桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

大坂城の石垣技術は、七世紀の古代山城でほぼ完成していた

 

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岡山県総社市にある古代山城「鬼ノ城」。規模壮大な石垣が残存し、かつては桃太郎伝説の鬼の城とも信じられていた。

 

 

七世紀、九州北部と瀬戸内地方に、巨大な山岳城塞が次々と出現しています。安土城大坂城によってはじまる近世城郭の石垣技術の原型は、そのときすでに完成していた──という指摘もあるほど、みごとな石垣をみることができます。

 

 古代山城の驚嘆すべき石垣技術

 

上記写真は、古代山城の代表的事例のひとつ鬼ノ城(きのじょう)(岡山県総社市)の石垣遺構です。

 

標高四〇〇メートルに近い山の山頂付近を、石塁や土塁による城壁が三キロメートルほど取り巻いています。ちょうど、山の八合目から九合目くらいにハチマキをしたような構造です。

 

 

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(鬼城山ビジターセンター 掲示資料) 

 

 

城門、水門など見所が多く、写真を撮影しながらゆっくり見学していると、二時間くらいかかったと記憶しています。

 

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上記写真は、修復というより、再現というべき石垣かもしれません。

とはいえ、基本的には七世紀当時の石垣技術をふまえたものです。

 

七世紀の山城は、こうした光景だったと考えて問題ないようです。

  

国家存亡の危機感によって古代山城は造成された

 

西日本の各地で、こうした規模壮大な古代山城が造営されるきっかけとなったのは、六六三年の白村江の戦いです。

 

天智天皇の政権は百済からの支援要請を受け入れ、大艦隊をつくって朝鮮半島へと出兵し、唐・新羅の連合軍との決戦に臨みました。

 

結果は、ご存じのとおりの大惨敗。

 

勢いに乗じた唐・新羅軍が日本列島に襲来するのではないかという危機感が広がり、天智天皇から在地の豪族まで総がかりで、城郭造営がはじまったようです。

 

鬼ノ城については、誰が造営したのか記録がなく、はっきりしません。

 

岡山エリアに勢力をもつ豪族が、天智天皇の意向をうけて築いた可能性が高いようですが、地元の豪族が自主的に築いた可能性もあります。

この地域の軍勢も白村江の戦いには参戦しているのでしょうから、政府に言われるまでもなく、危機意識は強かったとおもわれるからです。

 

日本書紀』は、天智天皇の在位四年八月のこととして、ふたりの百済人貴族を九州北部、現在の福岡県に派遣して、大野城と基肄城という「二城を築かしむ」と記録しています。

 

大野城、基肄城はいずれも、ヤマト政権の九州における出先機関である太宰府をまもるための古代山城です。

大野城など太宰府周辺の軍事施設は、巨大な予算と人員を投入した国家プロジェクトでした。

 

有名な城郭史家の西ヶ谷恭弘氏は、太宰府大野城の石垣について、

「これに匹敵する規模の石垣が現れるのは、ほぼ九百年の後、織田信長安土城まで待たねばならない」(『復元図譜日本の城』)

とその技術力を高く評価しています。

 

 

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僕が太宰府大野城に行った日は、運悪く、ものすごい霧の日で、すべてがもうろうとした写真しか撮影できませんでした。

 

アップにすると、こんな石垣です。自然の石を微妙な案配で並べた、いわゆる野面積みです。

 

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七世紀の石垣が、こうして残存しているというだけで感動してしまいます。

 

ひと昔まえに書かれた城郭史についての本を読むと、織田信長安土城豊臣秀吉大坂城が、石垣の城として画期的であることが強調されていました。

 

しかし、古代山城の石垣技術への評価が高まるにつれて、石垣の城としての安土城大坂城の位置づけはすこしずつ変わっているようにみえます。

 

城郭史家の西ヶ谷氏が述べておられるように、軍事施設における石垣の大規模な造営は、七世紀の古代山城で実現されているからです。

 

現代の観光名所としてのお城では、ビジュアル的な理由もあって、どうしても天守閣や城門、櫓、御殿など建築物が主役になってしまいますが、軍事施設としての城郭において、建物は飾りのようなものです。

 

大坂城を始祖とする平野部にある近世城郭の本質的な機能は、「石垣」と「水堀」、このふたつに尽きます。

 

城郭史家の三浦正幸・広島大学教授が『城のつくり方 図典』で、述べておられるように、

「石垣や土居や堀を築くことを普請といい、築城工事の中心を占めた。(中略)城普請とは、城の土木工事のことで、城づくりは土木工事が主体で、建築工事は付属なのであった」

のです。

 

古代山城の技術的な達成を視野に入れると、安土城大坂城およびそれ以降の城郭史は、古代技術の再発見とその洗練であったことになります。 

 

豊臣秀吉の謎を探究する当ブログで、古代山城をとりあげるのは、秀吉が古代山城に強い関心をもっていた状況証拠がいくつかあるからです。

 

秀吉は薩摩の島津氏討伐のため、九州に遠征したとき、太宰府大野城の跡地で祝宴をひらき、宿泊した可能性もあるのです。

(つづく)

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古代山城は九州北部および瀬戸内地方に集中している。大陸からの侵攻を警戒しているのは明らか。(鬼城山ビジターセンター 掲示資料) 

 

■ アクセス

 

岡山県の「鬼ノ城」は、 ビジターセンターが見学コースの起点です。JR吉備線服部駅が最寄りの駅ですが、バスは出ていません。

徒歩約五キロなので、山登りを兼ねるなら歩ける距離ですが、僕はタクシーを利用しました。

吉備線服部駅タクシーが常時、待機しているような大きな駅ではありません。事前予約がいいと勧められ、そうしました。

 

 

福岡県の「大野城」も山の上で、西鉄太宰府駅からのバスは出ていません。

観光ガイドには徒歩六〇分とあったので、タクシーを利用しました。案外、近かったので、帰路は歩いてみました。古代山城、中世の山城の遺構を見学しながらの下り道なので楽勝です。

「鬼ノ城」と比べると、古代山城の見学コースは、わかりずらいところがある印象でした。駅前の観光案内所で、山城歩きのマップをもらって、見学されることをお勧めします。

 

古代の軍事遺構を見学するのであれば、同じ太宰府エリアの「水城」にも行く必要があります。県境をまたぎますが、佐賀県基山町の「基肄城」も、太宰府防衛のための古代山城ですので、一日がかりとなります。

家族旅行には不向きなので要注意。もの好きの人向けのコースかもしれません。