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桃山堂ブログ

豊臣秀吉の<謎>、火山と古事記の探究、電子書籍への挑戦。

「学芸員はがん」? 新聞社、出版社、あらゆる物書きには心強い存在

本をつくる仕事をしていると、博物館などに勤務する学芸員に問い合わせることがしばしばあります。大半は面識のない人です。

素人じみた当方の質問、疑問に対し、いつも的確な返答をいただき、たいへん助かっているので、「学芸員はがん」という山本幸三・地方創生担当相の発言には強い違和感を覚えます。

個人営業の超零細出版社の視点から、この問題を考えてみます。

www.huffingtonpost.jp

 

学芸員は大学の研究者と並ぶ専門家集団

報道によると、山本大臣は「一番のがんは文化学芸員と言われる人たちだ。観光マインドが全くない。一掃しなければ駄目だ」と述べたそうですが、批判をうけ、一応、撤回しています。

 

博物館、美術館に勤務する学芸員の仕事はさまざまですが、それぞれの担当分野の専門家であることが必須条件であり、調査・研究が職務の基本であるとされます。(実際は、雑務が多くて、研究職の実態は乏しいという話も聞きます) 

 

学芸員は国家資格のひとつなので通信教育で勉強して資格をとることは可能でしょうが、資格保持者のうち、実際に学芸員のポストにつくことができる人は一パーセントというデータもあります。非常に狭き門です。

博士号をもっている学芸員は少なくないし、古代史の研究者である◯◯教授、美術評論で有名な◯◯教授も、若いころは博物館、美術館の学芸員でした。

 

日本の社会を俯瞰すれば、学芸員という存在は、大学の研究者に次ぐ、学術的な世界の専門家集団といっていいとおもいます。

でも、その歴史は比較的浅く、社会的な認知を十分には得られていないのではないでしょうか。

 

  私が新入りの新聞記者として、美術館、博物館をうろうろして、学芸員さんたちから話を聞いていたのは、三十年くらいまえですが、当時からすると、日本の学芸員さんの世界は格段にレベルアップしています。

県立の博物館、美術館くらいにしか学芸員はいなかった時代は、そう昔のことではありません。

 

だから、山本大臣は、こう言えば良かったのです。

 

「今や日本の各地に専門知識をもった学芸員さんが勤務する博物館、美術館があり、欧米先進国に引けを取らないレベルに達しています。

しかし一方で、人口減少などによって、地方の博物館、美術館で経営的に厳しいところが増えているのも事実。

したがって、私ども政治家の立場から学芸員の方々に提案したいのは、どのように地域の情報を発信していけば、地域社会の盛り上がりに結びつくか──地元の人たちといっしょに知恵をしぼってほしいということです」

 

大臣発言を好意的に翻訳(意訳?)すれば、こんなところだとおもうのですが、どうでしょうか。

 

本やネットで調べてもわからないと、学芸員に頼ってしまう悪いクセ

ところで、私自身の博物館、美術館との接点は、見学者としての訪問のほか、<取材先>としてのかかわりでした。

 

博物館、美術館の学芸員は、資料を収集・整理して、展示するというだけではなく、新聞社、出版社、アマチュアの研究者、物好きな旅行者など、各方面からの問い合わせや情報提供の依頼に対応するという仕事があります。

 

電話で問い合わせると、だいたい、学芸員さんのところにつながれます。

 

学芸員の業務としては、本業からはずれた、その他もろもろのひとつだと思いますが、そのわりに時間もかかるし面倒なはずです。

 

私はまさに迷惑をかけている一人です。

今は本の作り手として、かつては新聞記者として、さまからさまざまな知識と情報を提供していただきました。

 

図書館で本や論文にあたり、インターネットで調べても、解消されない疑問はかならず残ります。

私もそうですが、大学や学会などの組織に属さずものを書く個人にとって、そうした疑問に答えてくれる学芸員は非常に心強い存在です。

プロ/アマを問わず、いえることだと思います。

 

