桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

出雲で見つかった10万年くらい前とされる旧石器時代の遺跡について

『聖地の条件──神社のはじまりと日本列島10万年史』を、8月中旬、双葉社より刊行します。

 

出雲大社諏訪大社熊野本宮大社など、はじまりの時も定かではない古い神社をとりあげ、「神社のはじまり」の謎を追究する内容です。

 

本に書けなかった話題、掲載できなかった写真をふくめて、このブログで紹介したいと思います。

 

列島最古の遺跡とされる出雲市の砂原遺跡

日本史の教科書では、日本列島に人間の生活の痕跡がはっきりと見えるのは4万年くらい前からと書かれているので、『神社のはじまりと日本列島10万年史』というタイトルを掲げるだけで、なにやら、トンデモ本の気配を漂わせているかもしれません。

 

著者本人にトンデモ本を書く意志はないのですが、もしかすると、すこしアブナイ内容が含まれている可能性があります。

 

「序章」からの引用です。

なぜ、神社はその場所に鎮座し、信仰のはじまりには何があるのか。

この難問に接近するため、ふたつの時間軸を設定したいと思います。

 

ひとつは「日本列島の十万年史」です。

 

十万年前という年代は、二〇二一年現在、考古学のデータが示している上限です。教科書では日本史のはじまりを四万年ほど前に置いているので、十万年前というのは論争中の年代です。最も古いとみなされる旧石器時代の遺跡が島根県出雲市にあり、十万年前くらいの年代が提示されているのです。出雲市で二〇〇九年に発見された「砂原遺跡」です。

 

最古級の遺跡と最古級の神社が同じ出雲市内に存在しています。考古学の情報を参考に神社の歴史を考えるとき、ここに最初の謎が生じることになります。

 

砂原遺跡は、二〇〇九年、同志社大学を中心とする調査団によって発掘がなされ、十二万年前くらいの年代とされる中期旧石器時代の遺跡が発見されたと発表されました。

旧石器考古学者の松藤和人氏(当時は同志社大学教授)、自然地理学者の成瀬敏郎氏(兵庫教育大学名誉教授)など学界でも一流のスタッフによる発掘調査の結果とあって、新聞、テレビで広く報道されました。

地元新聞社の山陰中央新報は、二〇〇九年九月三十日付朝刊で、「出雲で国内最古の石器」という横見だしを掲げ、一面トップで掲載しています。読売、朝日など全国紙でも大きなニュースとして報道されました。

十二万年前という年代はその後、再検討されていますが、どちらにせよ国内では最古級の年代が提示されています。

 

砂原遺跡の知名度はいまひとつかもしれませんが、ウィキペディアにも項目が立っています。

砂原遺跡 - Wikipedia

 

 

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海岸段丘と呼ばれる海に沿った高台があり、砂原遺跡は段丘のうえにあります。赤い屋根の建物は「道の駅 キララ多伎」で、道路を渡ったところが砂原遺跡です。

 

宿泊施設の隣接地ですが、説明パネルなどはいっさい出ていません。

遺跡の真偽について、賛否両論があって、いまだ決着していないからです。

 

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遺跡の第一発見者である成瀬敏郎・兵庫教育大学名誉教授に、現場を案内していただきました。

プライバシーのため、後ろ姿で失礼します。

この場所が発掘現場でしたが、埋め戻されて、草地に戻っています。

 

 

 

発掘調査の責任者だった松藤和人氏と成瀬氏の共著で、一般読者向けの解説書も出版されています。

カバーにある赤みがかった石器が、玉髄の石器です。

 

 こうした石器を、人間が作った石器と見るか、自然にできた石片にすぎないとするかで、専門家のあいだで意見が分かれているのです。

 

旧石器時代を専門とする考古学者の佐藤宏之氏(東京大学教授)は、『旧石器時代──日本文化のはじまり』のなかで、砂原遺跡をより古い時代にさかのぼる旧石器時代の遺跡のひとつとして紹介しています。

