恋塚春雄『真説邪馬台国』──佐世保市にあった自然水銀の鉱山
邪馬台国ブックリスト①
前回、申し上げたように、本の背景をなす<ネット博物館>構想は実現不可能という結論に至りましたので、現実的にできることとして、『邪馬台国は「朱の王国」だった』のなかで言及・参照している書籍、論文について紹介してみようとおもいます。
第一回は、恋塚春雄氏の『真説邪馬台国』(1976年刊 五稜出版社)。長崎県佐世保市にあった自然水銀の鉱山に着目して、「邪馬台国佐世保説」を唱えた本として、知る人ぞ知る(知っている人はほとんどいない?)問題の書です。
鉱山、地質学系の本をみると、佐世保市には日本列島では珍しい自然水銀の鉱山があったと紹介されています。
「邪馬台国佐世保説」のよって立つ根拠はそこにあるのですが、私の筆力と知識不足によって、文春新書『邪馬台国は「朱の王国」だった』ではうまく説明できませんでした。
その反省を踏まえつつ、『真説邪馬台国』について改めて書いてみます。
自然水銀とは何か
「自然水銀」という言葉があるのですから、当然ながら、「人工水銀」があります。実際、そういう用語はありませんが、古い時代から朱(辰砂)の鉱物を原料としてつくられた水銀は、化学工業的に製造される「人工水銀」です。
朱(辰砂、硫化水銀)は「水銀Hg+硫黄S」の化合物として自然界に存在していることが多いので、熱を加えて硫黄を除去すると、水銀を得ることができます。
これは日本列島における化学的工業技術の最も早い事例です。
一方、自然水銀は、流体状の金属として自然界に存在しています。
朱(辰砂、硫化水銀)の鉱床では自然水銀がともなうことが珍しくないそうですが、実際、日本列島でどれほど自然水銀が採取できたのかについては、資料が不足しており、判明していないようです。
というか、水銀の経済価値がほぼ消滅した現在、自然水銀の歴史を研究するモチベーションをもつ学術研究者はおそらく存在しないとおもいます。(もし、いたらこめんなさい。そして連絡まっています。)
調べる人が誰もいないので、日本列島における自然水銀の歴史は、いまもって<謎>としてとどまっています。
地質学関係の資料をみると、自然水銀の鉱山として、北海道のイトムカ鉱山と長崎県佐世保市の相浦にあった水銀鉱山があげられています。これは近世、近代に採掘の記録があり、自然水銀の存在が明確な鉱床です。
イトムカ鉱山は戦前の昭和期に発見され、朱(辰砂)とともに自然水銀が採取されていました。
問題の佐世保市の自然水銀鉱山は、江戸時代、平戸の松浦藩によって稼行され、閉山と再開発が繰りかえされています。明治時代のはじめ、外国人技術者を招いて再開発に着手、少量の水銀が採取された記録はありますが、商業的な稼行には至っていません。
前置きめいた話が長くなってしまいましたが、『真説邪馬台国』の著者、恋塚春雄氏の先祖は、江戸時代、松浦藩の水銀鉱山事業にかかわっています。その記録が古文書として恋塚家に伝来しており、「恋塚文書」と命名されています。
「恋塚文書」は公開されていませんが、佐世保市の市史に概要が書かれています。
長崎県立の長崎歴史文化博物館には、この鉱山の動向をしるす江戸時代、明治時代の古文書があり、こちらは申請すれば閲覧することができます。(「平戸水銀出所絵図」 嘉永2年3月、「平戸藩管内の水銀鉱山調査のため外人差遣に付通牒」明治時代)
恋塚氏は、佐世保市相浦こそ、日本列島で最大の水銀鉱山のあった場所であると主張しています。
明確な証明がなされているわけではありませんが、かつて日本列島にいくつもあったはずの自然水銀の採取地のうち、江戸時代、明治時代まで命脈を保っていたのはここだけなのですから、その可能性は否定しがたいものがあります。けして十分なものではありませんが、朱や水銀についての調査をふまえ、恋塚氏の見解は正しいのではという印象を私はもっています。
佐世保に日本一の水銀鉱山があった。それが史実だとしても、それほど重要なことなの?
