桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

なぜ、10万年前を視野に入れて、「出雲」について考える必要があるのか?

最近、『聖地の条件──神社のはじまりと日本列島10万年史』(双葉社)という本を出したのですが、私がいちばん訴えたかったのは、

 

出雲が日本最古の聖地である謎は、出雲の10万年の歴史のなかで考える必要がある

 

というテーマです。

 

友人や知り合いにできたての本を郵送したり、手渡したりしているのですが、中身を読んでもらう前に、タイトルに疑問が集まってしまいました。

 

歴史に関心のない同居人には、「10万年前の世界に人類はいたの?」なんて言われて、絶句ですが、それはそれで結構です。

私にとって問題なのは、それなりの歴史の知識をもっている知人に、「10万年史って何?」と変な顔をされてしまったことです。日本列島で最古の旧石器時代の遺跡は4万年前くらい、したがって、日本列島の歴史は4万年くらいであるはず──というわけです。

 

本を読む前の人に、タイトルだけで何かを伝えるというのは難しいです。

 

タイトルについての反省と弁明を兼ねて、なぜ、出雲をはじめとする聖地について考えるとき、10万年前を視野に入れる必要があるのか──そのエッセンスを書いてみます。

(おことわり  noteに同じ内容の文章を載せています)

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出雲大社の参道にある大鳥居




出雲市にある10万年前の砂原遺跡

 

教科書などに出ている定説的な日本史では、4万年くらい前の旧石器時代から日本列島での人びとの営みは始まるという話になっています。

 

あの有名な旧石器ねつ造事件のあと、日本の歴史は絶対確実な4万年前の旧石器時代から考えればいいという風潮が学界のみならず、マスコミふくめて世の中全体に定着してしまったようで、日本列島における人類の歴史の起源を探る研究はすっかり低調になっていました。

 

ところが、2009年、島根県出雲市で12万年前とされる地層から石器が見つかり、「国内最古の石器」であると発表されたのです。出雲大社から南西13キロの海岸近くにある砂原遺跡です。

 

旧石器ねつ造事件をひきおこしたのは「神の手」を持つと称されたアマチュア考古学者でしたが、砂原遺跡の発見は、松藤和人教授(当時)をリーダーとする同志社大学の調査団による発掘成果とあって、新聞、テレビでかなり大きなニュースとして報道されました。

 

年代についてはその後、修正されていますが、今も日本国内では最古の年代が提示されています。

ただ問題は、ほんとうに人間が作った石器であるかどうかについて、学界での合意がなされておらず、教科書や一般的な歴史書では、「日本列島の歴史は4万年」という保守的な定説が今も幅をきかせています。

 

10万年前とされる砂原遺跡が発見された出雲市は、最古の神社とも言われる出雲大社の鎮座地であり、出雲神話の舞台となる土地です。

 

最古の遺跡と最古とされる神社が、同じ出雲市内にあるのは、単なる地理的な偶然ということもありえます。

 

しかし、砂原遺跡のニュースを知った当初から、私はどうしても偶然の一致とは思えませんでした。

 

もし、偶然の地理的一致でないとすれば、いかなる理由によって、旧石器時代の遺跡と出雲大社出雲神話がむすびつくのか。

 

それを知りたくて、データを集め始めたことが、『聖地の条件──神社のはじまりと日本列島10万年史』という本を書くことになる、そもそもの発端でした。

 

こうした資料集めは、最初から犯人を決めてかかる「見込み捜査」のようなものです。

自分にとって都合のいい情報は過大評価し、そうではない情報には目をつぶるということになりがちです。

 

この本にそうした傾向があることは、自分ながら認めないわけにはいきません。

 

それはそれとして、調査結果を申し上げるならば、10万年前の砂原遺跡と出雲大社出雲神話がむすびつく有力な「物的証拠」を見つけたと、私は確信しています。

 

それは、出雲の古代史をあざやかに彩っている「玉髄(ぎょくずい)」という石の存在です。

 

玉髄──出雲を象徴する美しい石

 

鉱物界の重鎮、松原聰博士の『日本の鉱物』というフィールドワーク用のミニ図鑑が手元にあるので、関連項目を見てみました。

 

石英」という大きな項目のなかに「玉髄」があり、玉髄の一種として「メノウ」が出ています。玉髄とメノウの区別は微妙であり、説明する人によって異なるので、ここでは玉髄・メノウと総称しておきます。

 

玉髄という名称が示しているとおり、「玉」になる美石であり、質の良いメノウには、宝石としての価値があります。

 

玉髄・メノウ系の石は、弥生時代古墳時代を中心として、勾玉、管玉など玉作りの材料として珍重されました。

 

玉髄・メノウはものすごく珍しい石というほどではありませんが、硬さによって、埋蔵量によって、さらには美観によって、日本列島で最大の玉髄・メノウ系の石の産地が出雲地方にあります。

 

島根県松江市玉湯町にある花仙山です。

 

花仙山のふもとには、古墳時代以降、国内最大規模の玉作り産地があり、その跡地は史跡公園となり、博物館ができています。

花仙山というよりも、有名な温泉観光地である玉造温泉のある場所といった方がわかりやすいと思います。

 

出雲大社の歴史のなかで言えば、世襲制出雲大社宮司が代替わりをするとき、新しく宮司になる人が、潔斎をする場所が玉造温泉だったといわれています。

 

出雲大社宮司家は、古代的領主を継承する出雲国造でもあり、全国の国造のうち出雲国造だけが、新しく就任するとき、天皇に拝謁するしきたりになっていました。

 

