桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

出雲の「神様石器」と日本列島の中期旧石器時代をめぐる論争史

私、蒲池明弘の新刊『聖地の条件──神社のはじまりと日本列島10万年史』が、8月中旬、刊行されます。

本では十分に書ききれなかった話をふくめて、もろもろの話題を紹介したいと思います。 

東北から消滅した日本列島最古の遺跡

日本列島で最古とされる遺跡が、出雲市にあるという話題は前回のブログでとりあげました。

十万年くらい前とされる砂原遺跡です。

 

しかし、これは二〇二一年現在の話であり、二十年ほど前までは、列島最古の遺跡があるのは東北地方であることが常識でした。

一九七〇年代後半以降、宮城県の上高森遺跡をはじめとして、東北を中心に十数万年前をはるかに超える年代をふくむ前期・中期旧石器時代の遺跡の〝発見〟が相次ぎ、その成果は中・高校生向けの教科書や一般の書籍にも掲載されていました。

 

七十万年前とされる遺跡さえ出現していたのですが、そのほぼすべてがねつ造であったことはご承知のとおりです。

 

日本列島最古の遺跡を探究する議論は、いったん、ご破算となり、ふりだしに戻ってしまったのです。

 

出雲の中期旧石器時代の研究

旧石器時代」とは、人類が石を材料とする道具(石器)をつかいはじめてからの歴史です。

二百万年を超える旧石器時代を前期、中期、後期の三つの期間に分けることがありますが、その大部分は前期であり、中期は数十万年前から、後期は四、五万年前からとされます。もっとも、国や地域によって三区分の年代は微妙に違っています。

日本列島にある旧石器時代の遺跡は一万四千か所を上回りますが、その九九・九%は新しい年代である後期旧石器時代の遺跡とされています。

 

その後、発覚した東北地方のねつ造遺跡は、中期旧石器時代を突破して、前期旧石器時代に突入していたのです。

いま考えると、どうしてそれほど首尾良く関係者をだますことができたのだろうと逆に感心してしまうほどです。

 

実は、島根県の出雲地方には、十万年前くらいの時期の中期旧石器時代の年代である可能性が議論されている遺跡の存在が、一九七〇年代から知られていました。

松江市玉湯町の鳥ヶ崎遺跡などです。

 

ただ、東北で途方もなく古い年代の遺跡の発見が相次いだことで、研究する価値が低下し、半ば忘れられていたのです。

 

マチュア考古学者、恩田清氏の研究

出雲地方の中期旧石器研究の先駆者として、恩田清氏という人がいました。

松江市の職員で、本来の専門分野は農業指導ですから、考古学の分野ではアマチュア研究者です。

出雲地方には、縄文時代よりもさらに古い三万年くらい前の、いわゆる後期旧石器時代の遺跡があることは以前から知られていました。

恩田氏は、それをさらにさかのぼる古いタイプの石器があることに気づき、広域調査に乗り出したのです。

本格的な調査を開始したのは、松江市役所を定年退職したあとであるとも聞きました。

 

恩田氏が最古級の石器を求めて歩いたのは、旧八雲村、旧玉湯町東出雲町など、現在は松江市の一部になっている松江の中心から離れたエリアです。

 

旧八雲村は、出雲大社と並ぶ社格をもっていたとされる熊野大社のあるところです。

 

玉湯町は、玉造温泉のあるところで、玉作りの神を祀る玉作湯神社が鎮座しています。

 

 

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松江市熊野大社

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恩田氏は玉髄やメノウでできた石器らしき石片を膨大に収集したのですが、恩田氏の収集物が、従来から知られている旧石器時代の石器より、さらに古い形式の石器であるかどうかについては考古学界で賛否両論がありました。

その当時は、否定論のほうが優勢だったようです。

 

石器の収集場所が、神話の舞台である出雲地方であることもマイナス要因でした。

恩田氏の収集品には、

「<出雲の神様石器>と揶揄する者まであらわれた。」

と、旧石器時代を専門とする考古学者の松藤和人氏は、『旧石器が語る「砂原遺跡」』という著書のなかで証言しています。

「神様」が意味しているのは、現実の歴史とは無縁の、空想の産物にすぎないという冷笑的なニュアンスです。

 

そのような評価もあり、七〇年代半ばから九〇年代初頭の時期、出雲の中期旧石器時代をめぐる研究は学界の表舞台から姿を消し、忘れ去られようとしていたそうです。

 

再評価への流れ

島根県埋蔵文化財行政の担当者らによって、恩田氏の収集品が再調査され、詳細な報告書が刊行されたのは、旧石器ねつ造事件の発覚から四年後の二〇〇四年のことでした。

 

