調査責任者の奥義次氏を困惑させたのは、三重県では見かけない形状の土器がたくさん混じっていることでした。

その後の調査によって、東北、北陸、長野県など中部高地の土器であることがわかり、縄文時代の交易ネットワークとして注目されることになりました。その背景がすべてわかっているわけではありませんが、奥氏をはじめとする研究者は、伊勢に産出する朱を求めて、日本列島各地の人たちがこの地を訪れていると解釈しています(『三重県史 通史編 原始・古代』)

 

伊勢地方の<縄文の朱>を展示した「度会町立ふるさと歴史館」(開館日は毎週木曜と第二、第四日曜)のことは、以前、このブログでも紹介しました。

朱の考古学の第一人者である奥先生からレクチャーをうけたのはこの小さな博物館でした。

 

朱塗りの縄文土器。その素材である朱(辰砂)は、どのように入手したものだったのでしょうか。

 「縄文 1万年の鼓動」の展覧会では、朱の入手ルートについては話題とされていませんが、個人的には、どうしてもそのあたりが気になります。 

 

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