古墳時代の「河内の馬飼い」の記憶をとどめる大阪府四條畷市
2020年1月20日刊行の文春新書『「馬」が動かした日本史』にかかわる写真を中心に、関連する話題を書いています。第2回は、大阪府の河内地方にあった古墳時代の馬産地についてです。
古墳時代の河内地方には、ヤマト王権の牧があったといわれています。その中心は、大阪府四條畷市にありました。「讃良(さらら、ささら)の牧 」です。
四條畷市立歴史民俗資料館では、古墳時代の馬産地にかかわる資料を見ることができます。
馬の赤ちゃんという説のある埴輪。古い本には犬の埴輪として紹介されていますが、現在は、子馬説が有力だそうです。
「サララの牧」の風景を復元する大型サイズの絵が展示されています。
この絵画作品は博物館のスタッフが描いたそうです。みごとな出来映え!
四條畷市には市内のそこら中に、古代の馬にかかわる遺跡が点在しています。その中でも、寝屋川市との市境にある蔀屋(しとみや)北遺跡は見晴らしもよく、パネルや復元など遺跡説明の施設が最も整っています。
大阪府の「なわて水みらいセンター」の建設工事にともなう発掘調査で、馬一体分の全身の骨が発見された場所です。
いちばん知りたかったのは、四條畷市の周辺に古代の馬牧がつくられた地理的、風土的な条件だ。蔀屋北遺跡から一望できる生駒山(標高六四二㍍)を指さしながら、野島館長はこのように説明してくれた。
「生駒山系の急斜面を馬は上れません。山から流れる川はいくつかに分かれ、天然の柵になっている。そして古墳時代には、この蔀屋北遺跡のすぐ目の前は海だったのです。山と海、川に囲まれた東西二㌔㍍、南北三㌔㍍の長方形が牧の範囲として想定されています」
海というのは、現在の大阪平野に深く入り込んでいた内海、いわゆる河内湖だ。縄文時代の高温期に最も拡大した内海は次第に縮小していたが、この当時、まだ残っていた。
(文春新書『「馬」が動かした日本史』)
四條畷市に鎮座する忍陵神社の近くに、かつて馬守神社という古代馬産地に由来する神社があったそうです。その神社はなくなりましたが、御祭神であった「馬守大神」は、忍陵神社に合祀されています。
河内地方の古代馬産地を知るには、四條畷市は訪れるべき場所です。