桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

散らかってますが、トフラーさんの予言みたいな僕の仕事場

 

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電脳住宅の未来

イギリスのEU離脱が決まった国民投票の直後、読売新聞朝刊の一面コラムで、アルビン・トフラー氏の『第三の波』が引用されていました。

何十年ぶりかで読み返してみると、おどろくほど新鮮です。現在の自分に照らして、考えさせられることが多々ありましたので、きょうは、この本について書いてみます。

 

この本は直接民主主義に向けた潮流を是とする内容ですが、国民投票は感情過多に陥りやすい欠点をもつので、「実行に移される前に冷却期間をおくとか、二回目の投票を行う」というアイデアが示されています。読売のコラムはそれを卓見と評価しています。

 

『第三の波』の日本語訳が出たのは一九八〇年。僕は日本列島のはずれ九州の、そのまた西端・長崎県長崎市の高校に通っていました。

 父親の本棚からこの本を抜き出して、一気読みしたことを憶えています。

正統の文学作品はいまひとつ苦手でしたが、早川書房の海外SFの文庫本は何冊か読んでいたので、『第三の波』は近未来SFみたいでおもしろかったです。

 

父親長崎県地方銀行に勤務していました。定年までの一〇年くらいは、本店の調査部にいて、田舎エコノミストみたいな仕事でした。

日経新聞週刊ダイヤモンドを購読し、本棚には、ドラッカーガルブレイス堺屋太一などのビジネス書、経済本が並び、そのなかに『第三の波』があったのです。

 

『第三の波』は当時、たいへんな評判をよび、NHKの特集番組をみた記憶もあります。もしかしたら、テレビ番組をみて、そのあと、この本を読んだのかも知れません。

 

第一の波というのは、一万年くらいまえ、農業がはじまったあとの地球規模の大変革。

第二の波は、十八世紀、イギリスではじまった産業革命によって出現した大量生産・大量消費型の産業(工業)社会。

そして、いま、コンピューターや通信技術の急速な発展によって、第三の大変革の波がおしよせてきているというのです。

 

田舎の高校生にとって、いちばん未来的なイメージだったのは、<エレクトロニック・コテッジ>です。

二一世紀の住宅は、コンピューターと通信システムによって電脳的に武装されているので、自宅にいながら、高度な業務を遂行できる。家庭は生活だけではなく、仕事の場ともなり、その役割は一変するというのです。

 

記憶のなかの<エレクトロニック・コテッジ>は、大草原のなかに建てられたボールのようなかたちの家で、シルバーメタリックに輝いています。

NHKのテレビ番組のシーンなのでしょうか。不明です。

 

トフラー氏が『第三の波』を執筆していたのは一九七〇年代の後半ですが、未来の技術として「ワード・プロセッサー」が紹介されています。トフラー氏が挑戦して、なかなか便利なものだと感心しています。

「電子郵便」の可能性についても考察されています。

 

それから三十五年。

 

僕はマンションの片隅にデスクトップパソコンをおき、細々とした出版の仕事をしています。

テキストや画像を、デザイナーさんや印刷会社とやりとりしながら本をつくっています。

こうしてキーボードにむかって、電子書籍に挑み、会社のホームページを運営し、ブログの記事を書いています。

 

パソコンの能力およびインターネットとメールで、出版にともなう仕事や調査のたいはんは処理できるので、トフラー氏の予言は、おそろしいほど的中しています。

しかし、部屋には資料や読みかけの本が散乱し、在庫の本が入った段ボールが積み上げられています。

<エレクトロニック・コテッジ>のイメージとはほど遠いものです。

夢の未来は、あまりにも散文的な日常として実現しています。

 

 

『第三の波』はマスメディアの崩壊を予言していた!

