写真家、高草操さんの新刊『人と共に生きる 日本の馬』は、美しい歴史の断片に満ちている。
高草操さんは、馬の撮影を専門分野のひとつとするフリーランスカメラマンです。馬といっても、サラブレッドをはじめとする競走馬ではなく、農業や運搬など人びとの暮らしとともにあった日本の馬たちに心を寄せています。高草さんの新著『人と共に生きる 日本の馬』(里文出版、2020年4月刊)は、馬にかかわる歴史の、美しい断片に満ちています。
全国各地の馬の歴史についての詳細な参考文献も記されており、こちらも充実した内容です。
戦後からまもない間、日本各地の風景のなかには、働く馬たちがごく自然に存在していた──といわれても、それを実感をもって理解するのが難しいと思います。
ただ、限られた数ではあるものの、今でも、暮らしのなかに馬の記憶を濃厚にとどめている地域があります。
高草さんは、そうした地域に足を運び、写真と文章によってそれを記録する活動を続けています。この本はそうした活動をふまえた、臨場感に満ちた報告です。
日本独自の馬種であるいわゆる在来馬のひとつ対州馬のいる長崎県の対馬についてのくだりには、島の資料館で目にした「しんき節」という民謡の歌詞が、今では労働の現場で歌われなくなっている「馬追馬」であることを確かめ、対馬馬の歴史をより豊かな風景として実感したことが書かれています。
シャリン、シャリンと鈴の音が響く中、「しんきしんきと山路行けば、かさに木の葉がふりかかる……」と歌い手がゆっくり歌い始める。そのあとに「……はよう歩かにゃ、ぞうずは飲ませんぞ……」というセリフが入り、再びシャリン、シャリンという鈴の音が響く。(中略)「しんき節」は、薪や木炭が燃料だった時代、馬を引く人が険しい山道を行くときに我が身と馬を励ましながら口ずさんだ労働歌だったのだ。
これはまったく私個人のことですが、長崎県の離島である対馬は、だいぶ前に亡くなった私の父親が、二十代のとき、地方銀行員として赴任していた島です。
戦後十年たらずのころなので、馬が働く風景は健在だったはずです。
家族的な記憶も手伝って、とても印象深く読ませていただきました。
以前、青森県八戸市を訪れたとき、新羅神社という社名にひかれて足を運んだことがあります。社名の由来は朝鮮の新羅国とは直接は関係なく、新羅三郎こと源義光(河内源氏二代目・源頼義の子、八幡太郎義家の弟)の子孫である南部氏にかかわる神社であることによるようです。
新羅神社は「騎馬打毬(だきゅう)」を伝える神社として知られています。
「騎馬打毬(だきゅう)」とは、馬上の武士がゴールを競い合う日本独自のポロ。国内三カ所でしか継承されていない貴重な古式馬術ですが、そのうちのひとつが新羅神社です。
高草さんは『人と共に生きる 日本の馬』のなかで、年に一度の祭りで奉納される騎馬打毬のようすをレポートしています。赤白の二組に分かれた八人の騎手が、三本勝負でゴールを競い合うのだそうです。
江戸時代、国内で最大の馬産地とされる南部藩ですが、その伝統を背景とする騎馬打毬が現在まで伝わっている最大の理由は、「免許制度」があったからだと、高原さんは指摘しています。
この免許制度が現在も続いているということも初耳でした。馬の歴史とともにあった南部藩の熱意に、改めて感心してしまいました。
目新しい話が満載されているこの本のなかでも、私が最も驚いたのは、「物流を支えた馬たち」という項目でした。
東京都内のトラック業者のうち、少なからぬ業者が、馬による運搬業の流れをくんでいる──という知られざる歴史が述べられているのです。
東京都江東区南砂の住宅街には、都内で最大の馬頭観音があるそうですが、この観音を管理しているのは、隣接するビルに入居する東京トラック同盟協同組合。境内の周囲には、運送会社の社名を彫った石柱が立ち並んでいるといいます。
トラック業界の前史が、馬による輸送と直接、つながっていることが、この逸話ひとつで了解できます。
物流業界の名門、日本通運と馬とのかかわりについても書かれていますが、驚くべき内容です。私はまったく知りませんでした。
戦時中の昭和十六年、小運送業再編が行われ、これを統括するための国営会社・日本通運(株)が創立された。会社は多くの馬力業者と三千頭以上の馬を所有する巨大な馬力運送会社となるが、いつでも軍馬を徴発できるようにと言う軍部の目的も兼ねていた。
(赤字は引用者)
日通に三千頭の馬!