出雲大社に隣接して、島根県立古代出雲歴史博物館があります。

荒神谷遺跡などから発掘された銅剣や銅鐸など国宝、重要文化財の数々が展示されていますが、 普通の県立博物館でみるような、旧石器時代縄文時代から近現代に至る時系列的な地域史の展示は、メインホールとは別の部屋にあります。

最初の解説パネルに、「神様石器」のレッテルによって微妙な評価に甘んじていた恩田清氏の名前が見えます。

日本列島で人類が活動を始めたのは、おもに後期旧石器時代です。ところが島根には、中期旧石器時代の石器が存在する可能性があるのです。

一九七〇年代、恩田清氏らにより採集されたメノウや玉髄がそれにあたります。その評価をめぐって大きな論争となりましたが、いまだ決着をみていません。

しかし近年、それら石器の一部に、中期旧石器時代の技術がみられるという意見が出されました。島根でも四万年以上も前から、人類が活動していたのかもしれません。

 

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このパネルの文面は遠慮がちのトーンですが、島根県に日本列島で最古クラスの遺跡がある可能性を述べています。

 

このように、出雲に日本列島では最古級の石器が存在することは、ほぼ確実といってよいと思います。

それが出雲大社のはじまりと、いかなる関係をもちうるのか。

私の関心はそこにあります。

 

 

 

 

 

出雲で見つかった10万年くらい前とされる旧石器時代の遺跡について

『聖地の条件──神社のはじまりと日本列島10万年史』を、8月中旬、双葉社より刊行します。

 

出雲大社諏訪大社熊野本宮大社など、はじまりの時も定かではない古い神社をとりあげ、「神社のはじまり」の謎を追究する内容です。

 

本に書けなかった話題、掲載できなかった写真をふくめて、このブログで紹介したいと思います。

 

列島最古の遺跡とされる出雲市の砂原遺跡

日本史の教科書では、日本列島に人間の生活の痕跡がはっきりと見えるのは4万年くらい前からと書かれているので、『神社のはじまりと日本列島10万年史』というタイトルを掲げるだけで、なにやら、トンデモ本の気配を漂わせているかもしれません。

 

著者本人にトンデモ本を書く意志はないのですが、もしかすると、すこしアブナイ内容が含まれている可能性があります。

 

「序章」からの引用です。

なぜ、神社はその場所に鎮座し、信仰のはじまりには何があるのか。

この難問に接近するため、ふたつの時間軸を設定したいと思います。

 

ひとつは「日本列島の十万年史」です。

 

十万年前という年代は、二〇二一年現在、考古学のデータが示している上限です。教科書では日本史のはじまりを四万年ほど前に置いているので、十万年前というのは論争中の年代です。最も古いとみなされる旧石器時代の遺跡が島根県出雲市にあり、十万年前くらいの年代が提示されているのです。出雲市で二〇〇九年に発見された「砂原遺跡」です。

 

最古級の遺跡と最古級の神社が同じ出雲市内に存在しています。考古学の情報を参考に神社の歴史を考えるとき、ここに最初の謎が生じることになります。

 

砂原遺跡は、二〇〇九年、同志社大学を中心とする調査団によって発掘がなされ、十二万年前くらいの年代とされる中期旧石器時代の遺跡が発見されたと発表されました。

旧石器考古学者の松藤和人氏(当時は同志社大学教授)、自然地理学者の成瀬敏郎氏(兵庫教育大学名誉教授)など学界でも一流のスタッフによる発掘調査の結果とあって、新聞、テレビで広く報道されました。

地元新聞社の山陰中央新報は、二〇〇九年九月三十日付朝刊で、「出雲で国内最古の石器」という横見だしを掲げ、一面トップで掲載しています。読売、朝日など全国紙でも大きなニュースとして報道されました。

十二万年前という年代はその後、再検討されていますが、どちらにせよ国内では最古級の年代が提示されています。

 

砂原遺跡の知名度はいまひとつかもしれませんが、ウィキペディアにも項目が立っています。

砂原遺跡 - Wikipedia

 

 

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海岸段丘と呼ばれる海に沿った高台があり、砂原遺跡は段丘のうえにあります。赤い屋根の建物は「道の駅 キララ多伎」で、道路を渡ったところが砂原遺跡です。

 

宿泊施設の隣接地ですが、説明パネルなどはいっさい出ていません。

遺跡の真偽について、賛否両論があって、いまだ決着していないからです。

 

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遺跡の第一発見者である成瀬敏郎・兵庫教育大学名誉教授に、現場を案内していただきました。

プライバシーのため、後ろ姿で失礼します。

この場所が発掘現場でしたが、埋め戻されて、草地に戻っています。

 

 

 