 

日本列島(以下、列島)には、中期旧石器時代岩手県金取遺跡、群馬県権現山遺跡、島根県砂原遺跡熊本県大野遺跡など、六〇遺跡程度の遺跡の存在が確認、報告されているが、一万か所以上の遺跡が確認されている後期旧石器時代にくらべて、その数はいちじるしく少ない。

 

賛否両論はあるとしても、出雲市には日本列島で最古級とされている旧石器時代の遺跡があるのです。

 

出雲とは、高天原を追放されたスサノオが地上に降り立った場所であり、出雲大社は最も古い神社であるともいわれています。

 

神話的な歴史のなかで、「はじまりの地」と言っていい出雲。

 

その出雲に、科学的な考古学調査によって、列島最古級の年代が示されている遺跡があるのです。

 

これは偶然の一致なのでしょうか。

 

それとも、私たちの知らない謎が存在しているのでしょうか。

 

「神社のはじまり」を探究する旅の最初の目的地は出雲ということになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真家、高草操さんの新刊『人と共に生きる 日本の馬』は、美しい歴史の断片に満ちている。

高草操さんは、馬の撮影を専門分野のひとつとするフリーランスカメラマンです。馬といっても、サラブレッドをはじめとする競走馬ではなく、農業や運搬など人びとの暮らしとともにあった日本の馬たちに心を寄せています。高草さんの新著『人と共に生きる 日本の馬』(里文出版、2020年4月刊)は、馬にかかわる歴史の、美しい断片に満ちています。

 

全国各地の馬の歴史についての詳細な参考文献も記されており、こちらも充実した内容です。

 

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人と共に生きる 日本の馬

人と共に生きる 日本の馬

  • 作者:高草 操
  • 発売日: 2020/03/27
  • メディア: 単行本
 

 

 

戦後からまもない間、日本各地の風景のなかには、働く馬たちがごく自然に存在していた──といわれても、それを実感をもって理解するのが難しいと思います。

 

ただ、限られた数ではあるものの、今でも、暮らしのなかに馬の記憶を濃厚にとどめている地域があります。

 

高草さんは、そうした地域に足を運び、写真と文章によってそれを記録する活動を続けています。この本はそうした活動をふまえた、臨場感に満ちた報告です。

 

日本独自の馬種であるいわゆる在来馬のひとつ対州馬のいる長崎県対馬についてのくだりには、島の資料館で目にした「しんき節」という民謡の歌詞が、今では労働の現場で歌われなくなっている「馬追馬」であることを確かめ、対馬馬の歴史をより豊かな風景として実感したことが書かれています。

 

シャリン、シャリンと鈴の音が響く中、「しんきしんきと山路行けば、かさに木の葉がふりかかる……」と歌い手がゆっくり歌い始める。そのあとに「……はよう歩かにゃ、ぞうずは飲ませんぞ……」というセリフが入り、再びシャリン、シャリンという鈴の音が響く。(中略)「しんき節」は、薪や木炭が燃料だった時代、馬を引く人が険しい山道を行くときに我が身と馬を励ましながら口ずさんだ労働歌だったのだ。

 

これはまったく私個人のことですが、長崎県の離島である対馬は、だいぶ前に亡くなった私の父親が、二十代のとき、地方銀行員として赴任していた島です。

戦後十年たらずのころなので、馬が働く風景は健在だったはずです。

家族的な記憶も手伝って、とても印象深く読ませていただきました。

 

以前、青森県八戸市を訪れたとき、新羅神社という社名にひかれて足を運んだことがあります。社名の由来は朝鮮の新羅国とは直接は関係なく、新羅三郎こと源義光河内源氏二代目・源頼義の子、八幡太郎義家の弟)の子孫である南部氏にかかわる神社であることによるようです。

 