これだけでも、驚異の風景です。
日本の物流の歴史のなかで、「馬力運送は昭和三十年代前半まで活躍していた」というのですから、ちょうど今から五十年まえくらいに境界線があることになります。
農作業の現場で、馬の姿がほとんど見えなくなるのも、だいたい同じ時期ではないでしょうか。
高草さんが書いておられるように、日本社会の労働の現場で、馬たちが経済的な価値を発揮できる場所はなくなってしまっています。
地域に生きた馬たちの歴史を保存しようというさまざまな取り組みがあることは、この本のメインテーマのひとつとして取り上げられていますが、それがいかに困難なことであるかも伝わってくる報告となっています。
プロの写真家だけあって、一枚一枚の写真に、説得力がありますが、私がいちばん感銘をうけたのは、山に囲まれた沼地のような場所で、水浴びを楽しんでいるトカラ島の馬たちの風景です。
馬は風景に気品を与えることのできる動物です。
生き物を外見の善し悪しで評価するのは、一種の差別かもしれませんが、
馬は誰が見ても、美しい動物であり、高貴ですらあります。
馬のいる風景には独特の品格があるだけでなく、日本社会から失われている「ゆったりとした時間感覚」のようなものが漂っています。
馬のいる風景の素晴らしい価値を、高草さんのこのカラー写真は、見開きの大きなサイズをとおして教えてくれます。
日本列島における馬の文化の今を知り、未来を考えるうえで、貴重な情報が満載された本です。
武士は「馬に乗った縄文人」だったのか ──歴史系人気サイト「武将ジャパン」に掲載中。
文春新書『「馬」が動かした日本史』の裏テーマといいますか、本の全体を貫くテーマのひとつは「武士の誕生」をめぐる謎への探究です。
そこにポイントを置いた記事が、「武士は<馬に乗った縄文人>だったのか 」
というタイトルで、有名日本史サイト「武将ジャパン」に掲載されました。
「武士とは何か」という永遠のテーマについて、「馬」と「縄文文化圏」という二つのキーワードから迫りまっています。
『「馬」が動かした日本史』の原稿を書いているあいだ、ひとつの仮説的なアイデアが生じました。それは「武士とは、縄文系の文化の正統な継承者ではないか」ということです。
図式的に示すと、こうなるのではないでしょうか。
自信をもって書くには、まだまだデータ不足というのが正直なところです。
ただ、いくつかの状況証拠を日本史サイト「武将ジャパン」でも紹介しています。
こちらからご覧いただければと思います。
武士は「馬に乗った縄文人」だったのか 文春新書『「馬」が動かした日本史』より - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
『「馬」が動かした日本史』、北上次郎氏に紹介していただきました。
拙著『「馬」が動かした日本史』(文春新書)を、「本の雑誌」の創刊メンバーで評論家の北上次郎(目黒考二)氏に紹介していただきました。
「日本は『草原の国』であったという指摘が新鮮だ」という書き出しで、<なぜ、日本列島には、相当に広い草原エリアがあったのか>という本書の主要テーマのひとつを話題にしていただいています。
それは火山の国であったからだ。
火山のまわりに草原ができやすいのは、巨大な噴火によって火砕流、溶岩がちらばり、その上に土が堆積しても他の場所に比べて土壌の厚さが不足しているので、樹木が根を張り、十分な水分、栄養分を得ることは難しい。
その結果、生まれるのが「黒ボク土」で(厳密には火山灰に由来しない黒ボク土もあるようだが)、農地には適さない草原となる。
こうした日本列島の草原的環境にもっとも適した野生動物のひとつが鹿であり、5世紀ごろ日本に持ち込まれた馬であった、というのである。
馬がとくに好むエサは、分類上、イネ科植物と呼ばれるものです。
