桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

橋場(江戸)、御器所(名古屋)、伏見(京都)をむすぶ土人形と豊臣秀吉

 

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 江戸時代からつづく伏見人形の老舗、丹嘉

 

土人形発祥地としての伏見

 

京都の伏見で誕生した伏見人形は、江戸時代以降、全国的な人気商品となった「土人形」の元祖的な存在です。

型取りした素焼きの人形に絵の具で色づけしただけの素朴な土人形ですが、このタイプの人形を総称して、「伏見人形」と呼ぶこともあります。

 

伏見もまた、古い歴史をもつ「やきもの」の産地です。

そして、秀吉が晩年の居城をこの地に築いたことによって、秀吉との縁を生じました。

 

 

 橋場(江戸)、御器所(名古屋)、伏見(京都)をむすぶ土人形と秀吉──というタイトルを掲げたのは、秀吉にゆかりの地は、なぜか、土人形の産地であるという問題を考えるためです。

 

東京・浅草エリアの橋場は秀吉に直接のかかわりがあるわけではありませんが、当ブログでは、橋場/羽柴のつながりで話題にしています。

現在も招き猫の産地であり、「招き猫発祥地」をアピールしています。

 

御器所は秀吉の母親の出生地。名古屋土人形の産地でした。

 

 この三つの土地はいずれも、やきものの産地ですが、薄手で硬く焼きしめられた陶器、磁器を焼いていたわけではありません。

瓦、火鉢、素焼きの皿や器、そして土人形などが作られていました。

 

製品構成のうでも、三つの産地には共通点があります。

 

 

日本書紀にも記録された伏見におけるやきものの歴史

 

日本書紀』の雄略天皇は即位から一七年目、土師氏のアケという人に対して、食器をつくる工人をつれてくるように命じ、伏見のほか、大坂、三重、兵庫、鳥取などから土師氏の工人をよびよせます。

 

土師連等に詔して、朝夕の御膳(みけつもの)盛るべき清器(きよきうつわ)をつくる者を進らしめたまふ。

是に土師連が祖吾笥(あけ)、よりて摂津国の来狭狭村・山背国の内村・俯見(ふしみ)村、伊勢国の藤形村と丹波・但馬・因幡の私の民部を進る。名づけて贄土師部と日ふ。

 

 

雄略天皇古墳時代にあたる五世紀ごろの大王とされているので、その時代の伏見には土器づくりの土師氏がいたと考えられています。

 

鎌倉時代に作成された有名な絵巻『東北院職人歌合』では伏見の土器売りのことが歌われ、江戸時代の諸国物産記『日本山海名物図会』にも土器づくりの職人が記録されています。

 

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『日本山海名物図会』で紹介されている伏見のやきもの師。土人形と山積みされた皿が描かれている。

 

「京深草陶器  人皇二十二代雄略天皇十七年に土師連吾笥(あけ)と云人、土器の細工人を山城国伏見村に置たる由国史に見えたり。其時の細工人今の世まで伝えて伏見街道の土物さいく、西行行脚のすがた、或は狐、牛のたぐい其外いろいろの人形、うつわ物等をつくりて家業とす」

 

 

こうした土器づくりの伝統のなかから、伏見人形が発生したといわれています。

 

伏見人形の発祥した時期は確定されていないようですが、一六世紀後半から一七世紀前半のあいだと見なしうることが、伏見稲荷大社に長く勤めておられた塩見青嵐氏の著作『伏見人形』に書かれています。

 

すなわち、織田信長豊臣秀吉徳川家康の活躍した安土桃山時代から江戸時代初頭のどこかで、伏見人形は誕生しているというのもなにかいわくありげです。

 

最盛期は江戸時代の文化・文政期(一九世紀はじめごろ)で、伏見稲荷の参道を中心に、五〇軒ほどの業者があったといいます。

 

 

伏見人形のルーツは埴輪なのか

 

僕は塩見氏の『伏見人形』を、一〇年くらいまえ、伏見のお土産物屋のような店でみつけて、購入しました。たぶん、いまでも伏見のその手の店では売られているとおもいます。

 

 

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このテーマの一般書としては最も読みやすく、充実した内容ですが、伏見人形の歴史を「埴輪」から説き起こしています。

 

まず、埴輪と土師部(はじべ)のことから述べてみよう。今の伏見から深草にかけては、古くから土師部の人々がたくさん住んでいたという。

日本書紀』の垂仁天皇の条にはその埴輪の起源が載せられている。

 

伏見人形のルーツは、古代の土師氏が古墳祭祀のためにつくっていた「埴輪」なのでしょうか。

 

もしそうであるならば、伏見人形の分派とされる招き猫のルーツは「埴輪」ということになります。

 

埴輪 → 伏見人形 → 招き猫

 

という日本列島における土人形の歴史のなかに招き猫は位置づけられることになります。

 

招き猫をふくめて土人形は単なる玩具ではなく、縁起物であり、信仰的な背景をもっています。

塩見氏の『伏見人形』を読むと、土人形のそうした精神文化がよくわかります。

 

 

 

日本書紀』によると、垂仁天皇の后が亡くなったとき、野見宿禰(のみのすくね)という人は

 

「陵墓に生きたまま、側近の者たちを埋めるのは良くないことだ」

 

と考え、出雲から一〇〇人の「土」の技術者をよびよせると、奈良の地でよい粘土を見つけ、それを原料として、人、馬などの埴輪をつくったといいます。

 

天皇にこの埴輪を献上して、生きた人間の代わりに陵墓に立てるよう申し上げたところ、天皇はおおいに喜ばれた。この功績によって、野見宿禰は「土師職(はじのつかさ)」に任じられ、野見の姓に代わる土師の姓を賜り、土師氏の始祖となった──と記されています。

 

野見宿禰を始祖とする土師氏からは、菅原氏、大江氏、秋篠氏などの名族を輩出しています。

 

前回のエントリーでとりあげた東北の羽柴氏・羽柴勘十郎は、大江氏系の武将です。

 

 

橋場(江戸)、御器所(名古屋)、伏見(京都)という三つのやきもの産地がよく似ているのは、大都市近郊の産地という理由もありますが、素材となる土が同質・同レベルであるからだとおもいます。

 

陶器や磁器を焼ける高級な粘土ではありませんが、土器や埴輪をつくるのには適した土であるということです。

近現代において、三つの産地がそろって、土人形づくりによって伝統を継承していることをみても、産地としての同質性は明らかです。

 

土人形については、一応、こうした理屈が成り立つのですが、この三つの土人形産地と秀吉がむすびついている理由は謎です。

 

東京の羽柴は、コジツケかもしれませんが、御器所、伏見は明らかに秀吉ゆかりの土地です。 

 

まったくの偶然なのでしょうか。それともわれわれの知らない理由があるのでしょうか。

 

伏見は、稲荷信仰の総本宮とよばれる伏見稲荷大社門前町でもあります。

 

 

以前、もうしあげましたように、僕が秀吉に関心をもったきっかけは「秀吉は稲荷の信仰者」という話でしたから、その終焉の地が伏見であることに、ただならぬものを感じてしまいます。

 

秀吉と伏見の関係も、実に謎めいています。  

(つづく)