殺生関白──日本史上、最高で最悪のダジャレ
秀次の居城だった八幡山城の城跡にある瑞龍寺にて。自分撮影。
命がけの政権批判だったのか
摂政・関白といえば、もちろん、公家の最高位で天皇の補佐役です。
殺生関白といえば、豊臣秀次というくらい、こちらも有名です。
摂政/殺生という同じ発音で違う意味の掛詞であるわけですが、「殺」の字により、素行不良の暴君という秀次のイメージが定着しました。
関白秀次が、許しがたい悪逆非道の人であったのかということについては、今日の研究者は否定的ですから、NHK大河ドラマ『真田丸』はそれに乗っかって、「いい人秀次」を打ち出しています。
殺生関白の誕生をめぐっては、有名な戯れ歌が知られていますが、この歌の勘所は、摂政/殺生というダジャレにあります。
きょうは、秀次がこのダジャレの風評被害者だった可能性について、かんがえてみます。
殺生というと文字面は恐ろしげですが、もとは仏教用語で、動物、鳥、魚などの生物を殺すことです。
殺生関白の本来の意味もそこにあります。
文禄二年、正親町上皇が崩御され、関白という天皇の補佐役として、模範的に喪にふくすべき立場であるにも、かかわらず、秀次は鹿狩りを楽しんだ──。誰かが匿名で、秀次のふるまいを糾弾する戯れ歌をつくり、都のどこかに掲示した、という話が伝わっています。
院の御所にたむけのための狩なれば これをせつせう関白といふ
「院」とは上皇のことで、「たむけ(手向け)」とは、死者の霊や神仏に物を供えること。
関白秀次は、喪があけぬうちに鹿狩りをしているが、きっと、殺した鹿を上皇の霊前に供える気なのだろう。
なんとも、血なまぐさい、野蛮なふるまいをする関白であることよ。
戯れ歌のスタイルですが、矢のように鋭い権力者への批判だと読めます。
よく知られた殺生関白の由来をしめす物語です。
政権批判を目的にこうした文は、落書とか落首といわれます。
秀吉が関白だったとき、聚楽第の壁に、政権批判の落書きをされ、警備担当者が責任を問われて処刑されるという有名な事件もあるので、同じようなことが、秀次に対してなされたと想定することは可能です。
新聞や雑誌、テレビなどジャーナリズムに期待されていることのひとつは、時の権力者を監視し、問題があれば批判することです。
今なら、誰でも、ブログやソーシャルメディアで政権を批判できます。
新聞もブログも2チャンネルもない戦国時代。言論の自由など、誰も保証していません。
そのような時代、人通りの多いところに掲示される落書、落首には、政権批判のジャーナリズムに似た役割がありました。
後醍醐天皇の建武の新政を手厳しく批判した「二条河原落書」については、日本史の教科書にも出ていたように記憶しています。
落書をしている現場を見つかれば、まちがいなく処刑ですから、命がけの行為です。
「殺生関白」が歴史学の用語でもあるのは、落首という方法によって、豊臣政権の権力者が批判にさらされていた(かもしれない)ということが想定できるからです。
瑞龍寺のある滋賀県近江八幡市は美しい水辺の風景で知られる。そのまま時代劇の風景。自分撮影。
それとも、<捏造記事>だったのか
前回の当ブログでは、『太閤さま軍記のうち』という文献から、秀次の妻妾リストを引用しました。
著者は、史料的価値が高いと評価されている『信長公記』の作者太田牛一です。
「殺生関白」というフレーズについても、現代の我々が知っているのは、『太閤さま軍記のうち』に書かれているからです。その部分を引用してみます。
さるほどに、院の御所崩御と申すに、鹿狩りを御沙汰候。法儀も政道も正しからざるあひだ、天下の政務を知ること、ほどあるべからずと、京わらんべ笑つて、落書にいはく、
院の御所にたむけのための狩なれば これをせつせう関白といふ
とかやうに書きつけ、立てをきさぶらひし。
