『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』について
電子書籍とかアマゾンキンドルの話題が出ていそうで実は……
前回、すこしだけ触れた『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』日本語版の発売は二〇一〇年十二月です。
二〇一〇年は電子書籍への関心が最高潮に達していたときです。
この年、「電子書籍」にかんする日経新聞の記事は、前年の四倍増の四百五十三件、「eBookジャーナル」という専門雑誌まで創刊されています。
アメリカでは、アマゾンの電子書籍キンドルがすさまじい速度で、売上を伸ばしていました。遠からず、紙の本を上回るといわれており、翌年の二〇一一年、それが現実となったことをアマゾン社が発表しました。
『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』というタイトルを見て、
アマゾンの電子書籍が世界を席巻し、やがて紙の本は滅びるという現実を、博学なウンベルト・エーコ先生もついに認めたのだ。この対談本は、滅びゆく紙の本にささげるための挽歌なのだ
と信じたのは僕だけではなかったはずです。
帯のコピーも、そんな内容でした。
黒を基調とした装幀は、古書の風貌をもち、四七〇ページの厚みもあって、さながら本の墓標のようです。
この対談本は、二人の先生(そのひとりがエーコ先生)と司会者の計三人で進行しています。
もうすぐ紙の書籍が絶滅すると言う人がいるようですが──というのは、司会者の質問で、ウンベルト・エーコ氏は、ごくあっさり、そんなことはありませんと否定しているのです。
本というものは、スプーンやハサミのようにすでに完成したものである。科学技術によって進歩することもなければ、電子書籍やインターネットなどと交替できるものでもないと断言しているのです。
紙の本の未来、書店の未来についても、ものすごく楽観的です。
文明の歴史のなかで、今日ほど書店がたくさんあって、綺麗で、明るかったことはありません。(中略)
立派な書店がもたらす「節度ある」幻惑と、インターネットがもたらす際限のない幻惑とは違いますよ。(422ページ)
そもそも、対談のメインテーマは、古書、しかもマニアックな稀覯本をめぐる際限のない蘊蓄の披瀝なのです。
電子書籍やインターネットの話題も出ていますが、全体からみるとわずかで、古書の世界の豊かさの引き立て役です。
この点を確認しながら読んだわけではないので不正確ですが、「キンドル」はもとより、「アマゾン」という社名も出ていなかったとおもいます。
訳者あとがきに、キンドルのことがほんのすこし書かれているだけです。
そして訳者によると、この本の原題を直訳すると、
『本から離れようったってそうはいかない』
だそうです。
もうすぐ絶滅するどころか、紙の書籍は永遠です! というのがこの本のメッセージです。
落ち着いてかんがえてみると、『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』という日本語タイトルに、電子書籍という言葉は入っていません。
悪意はないのかもしれませんが、すこし、ひっかけクイズみたいです。
「紙の書籍」から、その対の言葉として、「電子書籍」が連想されるというのは、二〇一〇年の以前にはありえなかったとおもいます。
そうかんがえると、この本の変化球めいたタイトルも、二〇一〇年の珍事として記憶すべきことかもしれません。
忘却こそが文化をかたちづくること
僕はウンベルト・エーコ先生の熱心な読者ではありません。
評判につられて、『薔薇の名前』を購入しましたが、正直にいうと、敷居が高かったです。キリスト教の神さまそのものが謎です。その異端の歴史的背景となると、理解不能です。
『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』で展開されている議論も、高尚すぎるのですが、理解可能なところだけ、自分勝手にピックアップしてみました。
過去を知ることはあらゆる文明の基盤です。樫の木の下で、夜、部族の物語を語る老人こそが、部族と過去をつなぎ、古(いにしえ)の知恵を伝えるんです。(418ページ)
日本に置き換えて解釈すれば、縄文時代の長老、あるいは古事記の語り部、稗田阿礼のようなイメージでしょうか。このような老人は、ひとつの社会/国家の<フィルター>だと、エーコ先生は言うのです。
僕たちは稗田阿礼の記憶をとおして、神話的過去を知ります。もっとも、稗田阿礼が老人かどうかは知りません。男か女かも不明だそうです。