発掘調査の責任者だった松藤和人氏と成瀬氏の共著で、一般読者向けの解説書も出版されています。

カバーにある赤みがかった石器が、玉髄の石器です。

 

 こうした石器を、人間が作った石器と見るか、自然にできた石片にすぎないとするかで、専門家のあいだで意見が分かれているのです。

 

旧石器時代を専門とする考古学者の佐藤宏之氏(東京大学教授)は、『旧石器時代──日本文化のはじまり』のなかで、砂原遺跡をより古い時代にさかのぼる旧石器時代の遺跡のひとつとして紹介しています。

 

日本列島(以下、列島)には、中期旧石器時代岩手県金取遺跡、群馬県権現山遺跡、島根県砂原遺跡熊本県大野遺跡など、六〇遺跡程度の遺跡の存在が確認、報告されているが、一万か所以上の遺跡が確認されている後期旧石器時代にくらべて、その数はいちじるしく少ない。

 

賛否両論はあるとしても、出雲市には日本列島で最古級とされている旧石器時代の遺跡があるのです。

 

出雲とは、高天原を追放されたスサノオが地上に降り立った場所であり、出雲大社は最も古い神社であるともいわれています。

 

神話的な歴史のなかで、「はじまりの地」と言っていい出雲。

 

その出雲に、科学的な考古学調査によって、列島最古級の年代が示されている遺跡があるのです。

 

これは偶然の一致なのでしょうか。

 

それとも、私たちの知らない謎が存在しているのでしょうか。

 

「神社のはじまり」を探究する旅の最初の目的地は出雲ということになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

写真家、高草操さんの新刊『人と共に生きる 日本の馬』は、美しい歴史の断片に満ちている。

高草操さんは、馬の撮影を専門分野のひとつとするフリーランスカメラマンです。馬といっても、サラブレッドをはじめとする競走馬ではなく、農業や運搬など人びとの暮らしとともにあった日本の馬たちに心を寄せています。高草さんの新著『人と共に生きる 日本の馬』(里文出版、2020年4月刊)は、馬にかかわる歴史の、美しい断片に満ちています。

 

全国各地の馬の歴史についての詳細な参考文献も記されており、こちらも充実した内容です。

 

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人と共に生きる 日本の馬

人と共に生きる 日本の馬

  • 作者:高草 操
  • 発売日: 2020/03/27
  • メディア: 単行本
 

 

 

戦後からまもない間、日本各地の風景のなかには、働く馬たちがごく自然に存在していた──といわれても、それを実感をもって理解するのが難しいと思います。

 

ただ、限られた数ではあるものの、今でも、暮らしのなかに馬の記憶を濃厚にとどめている地域があります。

 

高草さんは、そうした地域に足を運び、写真と文章によってそれを記録する活動を続けています。この本はそうした活動をふまえた、臨場感に満ちた報告です。

 

日本独自の馬種であるいわゆる在来馬のひとつ対州馬のいる長崎県対馬についてのくだりには、島の資料館で目にした「しんき節」という民謡の歌詞が、今では労働の現場で歌われなくなっている「馬追馬」であることを確かめ、対馬馬の歴史をより豊かな風景として実感したことが書かれています。

 

シャリン、シャリンと鈴の音が響く中、「しんきしんきと山路行けば、かさに木の葉がふりかかる……」と歌い手がゆっくり歌い始める。そのあとに「……はよう歩かにゃ、ぞうずは飲ませんぞ……」というセリフが入り、再びシャリン、シャリンという鈴の音が響く。(中略)「しんき節」は、薪や木炭が燃料だった時代、馬を引く人が険しい山道を行くときに我が身と馬を励ましながら口ずさんだ労働歌だったのだ。

 

これはまったく私個人のことですが、長崎県の離島である対馬は、だいぶ前に亡くなった私の父親が、二十代のとき、地方銀行員として赴任していた島です。

戦後十年たらずのころなので、馬が働く風景は健在だったはずです。

家族的な記憶も手伝って、とても印象深く読ませていただきました。

 

以前、青森県八戸市を訪れたとき、新羅神社という社名にひかれて足を運んだことがあります。社名の由来は朝鮮の新羅国とは直接は関係なく、新羅三郎こと源義光河内源氏二代目・源頼義の子、八幡太郎義家の弟)の子孫である南部氏にかかわる神社であることによるようです。

 

新羅神社は「騎馬打毬(だきゅう)」を伝える神社として知られています。

「騎馬打毬(だきゅう)」とは、馬上の武士がゴールを競い合う日本独自のポロ。国内三カ所でしか継承されていない貴重な古式馬術ですが、そのうちのひとつが新羅神社です。

 

