桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

野馬土手──千葉県の各地に残る幕府直営牧場の遺構

拙著『「馬」が動かした日本史』(文春新書)掲載のこの地図は、幕府直営牧場の領域を示したものです。江戸時代半ばの地図をもとに、千葉県が復元したものですが、下総国(千葉県北部)の五分の一くらいを放牧地が占めている印象で、にわかに信じられないような広さです。

 

 

f:id:kmom:20200107103227j:plain

幕末期の飼育頭数は小金牧千頭、佐倉牧三千頭、嶺岡牧千頭と推計されています(大谷貞夫『江戸幕府の直営牧』)。

一か所あたりの飼育頭数でいえば、佐倉牧はこの時期、国内最大級の牧場です。

 

千葉県にあった幕府直営牧場のはじまりは、徳川家康の時代にさかのぼるとも言われていますが、創設期の実態については不明な点が多くあります。

 

幕府の放牧地の柵や馬の誘導のために造られた土手が、千葉県の各地に残っています。

これが、野馬土手(のまどて)です。 

f:id:kmom:20200107103312j:plain

知らずに歩くと、単なる林にしか見えない。

これはJR南柏駅から、十分たらずの場所にある「松ヶ丘野間土手」。

保存状態が良好な野馬土手のひとつで、詳しい説明パネルもあるので、野馬土手の見学にはお勧めのポイントです。

 

f:id:kmom:20200107103431j:plain

 

柏市側に馬の放牧地があり、流山市のほうにある民家、田畑との境界線に野馬土手が築かれていました。

 

f:id:kmom:20200107103452j:plain

土手と土手の間に、堀がつくられているので、比高でいうと、四、五メートルありそうです。

 

f:id:kmom:20200107103517j:plain

ここが、土手のあいだの堀の部分。

 

f:id:kmom:20200107103549j:plain

中野牧跡の見学会

 

野馬土手をもう一か所、紹介します。

新京成線の北初富駅から東に約三〇〇㍍。千葉県鎌ケ谷市のこのあたりは「下総小金中野牧跡」として国史跡に指定されています。

 

鎌ケ谷市役所の主催による野馬土手の見学会があったので、取材をかねて、参加させていただきました。

見学会のあったこの場所を、捕込(とっこめ)といいます。

 

一年に一度、放牧地で暮らしている何百頭という馬を一か所に駆り集めて、幕府の役人が馬を吟味し、優良な馬は放牧地から離され、乗馬としての調教を受けました。

民間に売却される馬もピックアップされ、それ以外は再び牧に戻されます。

馬たちを追い詰めて、最後に誘導する施設を捕込といいました。

 

「下総小金中野牧跡」は小金牧跡地に残っている唯一の捕込の跡。一〇〇㍍四方の広さが土手によって三区分されており、持ち出す馬、牧に戻す馬を分けて、一時的に置いておくスペースができていました。

 

 

f:id:kmom:20200107103819j:plain

鎌ケ谷市の新富中学校の校庭に沿ったところにも、野馬土手があります。

放牧地にいる馬たちを水飲み場に誘導するための土手なので、それほど高くありません。

 

f:id:kmom:20200107103854j:plain

文化庁などによって作成されたパネルには、「馬は牧の中で放し飼いされ、水のみ場のほかはえさも与えられず、ほとんど野生の馬だったことから、野馬と呼ばれていました」と説明されています。

 

 

「ほとんど野生の馬」とはどういう意味なのか。

なぜ、由緒正しい幕府の牧場に「ほとんど野生の馬」がいたのか。

説明パネルを前にいくつもの疑問が生じた。

「野馬(のま)」とは何なのか。ここにも「馬の日本史」のひとつの謎がある。(文春新書『「馬」が動かした日本史』)

 

f:id:kmom:20200107103917j:plain

馬の産地ではよく見かける馬頭観音

 

 

f:id:kmom:20200107104015j:plain

アパートに沿った緑地。

その正体は、野馬土手でした。

 

f:id:kmom:20200107104045j:plain

f:id:kmom:20200107104105j:plain

土を積み上げて、土手をつくった歴史が見えてきそう。