身近な事例では、エノコログサ(ネコジャラシ)、ススキ、ササといったところ。
じつは野生の鹿が好きなのも、同じイネ科植物であり、馬と鹿のエサはかなり重なっています。
鹿は現在の日本列島に、三百万頭ほど生息していると推計されています。
今でさえそうなのですから、江戸時代、奈良時代、縄文時代と古い時代にさかのぼるほど鹿の生息数は増えるはず。
鹿の繁殖する草原的環境は、馬にとっても望ましい大地だったのです。
北上氏がとりあげてくれたもうひとつの論点は、<なぜ、有力な武将、武士団は東日本と九州南部に集中しているのか>というテーマです。
関東に武家政権を築いた源頼朝、徳川家康。平安時代に関東の独立を目指した平将門、東北で黄金文化を開花させた奥州藤原氏、甲斐の武田信玄、すべて黒ボク地帯を軍事的な地盤にしていた、というから興味深い。
ちなみに、島津氏が出た九州南部も、平清盛が出た伊勢国も、黒ボク地帯だ。日本史で活躍した多くの武将が黒ボク地帯から生まれているのだ。
つまり馬は軍事的財産であり、それを手に入れることのできた武将が活躍したということだ。
広大な草原が広がっていて、そこを馬たちが疾駆する。そんな光景が浮かんでくる。とっても刺激的な論考だ。
日刊ゲンダイの書評記事は、こちらのリンクからご覧いただけます。
古代の浅草は馬の放牧地だったのか?
内外の観光客でにぎわう東京・浅草の浅草寺。
浅草の界隈には、平安時代あるいはそれよりもずっと古い古墳時代から、馬の放牧地があったという説があります。
拙著『「馬」が動かした日本史』(文春新書)のなかから、謎多き浅草寺の歴史に関係するかもしれない、浅草と馬にまつわる話を紹介します。
修学旅行の学生。外国人からの来訪者。多くの観光客でにぎわう浅草寺の境内に鎮座する浅草神社。
浅草神社には、この地に朝廷の管理する馬牧があったということが、断定口調で書かれたパネルが設置されています。
ごぞんじのとおり、東京都と埼玉県に神奈川県の川崎市全域、横浜市の半分以上を加えた地域を、古代以来、武蔵国といいました。
平安時代の行政がわかる「延喜式」には、武蔵国に朝廷の牧が六カ所あったと記載されています。
古代の東京周辺は人口が少なく、馬の放牧地が目立つ地域だったようです。
武蔵国にあった六カ所の馬牧はどこにあったのか?
立地場所については諸説紛々ですが、そのうちのひとつ「檜前(ひのくま)馬牧」の有力な候補地が台東区浅草なのです。
浅草寺の門前の道を今も「馬道通(うまみちどおり)」といいますが、この地名の由来はよくわからないそうです。
馬道通を隅田川の方に歩くと、駒形橋のたもとに「駒形堂」があります。
浅草寺の発祥地ともいわれる特別の場所ですが、駒形堂はその名の通り、馬頭観音を本尊としています。
馬頭観音は、各地の馬産地で信仰されています。死んだ馬を供養するとともに、さらなる繁殖への祈りも込められています。
そのような馬頭観音が、なぜ、浅草で信仰されているのか?
浅草という地名の「草」にも、馬牧のある風景が見えています。
浅草の歴史には「馬」の影がちらついているのです。
浅草寺から歩いて十数分、隅田川をはさんで対岸の墨田区向島に「牛嶋神社」が鎮座しています。
このあたりには、古代の牛の牧があったと伝わっています。
浅草は隅田川の下流域にあたり、古代であれば氾濫原草原が広がっていたはずだ。
向島は隅田川と荒川がつくる三角州に位置しているが、三角州は馬が逃げるのを防ぎやすく、古代の馬牧の適地とされる。
伝承や現在の地形など状況証拠からの推定ではあるが、浅草周辺に古代の馬牧があった可能性は相当に高いと思う。
(文春新書『「馬」が動かした日本史』P142
この牛をなぜると、御利益があるそうです。
浅草に古代の牧場があったという話は、JA(農業協同組合中央会)のウェブサイトにも出ています。