高草さんは『人と共に生きる 日本の馬』のなかで、年に一度の祭りで奉納される騎馬打毬のようすをレポートしています。赤白の二組に分かれた八人の騎手が、三本勝負でゴールを競い合うのだそうです。

 

江戸時代、国内で最大の馬産地とされる南部藩ですが、その伝統を背景とする騎馬打毬が現在まで伝わっている最大の理由は、「免許制度」があったからだと、高原さんは指摘しています。

この免許制度が現在も続いているということも初耳でした。馬の歴史とともにあった南部藩の熱意に、改めて感心してしまいました。

 

目新しい話が満載されているこの本のなかでも、私が最も驚いたのは、「物流を支えた馬たち」という項目でした。

東京都内のトラック業者のうち、少なからぬ業者が、馬による運搬業の流れをくんでいる──という知られざる歴史が述べられているのです。

 

東京都江東区南砂の住宅街には、都内で最大の馬頭観音があるそうですが、この観音を管理しているのは、隣接するビルに入居する東京トラック同盟協同組合。境内の周囲には、運送会社の社名を彫った石柱が立ち並んでいるといいます。

トラック業界の前史が、馬による輸送と直接、つながっていることが、この逸話ひとつで了解できます。

 

物流業界の名門、日本通運と馬とのかかわりについても書かれていますが、驚くべき内容です。私はまったく知りませんでした。

 

戦時中の昭和十六年、小運送業再編が行われ、これを統括するための国営会社・日本通運(株)が創立された。会社は多くの馬力業者と千頭以上の馬を所有する巨大な馬力運送会社となるが、いつでも軍馬を徴発できるようにと言う軍部の目的も兼ねていた。

(赤字は引用者)

 

 日通に三千頭の馬!

 

 これだけでも、驚異の風景です。

 

 日本の物流の歴史のなかで、「馬力運送は昭和三十年代前半まで活躍していた」というのですから、ちょうど今から五十年まえくらいに境界線があることになります。

 

農作業の現場で、馬の姿がほとんど見えなくなるのも、だいたい同じ時期ではないでしょうか。

 

高草さんが書いておられるように、日本社会の労働の現場で、馬たちが経済的な価値を発揮できる場所はなくなってしまっています。

 

地域に生きた馬たちの歴史を保存しようというさまざまな取り組みがあることは、この本のメインテーマのひとつとして取り上げられていますが、それがいかに困難なことであるかも伝わってくる報告となっています。

 

プロの写真家だけあって、一枚一枚の写真に、説得力がありますが、私がいちばん感銘をうけたのは、山に囲まれた沼地のような場所で、水浴びを楽しんでいるトカラ島の馬たちの風景です。

 

馬は風景に気品を与えることのできる動物です。

 

生き物を外見の善し悪しで評価するのは、一種の差別かもしれませんが、

馬は誰が見ても、美しい動物であり、高貴ですらあります。

 

馬のいる風景には独特の品格があるだけでなく、日本社会から失われている「ゆったりとした時間感覚」のようなものが漂っています。

 

馬のいる風景の素晴らしい価値を、高草さんのこのカラー写真は、見開きの大きなサイズをとおして教えてくれます。

 

日本列島における馬の文化の今を知り、未来を考えるうえで、貴重な情報が満載された本です。

 

人と共に生きる 日本の馬

人と共に生きる 日本の馬

  • 作者:高草 操
  • 発売日: 2020/03/27
  • メディア: 単行本
 

 

 

 

 

武士は「馬に乗った縄文人」だったのか ──歴史系人気サイト「武将ジャパン」に掲載中。

文春新書『「馬」が動かした日本史』の裏テーマといいますか、本の全体を貫くテーマのひとつは「武士の誕生」をめぐる謎への探究です。

 

そこにポイントを置いた記事が、「武士は<馬に乗った縄文人>だったのか 」

というタイトルで、有名日本史サイト「武将ジャパン」に掲載されました。

 

bushoojapan.com

 

 

「武士とは何か」という永遠のテーマについて、「馬」と「縄文文化圏」という二つのキーワードから迫りまっています。

 

『「馬」が動かした日本史』の原稿を書いているあいだ、ひとつの仮説的なアイデアが生じました。それは「武士とは、縄文系の文化の正統な継承者ではないか」ということです。

 

図式的に示すと、こうなるのではないでしょうか。

 

縄文時代の弓矢+古墳時代の馬→武士の誕生

 

自信をもって書くには、まだまだデータ不足というのが正直なところです。

ただ、いくつかの状況証拠を日本史サイト「武将ジャパン」でも紹介しています。

 

こちらからご覧いただければと思います。

 

武士は「馬に乗った縄文人」だったのか 文春新書『「馬」が動かした日本史』より - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)