宣伝になってしまうので恐縮ですが、といいますか、このブログそのものが半ば宣伝なのですが、私が個人営業する出版社から、『火山と日本の神話』という本を出したときは、島根県の博物館の学芸員さんにレクチャーしてもらいました。

提供していただいた資料をふくめて、その学芸員さんをとおして、出雲エリアの地質学的歴史を学び、それを本のなかに反映させています。

 

三月に文藝春秋社から新書として刊行された『火山で読み解く古事記の謎』を書いたときにも、各地の博物館に問い合わせを繰り返しています。

 

 八ヶ岳気象庁によって指定されている活火山のひとつですが、最後の大きな噴火は縄文時代のはじめのほうで、弥生時代から現在に至るまでおとなしくしているので、火山としての八ヶ岳についての資料はあまりありません。

八ヶ岳総合博物館に問い合わせをして、縄文時代に生じた最後の噴火についての概要を知ることができました。

本のうえでは十行足らずの記述ですが、質問に答えてくれる窓口があるのは、とても心強いことです。

 

鹿児島の開聞岳火山については、指宿市考古博物館に問い合わせました。

必要なデータと必読の学術論文を教えてもらいました。

 

ほかにも問い合わせの事例はいくつもあります。 

 本を書くための取材だというと、企画書を出してほしいとか、上司の許諾がいるとか、話が複雑になることもあるので、「物好きな観光客」のふりをして、学芸員さんに質問をさせてもらったケースもあります。

 

悪気はないのですが、締め切りが迫った中での確認作業でした。 

その際はたいへん失礼しました。この場を借りて、お礼を申し上げ、ご無礼を陳謝します。

 

山本大臣が言うように、全国の学芸員が一掃されてしまったら、私のような超零細出版社/個人のもの書きは、お手上げです。

 

その分野の専門家である大学の研究者に問い合わせることができればいいのでしょうが、大学に問い合わせの電話をして、はい、はい、わかりました、と取り次いでくれることはまず、ありません。

 

博物館は社会に開かれた組織ということもあるのか、びっくりするくらい敷居が低く、簡単に担当の学芸員の席に電話がつながります。

その結果、さまざまな雑務が学芸員のもとに、積み上がっていくのだと想像されます。

 

学芸員は若手新聞記者の<教育者>でもあること

私がY新聞に入社したばかりの若手記者の時代には、美術館の学芸員さんの話を聞いて、その受け売りで記事をこしらえていました。

 

A新聞とかY新聞のような全国紙でも、美術専門の記者なんて一人か二人しかいません。

だから、新聞に出ているほとんどの展覧会記事は、ふだん警察まわり、県庁・市役所まわりをしている記者が書くのですが、大半はピカソとダリの区別もあやしいくらいです。

 

科学や歴史・考古学についてもまったく同様です。

新聞社の地方支局に、科学や歴史の専門家記者がそろっているはずがありませんし、デスクがそうした教養をもっているケースは皆無に近いといえます。

 

科学や歴史にまつわる博物館記事がもっともらしい内容になっているとしたら、その裏には、学芸員の周到な指南があると考えられます。

 

私の限られた経験からの感想ですが、地方社会では、博物館、美術館の親切な学芸員が、若手新聞記者の<教育者>という役割も持っていることがあります。

生半可な耳学問であるとしても、優秀な学芸員によって、プチ専門記者ができあがります。

成り行きというか、行きがかり上というしかありませんが、これはこれで面倒な仕事です。

 

 全国各地の博物館、美術館に専門知識をもった学芸員がいて、新聞社、出版社、今なら、さまざまなネットメディア(個人をふくめて)からの問い合わせに対応しています。

それによって、記事や本のレベルが支えられています。

 

その記事や本をみた読者が、その分野に対する関心を高め、博物館に足を運び、それによって何かの閃きを得るというケースはきっとあるはずです。

 