と思われる方がほとんどだと思います。
あらゆる鉱物のうち、水銀ほど経済価値が激しく下落した事例を私は知りません。現在の水銀は有毒性が強調され、もはやマイナスの価値しか与えられない鉱物になっていますが、古代においては、金銀に匹敵する価値を有していました。
とくに古代中国において強い需要がありました。
不老不死をかかがげる神秘医学の薬をつくるうえで、水銀と朱はその原料として最も高い価値をもっていたからです。
古代の輸出品
水銀は、硫黄、金とともに、奈良時代、平安時代、鎌倉時代あたりまで、日本列島から中国や朝鮮半島向けの主要な輸出品のひとつでした。
これは史料にもとづく学術的な歴史学においても認知されていることです。恋塚氏の『真説邪馬台国』は、そのはじまりをもっと古い時代に求めており、邪馬台国は水銀や朱を輸出することで繁栄した国であったというのが恋塚氏の主張です。
水銀は朱(辰砂)を原料として製造することはできますが、中国文化圏でより大きな経済価値をもっていたのは自然水銀でした。その鉱山のある佐世保市こそ、邪馬台国のある場所としてふさわしいという説です。
『真説邪馬台国』のなかで恋塚氏は、所在地問題をはじめとする従来の邪馬台国論争のなかで重要なことが抜け落ちているとして以下のように書いています。
邪馬台国の特産品が、古代中国で用いられた経済的交易品として果たしていた役割という面からの研究によって日本と中国との関係を解明しようとする考え方などは今日まで何等取扱われていないのは以上に指摘した重要なものが軽視されていることからであった。(P82)
すなわち、自然水銀を日本列島ナンバー1の輸出品とみることで、邪馬台国の問題をとらえなおそうという提言だったのですが、残念ながら、「邪馬台国佐世保説」にばかり関心が向き、貿易論についての提言のほうは反応が乏しかったようです。
山師の系譜
恋塚氏については著書のなかの経歴以上のことは存じ上げないのですが、1929年、佐世保市相浦に生まれ、大学卒業後は、中国問題の専門家として、軍部にかかわりながら活動していたようです。
戦後は、家業の鉱山業を継ぐと書かれていますが、この時期の長崎県での鉱山といえば、炭鉱のことだとおもわれます。
江戸時代には、恋塚家は江戸時代、水銀鉱山にかかわっていたのですから、どうも鉱山との縁の深い一族であるようです。
水銀採掘にかかわる技術をもっている一族であるので、松浦藩の水銀事業に関与した気配はあるのですが、そのあたりの事情について、残念ながら、同書ではいっさい触れていません。
そう考えると、「恋塚」という名字も気になってきます。
恋塚氏は佐世保に住むアマチュア史家という立場でこの本を書いているのですが、じつは、序文を書いているのは東京大学で古代史を講じていた榎一雄氏なのです。
邪馬台国論争史でかならず言及される、いわゆる「放射説」の提唱者で、邪馬台国九州説の有力な論者でした。
岩波文庫の『新訂 魏志倭人伝』(石原道博編訳)の参考文献リストのなかにも、『真説邪馬台国』はあげられています。
刊行されたのは1976年。なぜか北海道の出版社です。
著者の主張がはげしくて、読みすすめるのがつらい箇所もありますが、邪馬台国を水銀・朱とむすびつけた先駆的な論考として読むと、見所満載の非常に面白い本であるといえます。
古本市場では比較的安い価格で入手できますが、言うまでも数には限りがあります。興味のある方は、早めに入手されることをお勧めします。
佐世保市は米軍基地の町として、昭和時代は安保闘争の舞台のひとつでしたが、現在はハウステンボスのある町として知られています。
水銀鉱山の跡は、陸上自衛隊相浦駐屯地の敷地内の小丘にあるという記録があります。同駐屯地に依頼して調べてもらったのですが、敷地内にそれらしい丘はあるものの、雑木、雑草に覆われて正確な所在地は不明との回答でした。