 

当時の高校生はまったくボケーっとしていて、将来の職業のことなど真剣に考えていませんでした。

でも、それは文系クラスだったからかもしれません。理系の人はきびしいリアリズムの選択のなかにあったはずです。

 

という次第ですので、大学を卒業したあと、新聞社に入ることなど、まったく想定しておらず、『第三の波』を読みながら、著者アルビン・トフラー氏の重大なメッセージを記憶にとどめていませんでした。

 

トフラー氏は、新聞に代表されるマスメディアはすでに崩壊の端緒にあると明言しているのです。

 

マスメディアは、第二の波の時代をとおして、終始一貫、成長を続け、強大な力を誇るようになった。

ところが今日、驚くべき変化が起ころうとしている。

第三の波がごうごうと押し寄せ、マスメディアは急速にその影響力を弱めて、ただちに多くの前線から撤退を迫られている。(229ページ)

マスメディアにかわって、小さいけれど、個性的なメディアが台頭しているというのです。

ミニ雑誌、ミニラジオ局という実例は、いまひとつ迫力不足なのですが、トフラー氏が見ている現実は七〇年代後半のアメリカです。

インターネットはもとより、パソコンも電子メールもない生活のなかで、未来を遠望しているのです。

  

トフラー氏によると、大量生産/大量消費にもとづく「第二の波」の社会では、権力やマネーだけではなく、情報も、国の中枢部に集中する傾向をもつというのです。

つまり、情報の大量生産/大量消費です。

 

新聞、ラジオから映画やテレビまで、マスメディアにもまた、工場の基本的な原理が体現されているのに気がつく。

こうしたメディアはすべて、ちょうど工場が何百という家庭で利用されるための、まったく同じ製品を作り出しているように、何百という人びとの頭脳に、同じメッセージを送り込むのである。  (56ページ)

 

マス(大衆)とは、人類の歴史において必然のものではない。

大量生産/大量消費社会の必要に応じて誕生した、近現代だけにみられる特異な現象である。

つまり、大量生産/大量消費社会が終わるとともに、マス(大衆)は歴史の舞台から消え、マスメディアは歴史的使命を失う──と予告しているのです。

 

アメリカやイギリスなどの新聞業界は壊滅的な状況におちいっています。

日本の新聞社は世界で最も経営的な基盤が安定しているようですが、一九九七年をピークとして、発行部数は減少をつづけています。

 

僕に聞こえた神の声の正体?

 

二一世紀の訪れとほぼ時を同じくして、僕は新聞社をやめて、紆余曲折を経て、今このような個人レベルの出版社をやっています。

会社をやめるときの精神状態は、自分でもいまひとつよくわからないところがありました。

 

僕はもともと臆病で、決断力のとぼしい人間です。

嫁さんの命令には絶対服従で、忠実に家事を遂行しています。

でも、会社をやめるときばかりは、不退転の決意でした。

嫁さんに「衝動的」と糾弾されても、「無計画」とメンバされても、決意は変わりませんでした。

 

新聞社は早くやめたほうがいい。

自分にふさわしい道はいずれ見つかるよ。

 

 

神さまの声か、仏さまのお告げか、宇宙意志のささやきなのか……、そんな声が聞こえるような気がしてしかたなかったのです。

いま、何十年ぶりに『第三の波』を読みながら、驚愕しています。

 

マスメディアから離脱し、個人レベルでアマチュアめいたメディア事業をはじめる自分の未来が予言されているような気がしたのです。

 

いや、予言という言葉は適切ではありません。

 

『第三の波』のなかのマスメディアについての記述などすっかり忘れていました。しかし、それは僕の潜在意識のメモリーとなり、四十代のはじめのころ、あれこれ思い悩んでいたとき、意識の表層に浮上してきたという可能性があります。

 

神でも仏でも宇宙意志でもなく、トフラーさんの声を聞き、それに従い、新聞社をやめて、右往左往の末に、個人出版などはじめたのでしょうか。

 

もし、この自己分析が真実であれば、読書というものの恐ろしさを示す格好の事例です。

でも、本当かどうかなんて証明不可能ですから、結局は、個人的な妄想ということになるわけですが。

 

トフラーさん、

『第三の波』に心弾ませていた日本の田舎の高校生は、だらしなく散らかった<エレクトロニック・コテッジ>で今、ちっぽけな個人メディアを軌道にのせようと奮闘しています。

 

すばらしい未来をありがとう!

ご冥福をお祈りします。