美辞麗句にすぎるかもしれませんが、そこには、<知識の循環>のようなものが見えます。学芸員の蓄積した知識が、その循環を促していることは言うまでもありません。

 

 近年は個人のウェブサイト/ブログであっても、専門的な内容のものが増えており、当然ながら、そうした個人からの問い合わせは少なくないはずです。 

 関心の方向性も知識レベルもわからない人からの問い合わせへの対応なのですから、想像するだけで、その面倒さがわかります。

 

新聞記事、本、ウェブサイト/ブログ。

あらゆる領域の日本語表現は、全国各地の学芸員からの専門知識の提供によって、その知的な水準が維持され、すこしずつであるとしても、引き上げられています。

 

学芸員の本業ではないでしょうが、そうした一面があることを、偉い政治家の人たちにも知っていただきたいとおもいます。

原稿がまるで書けない僕を救済したのは、ワープロ専用機(東芝ルポ)だった。

最近このブログで、Y新聞社に入社した三十年まえのことを書いたからでしょうか、封印がはずれたかのように、いろんなことを思い出すのですが、いかに原稿が書けなかったかという悪夢のような記憶もよみがえってきました。

 

motamota.hatenablog.com

 

旧石器時代の新聞社

何年かまえ、三十代半ばとおぼしき新聞記者(女性)と業務上の会話をしていたとき、ふと、私が新聞社に入ったときには原稿を手書きしていたという話をすると、ものすごい驚愕の表情をされたことがあります。

 

旧石器時代人を見る現代人のような──という比喩が誰かの小説にあったとおもうのですが、大枠では同じ現生人類とはいえ、進化の系統図のまったく別の段階にいる人であると思われたのでしょうか。

 

三十年まえの新聞社で、新入社員に基本的な人権がなかったのは確かですし、デスクは支局で仕事をしながら日本酒を水がわりに飲んで、暴れ回っていましたから、混沌とした状況でした。

旧石器時代よりは進化していたはずですが、前近代的であったのはたしかです。

 

悪夢的記憶はとめどなくよみがえるのですが、悪夢の光景のなかに新聞記事用の原稿用紙があります。

 

学校の作文、あるいは昔の小説家の先生がつかうような四百字詰めの原稿用紙ではなく、マスは二センチくらいあって、五十字も入らないようなヘンテコな原稿用紙です。

 

 

今の新聞社とちがって、記事の書き方のマニュアルなどなかったし、手取り足取り親切に指導してくれる人もいませんでした。

 

先輩が書くのを見て、まねしながら覚えていくのです。

まるで、職人とか料理人の世界。

徒弟社会の雰囲気でした。

 

優秀な先輩 

同じ支局には、端正な原稿を、すらすらと書きあげる先輩がいました。

 

涼しい顔をして、原稿用紙にマジックペンで記事を書いていくのですが、棒線で字を削除したり、カッコで挿入することもほとんどなく、やや神経質な文字が原稿用紙をきれいに埋めてゆくのです。

 

厳しいデスクのチェックも短時間で通過し、ほぼそのままのかたちで次の日の朝刊に掲載されます。

 

同じ長さの原稿を書くのに、私はその先輩の三倍も四倍もの時間を要し、五枚も六枚も原稿用紙を丸めて、はじめから書き直していました。

 

たいへんなのはそこからです。

 

デスクは私が苦労して書きあげた原稿を修正して、商品レベルにもちあげようとするのですが、なかなかうまくいきません。

やがて表情は怒りでゆがみ、「お前は俺を殺す気か」と低い声でつぶやきます。

 

さらに、ひどい出来の原稿のときは、

「死ね!」

と言って、原稿をまるめて、ゴミ箱にポイされました。

 

 

「半年もすれば、誰でもうまく書けるようになるよ」

とその先輩はなぐさめてくれました。

「パターンを覚えてしまえばいいんだ。新聞記事なんて、いくつかのパターンの繰り返しだから」

 

 