近現代においては、知識人、学術的な専門家が<フィルター>だとエーコ先生はいいます。
そして以下のような話がつづきます。
人間の記憶であれ、集団の記憶であれ、記憶の働きには二つあって、ひとつはデータを保存すること、もうひとつは不要と判断したデータを忘却すること。
過去の文化のなかから、価値あるものを現代に継承し、未来へと継承していく──その選別こそが、文化を成立させる。
ところが、現代のデジタル技術は忘却を拒み、すべてを保存しようという傾向がつよい。
現代の技術文明が、すべてを記憶してしまうとしたら、
「これはまさしく文化というものの対極」
だとエーコ先生は心配しているわけです。
インターネットはすべてを与えてくれますが、それによって我々は、すでにご指摘なさったとおり、もはや文化という仲介によらず、自分自身の頭でフィルタリングを行うことを余儀なくされ、結果的にいまや、世の中に六〇億冊の百科事典があるのと同じようなことになりかねないのです。これはあらゆる相互理解の妨げになるでしょう。(118ページ)
エーコ先生の<フィルター>論を読みながらかんがえたのは、新聞社や出版社にも、<フィルター>の役割があるということでした。文化の継承のような大層なものではなく、もっと俗っぽい日常レベルの話ではありますが。
新聞記者の日常は、県庁とか県警本部とか国会議事堂とか証券取引所とか、いろんなところにある記者クラブという「詰め所」にいて、次から次に記事を書いていくことです。記者クラブにいると、毎日、膨大なプレスリリースが投げ込まれてくるので、どれを記事にするか、どれをボツにするか決めていきます。
現場の記者が最初のフィルターです。記者が原稿を送っても、デスクがボツにすることも少なくありません。そこが第二のフィルターです。ピラミッド型にその後もいくつかのフィルターがあって、それをクリアーした原稿だけが印刷されて、記事としてのこります。
僕は一九八五年、読売新聞に入社し、浦和支局(現さいたま支局)に配属されました。全国発行部数一〇〇〇万部をめざす上昇期で、埼玉県だけでも、一〇〇万部(!)前後の部数でした。
記者クラブの現場にいれば、一年生記者でも、原稿にするかボツにするかの<フィルター>権限をもつことになります。新人記者の僕は、四〇代、五〇代のおじさんたちに、「どうか小さな記事でもいいので載せてもらえませんか」と懇願され、どうしようかなあ、と偉そうに首をひねっていました。
ささやかなものですが、新人記者のとき、接待めいたこともありました。
新聞社をやめた僕は、本の企画書をつくり、いくつもの出版社に売り込んだ経緯はすでにお話したとおりです。出版社の<フィルター>としての役割は、市場に出すにふさわしい企画は通過させ、その価値がないとされたものはストップをかけ、除去することです。
僕はフィルターを通過できず、涙をながすことになりました。
新人記者のくせに、偉そうにふるまったことへの天罰だったのでしょうか。因果応報、悪いことはできないものです。
言うまでもないことですが、インターネットの出現により、こうした新聞社、出版社のフィルターとしての役割は以前のようには機能しなくなっています。
僕は企画をことごとく却下されて、意気消沈していたわけですが、アマゾン様から、
「ノープロブレム! そんなら、電子書籍で出せばいいじゃん」
という天啓をさずけられ、やる気を取り戻しました。
読売新聞さいたま県版の記事にはならなくても、インターネットの空間はほぼ無限ですから、新人記者のご機嫌をとる必要はないわけです。
本の世界とニュースの世界では多少、事情が異なるとしても、こうして玉石混交、いろんなレベルのいろんなタイプの情報/言説が、インターネット空間を漂っているわけです。
エーコ先生は、こうした状況についてこう書いています。
インターネット上を少しうろうろすれば、我々が万人の常識と信じて疑わない概念を槍玉に挙げるような説を唱える団体がごろごろ見つかります。
たとえば、地球の内部は空洞で、我々はその内側の球面に住んでいるのだとか、世界は本当に六日間で創られたのだとか。
したがって、異なる複数の知識と出会う可能性があるわけです。(中略)グローバリゼーションがもたらしたのは共有経験の細分化という現象でした。(119ページ)
インターネットの言説空間の問題点を指摘しているのですが、博覧強記の偉大な学者であり小説家でもあるエーコ先生は、トンデモ世界観の爆発するサイトをネットサーフィンして、楽しんでいる気配もします。
僕のような凡人には、世界的な学者であり文人だと評されたこの大先生の真意がどのあたりにあったのか、いまひとつ不明なのです。(つづく)