桃山堂ブログ

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豊臣秀吉 もうひとつの「一夜城伝説」と渡来系大名・秋月氏

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九州版「一夜城」の舞台、益富城(大隈城)はこの山にあった。小雨のなか、撮影。(福岡県嘉麻市

 

豊臣秀吉の一夜城伝説──。それは織田信長の家臣時代の秀吉が木曽川流域の墨俣に驚くべき短期間に城を築いたという伝承ですが、福岡県嘉麻市ではもうひとつの一夜城伝説が語りつがれています。渡来系大蔵氏流の武将・秋月種実との戦いをめぐるエピソードです。

 

和紙でつくったハリボテの城

 

天正十五年三月の末、豊臣秀吉ひきいる十万ともいわれる大軍勢が九州に上陸すると、在地勢力のほとんどは戦わずして軍門に降るのですが、島津氏と通じ、徹底抗戦の姿勢を示したのは秋月種実でした。

 

月氏の先祖は、九州における朝廷の出先機関・太宰府に代々つとめていた渡来系の大蔵氏です。

その名の由来は、朝廷の財務管理を所管する「大蔵」にありますから、古代においては、文字記録にたくみで、数値管理にもたけたインテリ集団であったといえます。

 

先に話題とした高橋紹運(鎮種)、成富兵庫(賢種、茂種、茂安)と同族であることは、「種」の通字からうかがえます。

 

秋月種実のとき、戦国期の混乱に乗じて一気に勢力範囲を広げ、一時は九州北部に三〇万石以上の支配地を有していたとされます。

 

福岡県嘉麻市益富城(大隈城)は秋月氏に属する城だったのですが、秀吉軍が近づくと、利用されないように破却し、秋月方の兵は十キロほど離れた古所城に撤退しました。

ところが夜が明けると、破却したはずの城が修復されており、秋月方の人々は肝をつぶしたというのです。

一夜で城が修復できたのにはトリックがあって、城壁は和紙をはってごまかし、黒壁は民家の戸板をあつめて墨を塗ったからだ、という話が地元に伝わっています。

 

豊臣秀吉の側近、黒田官兵衛(如水)の子長政にはじまる福岡藩の記録「黒田家譜」にはこう書かれています。

 

夜明けて古所の山上より大隈の城を見れば、一夜の中に見馴れぬ白壁出来、腰板を打たれば、見る者驚きて神燮のおもひをなせり。

これは敵の目を驚かし、勇気をくじかんために、播磨杉原の紙をもって、夜中に城の壁をはらせ、民屋の戸板を集めて墨を塗り、腰板にさせ給けるなり。 

 

秀吉からのご褒美の陣羽織

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秀吉からの拝領という伝承をもつ陣羽織。写真は「嘉麻市観光ポータル」より転載。

 

 

ハリボテの和紙の城とはいえ、一夜のうちに完成したのは、大隈の住民が協力したからで、秀吉はその功を大とし、自ら着ていた陣羽織を褒美に与え、税や労役を免除する特権を認めたと諸本に記録されています。

 

黒田家譜」の著者は福岡藩の学者貝原益軒で、この藩史の執筆のため、備前、近江と結構なフィールドワークをしていることが知られています。

だから、この九州版一夜城も適当につくった話ではなく、現地調査の成果であるとおもわれるのですが、それが史実かどうかは別の問題です。

 

現在の研究者で一〇〇パーセントの史実と考える人はいないようですが、さりとて、根も葉もない話であるともおもえないのは、褒美の陣羽織が現存しているからです。

「華紋刺繍陣羽織」として国指定重要文化財に指定されています。

 

専門家の鑑定の結果、素材はポルトガル商人が日本にもたらしたインド産キルトで、象牙を白地の金襴でくるんだボタンがついているなど、南蛮色の濃いものです。

背中には太閤桐とよばれる桐紋、胸元には秀吉のシンボルマークともいえる瓢箪がいずれも緋羅紗地でとりつけてあります。

 

なぜ、秋月種実は許されたのか 

 

一夜城伝説のある嘉麻市大隈は遠賀川の上流域にあり、弥生時代古墳時代から人のにぎわいの見えるエリアです。

嘉麻市役所の嘉穂分庁舎(旧嘉穂町役場)の裏手にある高さ二〇〇メートルほどの山の頂に、一夜城伝説の舞台である益富城の城跡があります。

 

一夜城作戦の成果かどうかは知りませんが、秋月種実はすっかり戦意を喪失し、頭を丸めて秀吉の陣に参上しています。

 

降伏のしるしとして献上したのが、世に名高い「楢柴肩衝」という茶器です。

初花肩衝、新田肩衝とともに天下三肩衝と称される名品で、足利家から博多の商人島井宗室に流れ、そこから秋月種実の手に渡っていました。

 

あわせて、十六歳の娘を人質として提出したとも伝えられています。 

 

激しい敵対行動にもかかわらず、秋月氏はゆるされます。

日向国にわずか三万石ではありますが所領を与えられ、お家の消滅を防ぐことができました。

関ケ原もなんとか乗り越え、 九州の渡来系氏族の名門、大蔵氏の系譜を守りました。

 

前回、前々回のエントリーで申し上げたとおり、豊臣秀吉の母方を渡来系の佐波多村主とする系図があり、もし、それが史実をふくんでいれば、秋月種実、成富兵庫など九州の大蔵姓の武将と秀吉は広い意味では、同族であるといえます。

渡来系氏族の分類でいえば、東漢(やまとのあや)氏の系統です。

 

ただし、秀吉のほうが先祖の身分はずっと低いです。

 

月氏に対する処遇は不自然なほど甘いとはいえませんが、すべての所領を没収され、お家を取りつぶされても仕方ない状況だったのですから、なにがしかの好意を想定する議論があります。

 

秀吉の好色話にひっかけて、人質として出した娘がたいそう美人だったから、秋月種実は赦免されたということも言われていたようですが、それは笑い話のたぐいでしょう。

 

秀吉の茶の湯好きはたいそうなものだったので、「楢柴肩衝」の威光にちがいないという人もいます。

 

秀吉は渡来系の武将(?)としての同族意識から手心を加えたのではないか──という疑惑を筆者はいだいています。

(つづく)

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一夜城伝説にゆかりの「陣羽織」の写真は、「嘉麻市観光ポータル」様の許可をえて転載しています。詳しい記事は、上記リンクよりどうぞ。