桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

7000万年前の巨大カルデラの跡に鎮座する琵琶湖東岸の神社

近江商人の歴史を取材する必要があって、滋賀県近江鉄道沿線を歩きまわったばかりです。余った時間を利用して、近江商人の大量輩出地として知られる東近江市に鎮座する太郎坊・阿賀(あが)神社に参詣してきました。阿賀神社の鎮座する山は、日本列島の誕生よりはるかに古い7000万年前に「湖東カルデラ」を出現させた超巨大噴火の痕跡地なのです。

 

 東近江市の周辺の平野部は、古来、蒲生野と呼ばれた草原地帯で、皇族、貴族の狩猟地でもありました。

万葉集のなかでも有名な

「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」

という歌の舞台が蒲生野です。

若き日の雄略天皇がライバルの皇子を狩猟に誘って、殺してしまった古代史の舞台でもあります。

その蒲生野の平原に鋭角的にそびえる山が、太郎坊山(赤神山)です。

 

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平野のなかに唐突にこんなかたちの岩山がある理由は、火山噴火にともなう溶岩が固結した火山岩の一種「流紋岩」で形成された山だからです。非常に硬い岩なので、風雨にさらされても風化して、崩れることなく山の形でのこっているのです。

 

気象庁はこの1万年以内(おおむね縄文時代以降)に噴火したかどうかを目安として、要警戒の活火山か活火山でない火山(いわゆる休火山、死火山)かを判定し公表しています。太郎坊山を出現させた火山は、中生代白亜紀の7000万年に噴火したのですから、完全なる死火山であり、もはや噴火した火口の痕跡さえ見えません。

 

ただ、7000万年に噴火のときの溶岩は、流紋岩という火山岩として、太郎坊山をはじめとして、滋賀県南東部に偏在しています。琵琶湖の東岸地域なので、「湖東流紋岩」と命名されています。

日本地質学会はすべての都道府県について、地質的な特色を象徴する「県の石」を選定していますが、滋賀県の「県の石」はこの湖東流紋岩です。

「湖東流紋岩」は巨大な円を描くように分布しており、それによって太古の巨大噴火の痕跡が推計されています。それが「湖東カルデラ」です。

 

近江鉄道太郎坊宮前という駅があり、列車から下りると、標高340メートルの特徴的な岩山が目に飛び込んできます。

巨岩を祭祀の対象とするイワクラは全国各地にありますが、当地ではこの岩山そのものがご神体なのだと思います。全国でも最大クラスの巨大なイワクラです。

 

駅のすぐ近くにある鳥居から参道がはじまり、歩いて10分くらいで、山への登り口に到着します。急勾配の石段を20分くらいのぼりつづけると、山の中腹に「湖東流紋岩」の小山のような露頭があり、人間がひとり通れるくらいの縦長の亀裂ができています。5メートルくらいのトンネルを出たところに阿賀神社の本殿がありました。

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私が参詣した日は全国的な猛暑がつづいている時期だったので、暑さに苦しみながらのミニ登山になってしまったのですが、「湖東流紋岩」の裂け目のトンネルのなかは、驚くほどひんやりとしており、たえず風が吹き抜けていることに感激しました。

ザラついた感触の「湖東流紋岩」を手でなでまわし、7000万年前の巨大噴火を実感しながらのジオパーク的参詣を満喫できます。

 

神社の本殿のそばに、東近江市教育委員会が設置したパネルがあり、「湖東カルデラ」と「湖東流紋岩」について説明されています。

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カルデラの外輪山が、この地図の点線で描かれた輪ですが、三重の輪になっています。

これはそれぞれ違った時期に、3つの巨大噴火が起きて、カルデラの地形を生じたのだと考えられています。

 

もっとも外側の輪は、琵琶湖西岸の比良山地におよび、この推計が正しければ、世界的にも有数の規模である阿蘇山の外輪山に匹敵する巨大カルデラ滋賀県に存在していることになります。あまりにも遠い時代の火山活動なので、外輪山の形状をほとんどとどめていない、幻の巨大カルデラではあるのですが。

 

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神社で配布されている「太郎坊・阿賀神社由緒記」によると、神社の創始時期は1400年前というので、奈良時代よりもさらに古い時期ということになります。

もちろん、それよりも前から、空を突き刺すような巨大な岩山への崇拝はあったに違いありません。

『日本の神々 神社と聖地』(山城、近江)によると、中世には神仏混交し、さらに熊野修験の影響をつよく受けたということです。

阿賀神社が正式名称になるのは、神仏分離が進められた明治時代初頭のころで、それまでは太郎坊宮として知られていました。

修験道の聖地ではおなじみの天狗信仰の山でもあり、当地の太郎坊の弟が二郎坊で鞍馬の山にいるという話になっています。

 

それにしても、7000万年前の火山活動の名残が、今も神社として私たちの時代に継承されているというのは驚くべきことです。

アジアの大陸の東端が断裂して、日本列島の原形ができたのが1500万年くらい前のことだとされています。7000万年前の白亜紀中生代ですから、恐竜の時代のいちばん最後の方ということになります。

 

阿賀神社の鎮座する岩山がこのように鋭角的な形状をしているのは、この山を形作っている流紋岩という火山岩が、流動性の乏しい(つまり粘性の強い)溶岩でできた岩であるからです。

鉱物としての分類のうえでは、二酸化ケイ素(SiO₂)を豊富にふくむのが流紋岩で、それとは反対に二酸化ケイ素の乏しい岩石が玄武岩です。

 

玄武岩質の溶岩は流動性が大きい(つまり粘性が弱い)ので、洪水のような溶岩流となって市街地を襲うような事態が出現します。ハワイの火山がこのタイプです。日本では伊豆大島の噴火で、あと寸前で市街地に溶岩が到達するということがありました。

 

日本の火山の多くは、二酸化ケイ素を豊富にふくんだ溶岩を噴出するので、太郎坊・阿賀神社の鎮座する山のような立体的な岩石を作り出します。

 

熊野の聖地である那智の滝の背後をなす巨岩、熊野三山のひとつ熊野速玉大社の奥宮とされる神倉神社の巨岩はいずれも、二酸化ケイ素に富んだ岩石です。

 

遠い時代から日本列島の住民は、不思議な形状をした巨岩を祭祀の対象としてきました。その背景には、二酸化ケイ素の豊富な溶岩を産み出す日本の火山の存在があったということを、『聖地の条件──神社のはじまりと日本列島10万年史』(2021年8月刊行、双葉社)という本で書いています。

 

日本列島の火山や鉱物から神社の歴史を考える「神社の地質学」のような一面をもたせた本ですので、鉱物マニアや「ブラタモリ」のファンの方々にも手に取っていただければと思って、本の宣伝目的ではありますが、本に書けなかった阿賀神社について「番外編」として紹介してみました。