招き猫の新聞記事を書いた結果、僕は豊臣秀吉に興味をもつようになった
わが家の招き猫軍団
読売新聞の見開き2ページで、招き猫の特集記事が掲載されるという歴史的(?)快挙
桃山堂という看板をかかげて、豊臣秀吉についての本を出しているので、どうして、そんなに、秀吉に興味があるのかと聞かれることがあるのですが、うまく説明できず、いつもしどろもどろになってしまいます。
時系列的にいえば、招き猫の記事を書いた結果、豊臣秀吉に興味をもつようになったのです。
ちょうどよい機会だとおもいますので、今日は、これについて書いてみます。
上記の写真は、わが家の招き猫たちです。
正確な生息数は不明ですが、家じゅうのあちらこちらにいます。家族に迷惑顔をされるので、最近は増えていませんが、以前は、出張や旅行のたびに、買い集めていたのでけっこうな数になってしまいました。
コレクションというわけではないので、買った場所も日時も記録していません。悲しいかな記憶が薄れ、いまでは出身地不明の猫たちが増えてしまいました。
新聞社に勤務していたころ、そのうち、招き猫の記事を書いてやろうと狙っていました。
三〇代の半ばに読売新聞東京本社の経済特集面の担当になり、経済、ビジネスに関係することなら、けっこう手広くフォローできるページだったので、商売の神さまというくくりで、招き猫の特集を提案してみたのです。
そのときの編集長は大らかというか、度量の広い人だったので、新聞記事としては珍妙なテーマですが、企画がとおって、招き猫の取材をする機会をえまします。
一九九六年九月三十日付け朝刊に、「招き猫 なぜかブーム 日本でアジアで」という見出しで、見開き二ページの特集記事が載っています。
全国紙、地方紙ふくめて、招き猫の特集記事が見開き二ページで掲載された唯一の事例だとおもいます。(きちんと調査したわけではありませんが)
僕はほんとうに無能な新聞記者だったのですが、招き猫についての知識だけは、会社のなかでナンバー1でした。ナンバー2、ナンバー3はいません。新聞の選挙報道でいえば、泡沫候補による「独自の戦い」というところです。
土佐稲荷神社で秀吉は稲荷信仰者だという話を聞いたこと
このときの取材は楽しかったし、記事もわりと好評でしたので、第二弾として、「現代の日本企業の稲荷信仰」という企画を提案しようとおもい、下調べをはじめたのです。
お稲荷さまは商売の神さまということになっているので、インパクトを出すためには、個別具体的な企業と稲荷信仰のむすびつきを記事にする必要があります。
三菱グループの正式メンバーといっても過言ではない、とても珍しい企業系神社です。
この神社の場所は、江戸時代、土佐藩の蔵屋敷でした。敷地内に鎮守として祀られていた社が、土佐稲荷の前身です。
明治維新後、土佐藩士だった岩崎弥太郎(三菱財閥創業者、NHK大河ドラマ「龍馬伝」では香川照之)が蔵屋敷の敷地を買い取り、ここに最初のオフィスをもうけて商売をはじめます。
こうした歴史により、ここは三菱発祥の地とされ、グループ企業によって聖地として守られているのです。
神社でありながら、地域に氏子をもたず、三菱グループの企業の地鎮祭やお祓いなどを請け負うなどして神社を維持しています。
企業名の入った石の小柱が神社を囲んでおり、三菱銀行、三菱商事、三菱重工業、旭硝子、日本郵船など三菱系の企業名を確認できます。
でも、三菱マークをでかでかと掲げているわけではありません。
一見したところはふつうの神社で、三菱と関係のない一般の人が、ふつうにお参りしています。
大阪市の土佐稲荷神社。見た目は、こんな感じのふつうの神社です。
「稲荷と企業」の下調べをしているころ、別の用件で、関西に行くことがあり、アポなしですが、土佐稲荷神社を訪ねてみたことがあります。
運よく宮司さんがいらして、話をうかがうことができました。
土佐藩は、秀吉さんにひきあげられた大名のひとりである山内一豊公( 筆者注 NHK大河ドラマ「功名が辻」では上川隆也 )が初代藩主です。
現代の企業でも同じでしょうが、上司の趣味に部下はあわせるものです。
ご存じのように、秀吉さんは熱心な稲荷の信仰者でしたから、家臣の山内一豊公がそれにならったようです。
山内家の稲荷信仰はことのほか熱心で、山内家の殿さまがいた高知市のお城のほか、京都にある土佐藩の藩邸にも稲荷社が祀られており、それはいまも先斗町あたりに残っています。
京都のほうも、土佐稲荷神社という名称です。
この時点では、秀吉に対する関心はあまりなかったのですが、宮司さんの「ご存じのように、秀吉さんは熱心な稲荷の信仰者で」という言葉が妙に気になりました。
招き猫の歴史と秀吉の足跡は伏見で交差していた
現在、市販されている招き猫は、陶器製、プラスチック製、木製、紙製など、実にさまざまな素材でつくられています。
しかし、江戸時代の製法をふまえた正統の招き猫は、「型」に粘土をおしこんで、人形のかたちをこしらえ、土器、埴輪とたいして変わらない低温で焼成し、素焼きに絵の具で色つけしたものです。
これは、「伏見人形」と呼ばれる土人形と同じ製法です。
陶器や磁器と比べると、「やきもの」としての技術レベルは単純で、原始的といってもいいものですが、その分、なんともいえない素朴な味わいがあります。
東京・浅草のちかくの今戸に、伝統的な招き猫をつくっている白井工房があります。
上記写真では、前列左から二匹目のカップルの招き猫です。良縁を招くということで、若い女性にたいへんな人気だそうです。
この形状は現代的ですが、伝統的な手法でつくられており、 正調の土人形です。
招き猫の歴史にはわからないことも多いようですが、誕生したのは幕末ちかくの江戸時代、発祥の地は江戸と考えられています。
浅草ちかくの今戸は、その有力な候補地のひとつで、今戸神社には「招き猫発祥の地」の看板がかかっています。
ただ、製法のうえでは伏見人形と同じですから、この分野の専門家は、招き猫を伏見人形から派生したひとつのジャンルとして分類しています。
「招き猫のルーツは伏見人形」といわれる由縁です。
伏見人形は、伏見稲荷大社への参詣客のおみやげとして発展し、江戸時代における稲荷信仰の人気拡大によって、伏見人形をまねた土人形が全国に広がったといわれています。
伏見はいうまでもなく、秀吉の晩年の居城である伏見城が造営されたところ。
秀吉の死に場所にもなりました。
招き猫から稲荷信仰にむかった僕の関心は、伏見、秀吉へと広がったのですが、その後、会社内での配置替えもあって、稲荷信仰の特集記事が掲載されることはありませんでした。
このとき以来、<稲荷と秀吉>をめぐる謎は大きな関心事になっています。
風が吹けば桶屋が儲かるではありませんが、招き猫の記事を書いた結果、豊臣秀吉に興味をもつようになり、桃山堂株式会社という妙な出版社をつくってしまったのです。