殺生関白秀次は、喪中の狩りにつづき、殺生禁断の比叡山で狩りを挙行します。これが第二のエピソード。
北野天神では、夜、盲人をみつけて、面白半分になぶり斬りにして殺してしまいます。これが第三のエピソードです。
秀次の悪逆非道を具体的に示す三つのエピソードは、歴史学の研究者によって、史実とは確認されていないそうです。
確認できる史料が存在しないからといって、三つのエピソードは、太田牛一の創作によるフィクションであると断定はできないのですが、その可能性が生じることになります。
さらにいえば、秀逸なこの落首は、ほんとうに匿名の誰かが書き、都のどこかに掲示したものなのかという疑問が生じます。
秀次を批判したこの落首、あるいは落首にともなう騒動を記録した文献もまた、見つかっていないからです。
状況証拠的にいえば、この落首についても、太田牛一の<作り>である可能性を疑う必要が出てくるわけです。
もし、その疑惑があたっていれば、『太閤さま軍記のうち』に書かれた秀次の物語は、ほとんど<やらせ記事>に近い捏造性をもつことになります。
命がけで権力者を批判する社会派ジャーナリズムとは、えらい違いです。
秀次は世界史レベルの非道の暴君になってしまった
秀次を関白から追い落とし、切腹に追い込んだことを正当化するため、豊臣政権は、秀次の悪行をでっちあげ、ネガティブキャンペーンを展開したともいわれています。
でも、それだけでは、「殺生関白」は誕生しません。
殺生関白という異名の発生は、戯れ歌にあります。
もっといえば、「摂政関白/殺生関白」というダジャレです。
日本で最も高貴であるべき摂政関白が、「殺生」という兇悪なイメージを帯びるという衝撃度がみごとです。
現代のコピーライターをしても、ここまでインパクトのあるフレーズをうみだせるでしょうか。
このダジャレが、とびぬけて秀逸だったので、殺生関白秀次の物語は拡大し、拡散し、今日まで伝わっている可能性があります。
日本史上で、最高にして最悪のダジャレというほかありません。
というのも、秀次に対する人格批判にとどまらず、日本という国のイメージダウンをもたらしたからです。
一七世紀のオランダ人の宣教師/歴史学者によって書かれた『モンタヌス日本誌』では、
「彼の最大の娯楽は人の屠殺場において人を殺すことなり。彼はこの屠殺場を宮殿付近のある地域において開きたる中庭の中央に作り、壁を以て囲み、白砂を敷き、一脚の卓子を置けり。(中略)もって残忍なる屠殺者の王と称すべし」
とまで悪評しています。
同書は日本についての数少ない情報源のひとつです。
日本には、人殺しを楽しむための専用施設をつくった統治者がいた──ということを、近世ヨーロッパの知識人は真に受けたのでしょうか。
屠殺者の王! なんとも残虐非道の統治者のいる国ではいか。
彼らの日本観は、この記述に引っ張られ、野蛮なイメージを帯びたのでしょうか。
西欧世界では、ネロ帝、カリグラ帝など、名高いローマの暴君と並び称されることになった関白秀次。
政治的な実権のとぼしい関白であったことが哀れです。
ここで書くことさえ、はばかられるような関白秀次の悪行の数々は、事実ではなく、「殺生関白」という言葉が、自己増殖をかさねながら拡大し、海外にまでそのイメージが拡散した可能性があります。
摂政関白/殺生関白という掛詞が、日本語のマジカルパワーを発動したとしかおもえません。
摂政/殺生という言葉遊びは、古くから、あったのでしょうか。
それとも、問題の戯れ歌の作者(もしかすると太田牛一?)のオリジナルなのでしょうか。
謎です。
キリスト教の伝道者で有名な建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、近江八幡市を拠点として活動した。 秀次の領国であった近江八幡市には、ヴォーリズ建築が多くのこされている。
秀次はキリスト教に理解のある人だったと伝わる。(自分撮影)