でも、一年を経ても、二年が過ぎても、原稿を書く早さも、品質も低レベルのままでした。

 

 

ライター的な仕事を経験した人であれば誰もが考えることですが、原稿を書くのがうまい人には天性の才能があるように見えます。

 

読書量とか経験とか努力ではなく、書くのがうまい人は、最初からうまい──という説は酒席ではしばしば話題になりますが、研究者によって証明された学説ではありません。

でも、私が見聞きした範囲だけでも、状況証拠は十分にそろっているとおもわれます。

 

歌をうたうのがうまいとか、走るのが速いとか、そういう世界と似ているところがあります。

 

その先輩には文章を書く生まれながらの才覚があり、残念ながら、私にはその種の才がないことは歴然たる事実といわざるをえません。 

 

ワープロ専用機は僕のへたくそな原稿を突如、レベルアップしてくれた

 

Y新聞の地方支局で、手書きの原稿からワープロ原稿へ移行したのは、一九八八年だったと記憶しています。

 

私が入社して三年目か四年目です。

メーカーは東芝で、「ルポ」という機種名。

現在のノートパソコンより、二回りくらい大きく、重量感がありました。

 

ワープロに「モデム」とかいう装置をつけて、原稿を電話回線で、送信していました。

原稿の末尾に、+++ のマークを入れて、実行すると、

ぴー、しゅー、ぴいーーー

というような、せつなげな電子音とともに原稿が魔法のように飛んでゆきました。

どんな仕組みだったのか、謎です。

 

 

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【楽天市場】ワードプロセッサー > ワードプロセッサー 東芝【TOSHIBA】 > 東芝Rupo【ルポ】その他 > JW01:CREWBAR LAND

 

 

ワープロ専用機の出現によって、私の原稿は突然、レベルアップしました。

 

ゆるやかな上昇カーブの曲線ではなく、棒グラフのように、非連続的に、原稿がうまく書けるようになったのです。

 

どうしてこれを記憶しているかというと、デスクに手直しされる青のマジックの分量が目に見えて減ったからです。

 

 

当時の私は原稿を人並みに書けるようになったのは、それなりに努力した成果であり、仕事になれてきたからだと、自分を高く評価する方向で解釈していました。

 

しかし、いま、第三者的に当時の自分をおもいおこすと、原稿がレベルアップした要因の九〇パーセント以上は、ワープロの機能に由来すると結論づけざるをえません。

 

というのも、その後、新聞社に勤務した十数年、そして現在に至るまで、入社四年目の原稿レベルから、たいして上昇していないからです。

 

このブログは原稿料が出ない文章だから、手を抜いてダラダラ書いているのかと誤解されるかもしれませんが、一生懸命書いても、こんなものです。

 

文章をうまく書けないという自覚症状はいまでも持っており、最近、アマゾンキンドルで、『わかりやすい文章を書く全技術 100』(大久保進)という本を買って読んでいるところです。

 

小林秀雄先生にもお勧めです。

小林先生が、この本を読んでいれば、受験生が正解を誤るような文章を書くこともなかったのにと悔やまれます。

でも、それだと、現代国語の試験にはならない?

「わかりやすい」文章を書く全技術100

「わかりやすい」文章を書く全技術100

 

 

なぜ、ワープロがあれば、あるレベルまで原稿が書けるようになるのだろう?

 新聞記事の大半は、一日で完結する仕事です。

昼間に取材したり、記者会見で聞いたことを、夕方、原稿にまとめて、次の日の朝刊に掲載されるというパターンです。

 

午後六時までには原稿を出せといわれていました。

 

刻々と迫る締め切り時間。

ある行を削除し、新たな言葉を挿入する。

それでもだめで、頭をかかえて何度も修正を重ねる。

 

冷や汗がじわり。

 

マジックペンでの手書き時代、あせればあせるほど、原稿用紙は文字と線が入り乱れ、収拾がつかなくなってしまうのでした。

 