そのとき、新任する出雲大社宮司は、出雲産の三色の玉(「赤水精八枚、白水精十六枚、青石玉四十四枚」延喜式に記録)を献上し、出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)を天皇にむかって詠み上げました。祝詞のようなものです。

 

「白玉のように髪が白くなるまで長生きをなされ、赤玉のように顔色がすぐれ、青玉のようなみずみずしい姿で世を治めてください」

と、天皇の御代の長久であることを言祝ぐのです。

 

延喜式の原文を一部、仮名で表記すると、

「白玉の大御白髪まし、赤玉の御あからびまし、青玉の水江玉の行相に、明御神と大八嶋國しろしめす天皇命の手長大御世を……」というところです。

 

出雲の花仙山でとれる玉髄・メノウは、このように天皇の歴史と強くむすびついており、「三種の神器」のひとつ、八尺瓊勾玉も当地でつくられたという有力な説があります。

 

そしてもうひとつ、民俗学や神話学の一部の学者がかねてより指摘していることですが、出雲大社の祭神であるオオクニヌシには、「玉の神」という一面をもっています。

 

出雲の信仰において、「玉」は重要なアイテムなのです。

 

 

旧石器時代から現代まで続く「石」の歴史

 

古代王権と直結した玉作り産地だった花仙山の歴史には、さらなる前史があります。縄文時代、それよりも古い旧石器時代の遺跡が多く存在しており、「花仙山北麓遺跡群」とも称されているのです。

 

出雲の玉作り産地は、縄文、旧石器時代の遺跡と重なっているのです。

なぜでしょうか。

 

花仙山の玉髄・メノウは、とても硬いので、鋭利な石器をつくるのに適していたのです。

 

玉髄・メノウ系の石器は、出雲地方を中心として、山陰、山陽地方に広く分布していることがわかっています。石器材料の原産地は花仙山です。

「花仙山北麓遺跡群」は全国的にも注目されている有名遺跡なのですが、その理由は、湧別技法として知られる北海道、東北地方に特有の石器が数多く見つかっているからです。

 

湧別技法の存在によって、東北など北方から移住した旧石器人の集団が当地を拠点としていたらしいという話になっています。

 

旧石器時代、東北から出雲へ移住した人たちがいたなんて、何だかすごい説だと思うのですが、こちらについては学界の定説になりつつあるようです。

 

ここまで読んでいただいた方は、すでにお察しかと思いますが、10万年前の砂原遺跡で見つかった石器(石器と認めていない学者もいるのですが)の多くは、玉髄で作られた石器なのです。

砂原遺跡のある海岸エリアに玉髄の産地はありませんから、花仙山のほうの石だと考えられています。

 

砂原遺跡の第一発見者は、出雲市在住の自然地理学者、成瀬敏郎氏なのですが、成瀬氏は最初に見つけた石器を「蜂蜜色した玉髄」と表現しています。

 

今回、砂原遺跡の発掘跡地を、出雲市在住の成瀬氏に案内していただいたのですが、最初に見つけた玉髄の石器は、同志社大学で保管されているそうで、写真撮影はできませんでした。

 

 

 

 

旧石器時代縄文時代の石器というと、黒曜石、サヌカイトなどの黒色、頁岩など灰色、茶色系の石が一般的ですが、玉髄の石器は、色鮮やかです。

 

オレンジ色、朱色など、赤系統の石が目立ちますが、青色、緑色系統の石器もあります。

 

出雲大社に隣接する島根県立古代出雲歴史博物館でも、玉髄の石器を見ることができます。

とても美しい色合いの石器です。

 

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花仙山は高さ200メートルくらいの目立たない山ですが、1500万年前の火山のあったところで、安山岩の溶岩で覆われています。

玉髄やメノウは、安山岩の亀裂に、マグマの残液がたまって鉱物化したと説明されています。

 

1500万年前というのは、地質年代でいえば、新生代第三紀の中新世で、日本列島の原形らしきものが大陸の東端から切断されて間もないころです。

 

日本列島誕生のころの火山活動が、出雲の地に美しい石をもたらしているのは、なんとも不思議な感じがします。

 

そのようにして形成された玉髄を、10万年前の人びとが石器づくりの素材としていたらしいというのです。

 

出雲が日本最古の聖地である謎は、出雲の10万年の歴史のなかで考える必要がある。

 

私がそう考える根拠は、花仙山の玉髄・メノウの有用性と美しさにあります。

今も出雲大社門前町で売られている勾玉などの商品は、花仙山のメノウで作られているので、出雲における「石」の歴史は現在進行形で続いているといえます。

 

『聖地の条件──神社のはじまりと日本列島10万年史』というタイトルに込めた私の思いとは、おおよそそんなところなのですが、これだけ長い説明を必要とするということそのものが、タイトルとしての弱点を証明しているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

【参考文献】

 

砂原遺跡については、ウィキペディアにひととおりの説明が出ています。

発掘成果についての学術的な調査報告書が刊行されていますが、調査団の中心メンバーである松藤和人氏と成瀬敏郎氏による『旧石器が語る「砂原遺跡」:遥かなる人類の足跡をもとめて』(ハーベスト出版、二〇一四年)という一般書も出ています。

 

旧石器時代の東北から出雲への移民活動や花仙山の玉髄石器については、旧石器時代を専門とする考古学者、稲田孝司氏による『遊動する旧石器人』(岩波書店、二〇〇一一年)で解説されています。