新羅神社は「騎馬打毬(だきゅう)」を伝える神社として知られています。

「騎馬打毬(だきゅう)」とは、馬上の武士がゴールを競い合う日本独自のポロ。国内三カ所でしか継承されていない貴重な古式馬術ですが、そのうちのひとつが新羅神社です。

 

高草さんは『人と共に生きる 日本の馬』のなかで、年に一度の祭りで奉納される騎馬打毬のようすをレポートしています。赤白の二組に分かれた八人の騎手が、三本勝負でゴールを競い合うのだそうです。

 

江戸時代、国内で最大の馬産地とされる南部藩ですが、その伝統を背景とする騎馬打毬が現在まで伝わっている最大の理由は、「免許制度」があったからだと、高原さんは指摘しています。

この免許制度が現在も続いているということも初耳でした。馬の歴史とともにあった南部藩の熱意に、改めて感心してしまいました。

 

目新しい話が満載されているこの本のなかでも、私が最も驚いたのは、「物流を支えた馬たち」という項目でした。

東京都内のトラック業者のうち、少なからぬ業者が、馬による運搬業の流れをくんでいる──という知られざる歴史が述べられているのです。

 

東京都江東区南砂の住宅街には、都内で最大の馬頭観音があるそうですが、この観音を管理しているのは、隣接するビルに入居する東京トラック同盟協同組合。境内の周囲には、運送会社の社名を彫った石柱が立ち並んでいるといいます。

トラック業界の前史が、馬による輸送と直接、つながっていることが、この逸話ひとつで了解できます。

 

物流業界の名門、日本通運と馬とのかかわりについても書かれていますが、驚くべき内容です。私はまったく知りませんでした。

 

戦時中の昭和十六年、小運送業再編が行われ、これを統括するための国営会社・日本通運(株)が創立された。会社は多くの馬力業者と千頭以上の馬を所有する巨大な馬力運送会社となるが、いつでも軍馬を徴発できるようにと言う軍部の目的も兼ねていた。

(赤字は引用者)

 

 日通に三千頭の馬!

 

 これだけでも、驚異の風景です。

 

 日本の物流の歴史のなかで、「馬力運送は昭和三十年代前半まで活躍していた」というのですから、ちょうど今から五十年まえくらいに境界線があることになります。

 

農作業の現場で、馬の姿がほとんど見えなくなるのも、だいたい同じ時期ではないでしょうか。

 

高草さんが書いておられるように、日本社会の労働の現場で、馬たちが経済的な価値を発揮できる場所はなくなってしまっています。

 

地域に生きた馬たちの歴史を保存しようというさまざまな取り組みがあることは、この本のメインテーマのひとつとして取り上げられていますが、それがいかに困難なことであるかも伝わってくる報告となっています。

 

プロの写真家だけあって、一枚一枚の写真に、説得力がありますが、私がいちばん感銘をうけたのは、山に囲まれた沼地のような場所で、水浴びを楽しんでいるトカラ島の馬たちの風景です。

 

馬は風景に気品を与えることのできる動物です。

 

生き物を外見の善し悪しで評価するのは、一種の差別かもしれませんが、

馬は誰が見ても、美しい動物であり、高貴ですらあります。

 

馬のいる風景には独特の品格があるだけでなく、日本社会から失われている「ゆったりとした時間感覚」のようなものが漂っています。

 

馬のいる風景の素晴らしい価値を、高草さんのこのカラー写真は、見開きの大きなサイズをとおして教えてくれます。

 

日本列島における馬の文化の今を知り、未来を考えるうえで、貴重な情報が満載された本です。

 

人と共に生きる 日本の馬

人と共に生きる 日本の馬

  • 作者:高草 操
  • 発売日: 2020/03/27
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

武士は「馬に乗った縄文人」だったのか ──歴史系人気サイト「武将ジャパン」に掲載中。

文春新書『「馬」が動かした日本史』の裏テーマといいますか、本の全体を貫くテーマのひとつは「武士の誕生」をめぐる謎への探究です。

 