しかし、ワープロは、削除も挿入も移動も整然とおこなってくれます。

実に助かりました。

 

 急ぐ原稿ではなくて、特集記事、連載記事のような長い原稿を書くときに、ありがたかったのはプリントアウトの機能でした。

 

プリントアウトされた原稿からは、流れの悪さ、不必要な記述、不足の要素など、原稿の欠点が、マーカーペンで色でもつけているようにはっきりと見えたのです。

 

それは、原稿用紙の手書き原稿を推敲するときとは、まったく違う感覚でした。

 

しつこいほどプリントアウトをくりかえしました。

五回、十回と重ねるうちに、どうしようもなかった最初の原稿を、まあまあのレベルまで引き上げることができるようになりました。

 

プリントアウトを見ているあいだに、新しいアイデアが浮かぶという恩恵もあります。

 

その習慣というか悪癖は、本を出す作業をするようになった現在もつづいており、今回、文藝春秋社から『火山で読み解く古事記の謎』という本を出したときも、最終段階のゲラで、大幅な直しをすると言いだし、担当編集者さんを困らせてしまいました。

一回分、よけいにゲラ出しをしてもらったので、コスト的にも迷惑をかけてしまい、この場をかりて陳謝する次第です。

 

 

ところで、原稿のうまい先輩は、メカにもつよかったようで、支局のメンバーのなかでもいちはやくワープロに習熟し、あいかわらず、軽やかに原稿を仕上げていました。

ほとんど完璧な原稿を一発で書いてしまうので、プリントアウトも必要ないくらいです。

 

 

ほどなく、新聞社の地方支局にワープロがあるのが、当たり前の日常的な風景となりました。

先輩の原稿は相変わらず、みごとなものなのですが、あるとき、かつて感じていたはるか彼方の雲の上というような、絶対的な差がなくなっていることに気がつきました。

 

その理由ははっきりしています。

先輩はワープロの恩恵をほとんどうけないほど原稿がうまかったのに対し、私はワープロによる伸びしろが、ものすごく大きかったからです。

 

一筆書きのように、サラサラと完璧な原稿を書くことができる人は、脳内に特殊な回路が最初から出来上がっているとしかおもえません。

 

そうした脳内回路を保有していない私は、何度も行きつ戻りつ、モタモタと原稿を書くしかないのです。

あのころもそうだし、今もそうです。

そのような人間にとって、ワープロの出現は、たいへんな恩恵だったと今になって痛感しています。

 

 

がんばれ、東芝

東芝が発明したわけではないと思いますが、記憶の中のワープロ専用機は東芝に結びついています。

 

ありがとう、東芝ルポ!

 

ダメダメ記者の僕にとって、あなたは救いの神でした。

「神」というのが言い過ぎなら、「育ての親」かもしれません。

二十代だった僕が、伝えることができなかった感謝の言葉を、ここに記しておきたいとおもいます。

 

その東芝が今、かつてない苦境のなかにあります。

日本の良き技術文化を継承する東芝の復活を祈っています。

 

高齢者およびその予備軍のための「うひ山ぶみ」(本居宣長)

本居宣長の「うひ山ぶみ」を読んだのは高校時代ですが、田舎のぐうたら高校生だった私が自主的に読むはずがないので、古文の教科書あるいは副読本に掲載されていたのだと思います。前回のエントリーで紹介した『日本の古代を読む』(上野誠編)というアンソロジーに所収されているのですが、改めて読んでみて、本居宣長はなんて心が広くて優しい人だろう! と感激してしまいました。

 

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教科書の中の本居宣長

うひ山ぶみ」はごく短い文章です。古文の教科書あるいは副読本で読んだのはその抜粋だったのかもしれませんが、そうだとしても、どの部分かということは見当が付きます。

 

『日本の古代を読む』は、編者である上野誠奈良大学教授がわかりやすい現代語に訳しているので、その部分を引用してみます。

 

