古代出雲のキーワード「玉髄」という石について
私、蒲池明弘の新刊『聖地の条件──神社のはじまりと日本列島10万年史』が8月20日、双葉社より刊行されます。今回のブログでは、本のほうには十分に書き込めなかった鉱物ネタを紹介します。
玉髄の石器、メノウの勾玉
前回、話題にした島根県のアマチュア考古学者、恩田清氏の収集物を再調査した報告書のタイトルは、
『出雲地方における玉髄・瑪瑙製石器の研究:恩田清氏採集資料と島根県出土の玉髄・瑪瑙製石器』(島根県教育委員会古代文化センター、二〇〇四年)です。
「玉髄・瑪瑙(メノウ)製石器」が意味するところは、玉髄の石器とメノウの石器ということではなく、玉髄とメノウの分類があいまいなので、このような表記になっているのだと思います。
関東、関西の博物館で、玉髄の石器を見る機会は少ないと思うのですが、中国地方では黒曜石、サヌカイトとともに、ポピュラーな石器です。
その中心は山陰の出雲地方です。
出雲大社に隣接する県立博物館の展示物ですが、左端が黒曜石で、それ以外が玉髄の石器です。
こちらは、小松市立博物館の展示ですが、似たような石ですが、「碧玉」という表示になっています。
碧玉は、勾玉、管玉など、弥生時代、古墳時代にさかんだった玉作りの最重要素材です。
碧玉の採れる地域はかぎられており、四大産地が知られています。
新潟県の佐渡島、石川県小松市、兵庫県豊岡市、そして出雲地方、現在の地名では島根県松江市玉湯町です。
つまり、玉髄という鉱物は、旧石器時代は石器の素材であり、その後、玉作りの素材としても大いに利用されています。
その玉髄の国内最大級産地が、出雲にありました。
古代出雲のキーワードは「玉髄」である──というのは、こうした理由によります。
出雲産の碧玉とメノウを使った勾玉です。
メノウ、碧玉、玉髄の違いとは?
鉱物マニア界の重鎮、松原聰博士の『日本の鉱物』というフィールドワーク用のミニ図鑑が手元にあるので、関連項目をみてみました。
石英という大きな項目のなかに玉髄があり、玉髄の一種としてメノウが出ています。
この図鑑によると、微細な石英がつくりだした緻密な塊が玉髄であり、メノウの分類上の目安は縞模様のあるなしだと書かれています。
ところが、出雲の玉作り業者は、赤系統で透明感のあるものを赤メノウ、青系統では濃い緑色で光沢のあるものを碧玉あるいは青メノウと呼んでいます。
碧玉は漢字のうえでは緑色の玉という意味ですが、鉱物学の用語としては、赤色、黄色のメノウに似た石もふくむジャスパー(jasper)の訳語になっています。
小松市立博物館の碧玉も赤系統の色です。
考古学、鉱物学、玉作りの業者などそれぞれの立場や地域によって用語に込める意味がすこしずつ違うので、玉髄、メノウ、碧玉という用語の区別はやや混乱しています。
というか、取材・執筆を進めるなかで大いに混乱してしまったのは私自身という話なのですが……。
という次第で、なにか良い参考書はないかと探しました。
玉髄、メノウ、碧玉の関係について、最も詳細に解説しているのがこの雑誌でした。
『ミネラ』は、鉱物、美石のコレクターが読むようなマニア向けの雑誌ですが、「メノウとその仲間たち」という特集が組まれています。
写真が豊富なので、玉髄、メノウ系の石の全体像がなんとなくですが把握できました。
玉髄もメノウも碧玉も微細な石英結晶の集合体である。だから、これらを言葉で明確に区別できるような定義をすることは、実はたいへん難しい。
強いて言えば、碧玉は玉髄やメノウよりも不純物を多く含み、不透明な潜晶質石英である。
逆に玉髄やメノウは半透明、すなわち透明感がある、といったところだろう。
(久世基文氏による解説)
玉髄という用語の由来
「玉髄」という言葉は、「玉髄製の石器」のようなかたちで考古学の論文に出ていますが、一般国民における知名度はきわめて低いと思います。
「黒曜石の石器」「サヌカイトの石器」のほうが比較にならないほど有名です。
玉髄は明治以降、鉱物学のうえでカルセドニーという種類の石の訳語になっていますが、江戸時代の石のコレクターである木内石亭の著作『雲根志(うんこんし)』にも記載されているので、言葉としては古いようです。
現在の鉱物学用語である「玉髄」と木内石亭の記す「玉髄」が、同じ意味内容をもつことはないとしても、かなり重複している印象があります。
木内石亭の玉髄も、玉作りの素材となる石との関係がポイントになっているからです。
『雲根志』は、珍しい石、美しい石についての百科事典めいた内容ですが、「玉髄」という項目が立てられています。
玉髄
玉髄は玉のある所の山中、玉のいわやにあり。玉の精、髄膏のごとくに垂れ、凝り、堅くして玉と化す。形、氷柱のごとし。故に種色あり。(中略)
木内石亭は、自分のコレクションにある玉髄についても、「赤きもの長さ五寸、青きもの三寸、その余長さ二寸ばかり」と紹介しています。
木内石亭は通称で、本名は重暁。
石亭とは、石の屋敷の意味になりますが、木内石亭は全国を歩いて集めた膨大な石のコレクションを、自宅に展示して、希望する愛好家は閲覧することができたそうです。
というわけで、木内石亭の自宅は、日本で最初の鉱物系博物館であるともいわれています。
石の博物館でもある木内石亭の自宅は、「石亭」と呼ばれる当時の有名スポットであり、それがいつしか本人の号に転じたそうです。
江戸時代に書かれた『東海道名所図会』は東海道に沿ったエリアの寺社仏閣や土地ごとの名所を紹介する観光ガイドブックのような本ですが、その巻二に、「石亭」として、木内石亭の私設博物館のことが紹介されています。
当時としては、話題のスポットだったのでしょうか。
『東海道名所図会』によると、コレクションの全体は二〇〇〇点、
石は神代の勾玉をはじめ、我国諸州の産、人の国の産、奇石、化石、天狗の爪、水入りの紫水晶まで、あるは台に飾り、又は小箱に入て……
と展示内容も紹介されています。
『東海道名所図会』は、国立国会図書館のサイトで読むことができます。
該当箇所はこちらのリンクです。
東海道名所図会. 上冊 - 国立国会図書館デジタルコレクション