そこにポイントを置いた記事が、「武士は<馬に乗った縄文人>だったのか 」

というタイトルで、有名日本史サイト「武将ジャパン」に掲載されました。

 

bushoojapan.com

 

 

「武士とは何か」という永遠のテーマについて、「馬」と「縄文文化圏」という二つのキーワードから迫りまっています。

 

『「馬」が動かした日本史』の原稿を書いているあいだ、ひとつの仮説的なアイデアが生じました。それは「武士とは、縄文系の文化の正統な継承者ではないか」ということです。

 

図式的に示すと、こうなるのではないでしょうか。

 

縄文時代の弓矢+古墳時代の馬→武士の誕生

 

自信をもって書くには、まだまだデータ不足というのが正直なところです。

ただ、いくつかの状況証拠を日本史サイト「武将ジャパン」でも紹介しています。

 

こちらからご覧いただければと思います。

 

武士は「馬に乗った縄文人」だったのか 文春新書『「馬」が動かした日本史』より - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

 

『「馬」が動かした日本史』、北上次郎氏に紹介していただきました。

拙著『「馬」が動かした日本史』(文春新書)を、「本の雑誌」の創刊メンバーで評論家の北上次郎目黒考二)氏に紹介していただきました。

 

www.nikkan-gendai.com「

 

「日本は『草原の国』であったという指摘が新鮮だ」という書き出しで、<なぜ、日本列島には、相当に広い草原エリアがあったのか>という本書の主要テーマのひとつを話題にしていただいています。

それは火山の国であったからだ。

火山のまわりに草原ができやすいのは、巨大な噴火によって火砕流、溶岩がちらばり、その上に土が堆積しても他の場所に比べて土壌の厚さが不足しているので、樹木が根を張り、十分な水分、栄養分を得ることは難しい。

その結果、生まれるのが「黒ボク土」で(厳密には火山灰に由来しない黒ボク土もあるようだが)、農地には適さない草原となる。

こうした日本列島の草原的環境にもっとも適した野生動物のひとつが鹿であり、5世紀ごろ日本に持ち込まれた馬であった、というのである。

 

馬がとくに好むエサは、分類上、イネ科植物と呼ばれるものです。

身近な事例では、エノコログサネコジャラシ)、ススキ、ササといったところ。

 

じつは野生の鹿が好きなのも、同じイネ科植物であり、馬と鹿のエサはかなり重なっています。

鹿は現在の日本列島に、三百万頭ほど生息していると推計されています。

今でさえそうなのですから、江戸時代、奈良時代縄文時代と古い時代にさかのぼるほど鹿の生息数は増えるはず。

 

鹿の繁殖する草原的環境は、馬にとっても望ましい大地だったのです。

 

北上氏がとりあげてくれたもうひとつの論点は、<なぜ、有力な武将、武士団は東日本と九州南部に集中しているのか>というテーマです。

 

関東に武家政権を築いた源頼朝徳川家康平安時代に関東の独立を目指した平将門、東北で黄金文化を開花させた奥州藤原氏、甲斐の武田信玄、すべて黒ボク地帯を軍事的な地盤にしていた、というから興味深い。

ちなみに、島津氏が出た九州南部も、平清盛が出た伊勢国も、黒ボク地帯だ。日本史で活躍した多くの武将が黒ボク地帯から生まれているのだ。

つまり馬は軍事的財産であり、それを手に入れることのできた武将が活躍したということだ。

広大な草原が広がっていて、そこを馬たちが疾駆する。そんな光景が浮かんでくる。とっても刺激的な論考だ。 

 

日刊ゲンダイの書評記事は、こちらのリンクからご覧いただけます。 

「『馬』が動かした日本史」蒲池明弘著|日刊ゲンダイDIGITAL


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