人間というものは、才能がある人とない人とで、その上達の度合いはたいそう異なるのだけれども、才能があるかないかは生まれついてのことなので、どうすることもできない。

考えても、詮無いことである。

けれども多くの場合、才能がないという人であったとしても、怠ることなく精進してゆけば、それだけ上達してゆくこともある。

 

教科書会社あるいは学校の教師が、子どもにこの文章を読ませたいという発想はよく理解できます。

今の君が、勉強あるいは運動がよくできなくても、コツコツと努力すれば、かならずレベルアップしていくのだよ──。そんな前向きのメッセージを、日本史の教科書にも出ている宣長先生がアドバイスしているのですから。

 

晩学

しかし、最近、「うひ山ぶみ」を読んで、高校生の私が読み飛ばしていた重要なポイントに気がつきました。上の引用部分に続く、以下の内容です。

 

また、晩学であったとしても、努力して励めば、思いの外、上達することだってある。

時間のない人であっても、それぞれが意外にも、時間のある人より上達することだってあるのだ。

だから、才能が乏しい人も、晩学の人も、時間がないからといって望みを捨てて、学問を捨てることなどなかれ。

 

宣長の生きた時代、学問の王道は四書五経漢籍を学ぶことだったので、古事記万葉集を学ぶことは、一部のお公家さんたちを除けば、実利にむすびつかない趣味的な世界であったとおもわれます。

ということは、現役を退いたご隠居さんたちが、門弟の少なからぬ比率を占めていたのではと推測され、そういう人たちに向けて書かれた文章として、「うひ山ぶみ」を読むことができるとおもいます。

そうであるなら、キーワードのひとつである「時間がない」は、仕事で忙しいという意味ではなく、生きている時間が少ないという、もっと切迫した表現であることになります。

 

この文章を書いたのは、大著『古事記伝』を書きあげた直後で、本居宣長は七十歳に近い年齢でした。その三年後にはなくなっているので、ここで繰り返されている「時間がない」という言葉は、宣長自身の思いとも重なっていたのかもしれません。

 

 「うひ山ぶみ」を所収している『日本の古代を読む』には、本居宣長のほか、坂本太郎津田左右吉井上光貞、瀧川誠次郎、青木和夫、石母田正、三浦周行、内藤湖南和辻哲郎、W・G・アストン、辻善之助、林屋辰三郎、折口信夫西田直二郎亀井勝一郎という人たちの文章が掲載されています。 

 

 

名前だけはよく見聞きするけれど、実際にその人の文章を読んだことがない──というあたりが購入の動機になるのかもしれません。

 

私の場合、うちの子どもが毎週土曜日の夕方、アニメ「名探偵コナン」にチャネルをあわせるたびに、条件反射的に「内藤湖南」を思い出すのですが、なにか著作を読んでみようというアクションには結びついていませんでした。

でも、このメンバーのアンソロジーを、いったい、どのような人が買うのでしょう?

データにもとづかないまったくの憶測ですが、「五十代、六十代、もしかすると、それよりも上の年代の男」が想定されます。

 

もし、そうであるなら、このアンソロジーの冒頭に、「うひ山ぶみ」を置いた上野誠先生の意図がほのかに見えてきます。

 

才能が乏しくても、晩学であっても、時間がなくても、怠らずに学べば──という励ましは、本居宣長の声であり、上野誠先生の声でもあるように聞こえてきます。

 

私は三つの条件、すべてにあてはまっています。

生まれながらの怠け癖を自覚するゆえか、心と体にしみいる重い言葉です。

 

私自身のことをいえば、四十代前半までは、企業の決算発表の記者会見を聞いて、バタバタと記事を書くような新聞記者の生活をしていたのですが、あれやこれやの偶然によって、自分で個人営業する出版社から古事記かんけいの本を出すことになり、付け焼き刃の耳学問であれこれ知識を仕入れているところです。

 

大学とか大学院できちんと古事記をはじめとする古典文学を研究しているわけではないので、「晩学」という言葉をつかうのもおこがましいくらいですが、晩学者の末席くらいにはいるつもりです。

 

それぞれの山へ

どうしても、too lateという意識にとらわれがちですが、百歳ちょっとまで生きることができれば、まだ五十年……いや、それは希望的観測がすぎるとして、八十歳ちょっと生きればあと三十年、それだけの時間があれば、相当のことができのではないか──。そんな自己暗示をかけて、前向きの気持ちを引き出しています。

 

上に引用した文章は、次のような言葉によって結ばれています。

 

様々な困難があったとしても、努力さえしていれば、自らの学問が成ものと信ずるべきだ、と思う。志を捨てるということこそが、学問にとっては、最もよくない選択なのだ。

 

高齢者の仲間入りをするのはずっと先だという気分でいるのですが、高校生のときに素通りした「晩学」とか「時間がない」という言葉に過敏に反応してしまうのは、私がすでに、高齢者予備軍くらいには突入したからかもしれません。

 

うひ山ぶみ」の「山」とは、奥深い山に分け入ることを学問の世界の探究のたとえとしているわけですが、それは学問にかぎったことではないとおもいます。

 

「山」を未知の世界への挑戦であると理解することも可能です。

そうであるなら、「うひ山ぶみ」は超高齢化社会に突入した日本社会において、共有すべき知恵の言葉であるとおもいます。

 

古事記好きの男性だけでなく、多くの高齢者およびその予備軍の人たちに読んでほしい名品です。

 

「試験によく出る評論家」小林秀雄と亀井勝一郎の共通点は美形であること。

前回のエントリーで小林秀雄の文庫本を半ば義務的に読んでいたことを書きながら思いだしたのは、亀井勝一郎です。この文人も「試験に出る評論家」として、昭和時代の高校生に推奨されていたのですが、いま私が読んでいる『日本の古代を読む』というアンソロジーに収録されており、それが抜群に面白い古事記論なのです。

 

 

『日本の古代を読む』は、最近、近所の本屋さんの棚に入っているのを見て購入し、寝る前にすこしずつ読んでいます。

万葉集研究で著名な奈良大学上野誠教授が編者・解説者をつとめています。

収録作品の筆者は以下の通り。

 

本居宣長

坂本太郎

津田左右吉

井上光貞

瀧川誠次郎

青木和夫

石母田正

三浦周行

内藤湖南

和辻哲郎

W・G・アストン

辻善之助

林屋辰三郎

折口信夫

西田直二郎

亀井勝一郎

 

アストン、折口信夫和辻哲郎など別ジャンルの筆者もふくまれていますが、大学で歴史を教えていた先生がほとんどです。

 

亀井勝一郎は、雑誌や書籍のための文章を書いて生活していた評論家ですから、このなかでは毛色の違う人です。

 

亀井勝一郎古事記に「楽園追放」の人類史的記憶を読んだ!

収録されている亀井作品は『神と人との別れ』。

日本書紀との比較で、古事記の性格についてこのように述べています。

 

古事記』とは、古代人の「原始古代人」への憧憬の詩書であり、『書紀』はそれと表裏した悔恨の史書とも言えるのではないか。 

 

「神代」という失われたものへの限りない愛着、神々の喪失感から、あの大らかに古撲な文章が生まれたのではなかったか。 

 

亀井勝一郎の文脈で、「神代」は、「原始古代人」の世界と重なっています。

縄文という言葉も、弥生という言葉も出ていませんが、奈良時代の人たちが遠望する「原始古代」を、私は勝手に「縄文時代」と読みました。

 

 

「言葉の誕生と伝承」のなかで述べたように、神々のいのちとしての言葉の純化と、その保存を第一義としたのだ。

少なくともそこに主眼点をおいたとみられるし、さらに注目すべきことは、仏教伝来という事実が完全に黙殺されていることだ。 

 

 こんあたりの啖呵の切り方は、歴史学者古事記学者には真似できないもので、聞きほれてしまいます。

 

亀井勝一郎日本書紀も評価、そのながれで本居宣長の死角を指摘

でも、古事記をこうしたアングルから評価する人は、ほかにもいます。

亀井勝一郎の論考が出色なのは、古事記とは違った性格をもっている日本書紀の神話的側面を高く評価していることです。

 

 よく知られているとおり、本居宣長によって、日本書紀は、中国的合理精神の産物であると見なされ、古事記に対してマイナス的な価値を帯びることになります。

 

亀井勝一郎は、そこに本居宣長の死角が生じているというのです。

 

宣長は神々に近づこうとした人である。「楽園恢復」を志した人だ。しかし逆に神々から別れつつある、いわば「古代人」の深い動揺があった。

一切の漢心を拒絶することで、彼はこの動揺の実体を見失ったのではないか。 

 

古事記が <古事記が「楽園追放」以前の思い出> であるならば、日本書紀は <追放の過程──即ち神人分離の記録> であると、亀井勝一郎は断じています。

 

人類にとって「楽園」の記憶とは何かというテーマは、これまた難しい問題で、宗教的な救済としての理解も、歴史的な記憶としての解釈もできるはずです。

 

どうしてこんなに売れているのだろう? という興味から購入してしまった『サピエンス全史』でも、そのあたりがテーマのひとつになっていました。

もちろん、後者の視点ですが、これだけ科学や技術文化が進歩しているのに、現代人の幸福度は、新石器時代の人類より低い可能性が高いという指摘です。

 

新石器時代はだいたい一万年くらい前からですから、日本の時代区分の上では縄文時代

日本人にはわりとお馴染みの議論で、「自由で平等、幸せな縄文人」というやつです。

 

 

古事記を「楽園追放」の物語として読み解く亀井勝一郎の論考は、『サピエンス全史』にも結びつくような、現代的でスリリングな内容です。

 

名だたる古代史家をそろえたアンソロジーの<とり>に、亀井勝一郎をもってきた上野誠先生の慧眼に敬服します。

 

このアンソロジーの冒頭を飾るのが、本居宣長の「うひ山ぶみ」ですから、江戸時代後期から昭和時代にかけての、古代をめぐる日本人の論考が、円環構造となって、亀井勝一郎につながっているようにも見える構成です。

プロローグとエピローグのような感じ。

 

古事記にかかわる文章だけを集めたアンソロジーではありませんが、津田左右吉井上光貞石母田正など、古事記研究史における名だたる登場人物もそろっており、「古事記本」としても楽しめる内容です。

 

超ハンサムなおじいさん

ところで、小林秀雄に次いで、「試験に出る評論家ナンバー2」だった亀井勝一郎のどの作品を、高校時代の私が読んだのかまったく記憶にありません。

 

小林秀雄の文庫本は概して薄かったのに比べ、亀井勝一郎の文庫本はどれも厚かったのではないだろうか──。そうした触覚的な、指先の記憶がぼんやりとある程度で、脳の内部になんのデータも蓄積されていないことは情けないかぎりです。

受験勉強の延長として、無理りやり目だけ動かし、活字を追っていたことは明らかです。 

 

『日本の古代を読む』の帯に印刷された写真を見て、私は亀井勝一郎という人の顔を知らなかったことに気がつきました。

 

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いちばん左が亀井勝一郎

鼻は高いし、目はぱっちり。

うーむ、こんなにハンサムなおじいさんだったとは! 

 

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若いころの写真はこちら。

太宰治と仲が良かったそうです。

 

相当、悪いことをしたのではないかと心配してしまいます。

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 そういえば、小林秀雄も美形だし、声もすばらしい。

 

私たち昭和の受験生を苦しめた名文家のお二人がそろって美男であることと、お二人が昭和の出版の世界において売れっ子であったことの間には因果関係があるのでしょうか?

上野誠編『日本の古代を読む』が私にもたらした、もうひとつの<謎>です。