桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

ビジネス分野で活躍する人たちにも読んでいただきたい『邪馬台国は「朱の王国」だった』

ネット上にブックレビューを書いている人たちの集う「本が好き!」というサイトに、文春新書『邪馬台国は「朱の王国」だった』を献本しました。新作の本を無料で入手できるので、本好きの人には最適のサービスだと思いますが、レビューを必ず書くことが条件。興味のある方は、こちらをご覧ください。

 

www.honzuki.jp このサイトに載せるための、自著紹介の文章を書きましたので、当ブログにも転載することにします。

タイトルだけでは、ベタな古代史本にしか見えないとおもいますが、実は、ビジネス、経済に関係する本でもあることをアピールしています。

 

※アンダーライン部分は、「本が好き!」サイトからの質問項目です。

 

 
どのような方におすすめか (献本のミスマッチを防ぐため、 ご記入下さい)

 

ジャンルとしては古代史ですが、筆者がもともと新聞社の経済記者だったこともあり、経済史・産業史の視点をとりいれています。歴史にはあまり関心がなくても、企業や役所で、日々、経済の現場に接している方々にも、ぜひ、読んでいただきたいと思っています。

邪馬台国をタイトルに掲げていますが、扱っている期間は、邪馬台国の時代から奈良時代までです。邪馬台国だけを話題にした内容ではありませんから、古代史好きの人であれば、有益なデータを提供できるかもしれません。

 

 


概要 (書籍の概要を簡潔にご記入下さい)

 

マルコポーロの「東方見聞録」は黄金の島ジパングの伝説を西欧世界に広め、大航海時代の呼び水になったとも言われています。それより千年ほど前の三世紀に書かれ、日本列島の様相を漢字文化圏にはじめて紹介したのが「魏志倭人伝」。この中国の史書は日本列島を代表する地下資源として、「丹(朱)」をあげているのです。

 

朱の鉱物としての名称は辰砂。化学組成のうえでは水銀と硫黄の化合物(硫化水銀)なので、硫黄を分離すると水銀になります。水銀の毒性を知っている現代人にとっては不可解なことですが、朱と水銀は不老長寿を標榜する古代中国の神秘医学で最も珍重された鉱物で、金銀に匹敵する経済価値をもっていました。朱と水銀は、古代から室町時代ころまで、日本列島を代表する輸出品だったのです。

 

朱の鉱床は火山活動によって形成されるので、火山列島の日本には多くの朱産地がありました。そのうち、最大の朱の鉱床があったのが奈良県宇陀市桜井市、次いで三重県の伊勢地方です。鉱床の規模では劣るものの、火山の多い九州にはほぼ全県に朱の鉱床があり、奈良、伊勢と並ぶ代表的な朱産地とされています。邪馬台国の所在地をめぐっては、江戸時代以来、奈良説と九州説が拮抗していますが、朱の鉱床の分布において、奈良と伊勢と九州は三大産地の様相を呈しているのです。こうしたデータをふまえて、この本で提示しているのは、邪馬台国の最大のミッションは、朱の輸出だったのではないかという仮説です。

 

筆者である私は以前、読売新聞社の経済部に勤務していたこともあり、縄文時代旧石器時代からの産業史についての本を書いてみたいと思い、データを集めているところです。火山列島としての日本の産業史を考えるうえで、朱と水銀はとても重要な鉱物資源です。この本は、邪馬台国時代から昭和時代に至る「産業史」の一断面としても読んでいただけると思います。

 

 

キャッチコピー ※必須(全角50文字以内) 

朱という鉱物から考える経済史的な邪馬台国


概要 ※必須(書籍の概要を簡潔にご記入下さい)

マルコポーロの「東方見聞録」は黄金の島ジパングの伝説を西欧世界に広め、大航海時代の呼び水になったとも言われています。それより千年ほど前の三世紀に書かれ、日本列島の様相を漢字文化圏にはじめて紹介したのが「魏志倭人伝」。この中国の史書は日本列島を代表する地下資源として、「丹(朱)」をあげているのです。
朱の鉱物としての名称は辰砂。化学組成のうえでは水銀と硫黄の化合物(硫化水銀)なので、硫黄を分離すると水銀になります。水銀の毒性を知っている現代人にとっては不可解なことですが、朱と水銀は不老長寿を標榜する古代中国の神秘医学で最も珍重された鉱物で、金銀に匹敵する経済価値をもっていました。朱と水銀は、古代から室町時代ころまで、日本列島を代表する輸出品だったのです。
朱の鉱床は火山活動によって形成されるので、火山列島の日本には多くの朱産地がありました。そのうち、最大の朱の鉱床があったのが奈良県宇陀市桜井市、次いで三重県の伊勢地方です。鉱床の規模では劣るものの、火山の多い九州にはほぼ全県に朱の鉱床があり、奈良、伊勢と並ぶ代表的な朱産地とされています。邪馬台国の所在地をめぐっては、江戸時代以来、奈良説と九州説が拮抗していますが、朱の鉱床の分布において、奈良と伊勢と九州は三大産地の様相を呈しているのです。こうしたデータをふまえて、この本で提示しているのは、邪馬台国の最大のミッションは、朱の輸出だったのではないかという仮説です。
筆者である私は以前、読売新聞社の経済部に勤務していたこともあり、縄文時代旧石器時代からの産業史についての本を書いてみたいと思い、データを集めているところです。火山列島としての日本の産業史を考えるうえで、朱と水銀はとても重要な鉱物資源です。この本は、邪馬台国時代から昭和時代に至る「産業史」の一断面としても読んでいただけると思います。


出版社/編集者/著者からのメッセージ (書籍に関して、お伝えしたいメッセージを ご記入下さい)

なぜ、邪馬台国論争はいつまでたっても結論が出ないのか。なぜ、天皇家の始祖神を祀る神社が、都から遠い伊勢につくられたのか。なぜ、神武天皇は九州南部から奈良に旅立ったのか。奈良の大仏とお水取りの祭祀には、どのような根源的な意味があるのか。
邪馬台国を「朱の王国」とする仮説を手がかりに、古代史をめぐるこれらの謎に新しい解釈を示しています。

 

 

目次

序章   奈良と九州──太古の火山と朱の鉱床群

失われた朱(あか)い風景

朱と邪馬台国

千五百万年まえの巨大噴火

朱の歴史学の先人たち

世界七位の産出国

〝見えない鉱山〟を探して

金山、マンガン鉱山と朱

 

第一章 邪馬台国──「朱の王国」のはじまり

朱のジパング

ボディペインティングと入れ墨

その山には丹あり

松浦地方の自然水銀鉱山

火山列島の輸出品

丹生地名の証言──波佐見町嬉野市エリア

倭国の副都の朱い墓

伝説の考古学者

朱の文化の発信地

糸島市は朱の交易都市か

「朱の再発見」というシナリオ

ビジネスチャンスの発生

丹生氏のルーツは伊都国か

移動する人たち

ヤマトと邪馬台国の関係

 

第二章 神武天皇神功皇后──古代産業の記憶

鹿児島県から物語がはじまる

姶良カルデラ神武天皇の妻

東征伝説と金山

血原の赤い大地 土蜘蛛との戦い

神武天皇のマジック

水分神社と朱産地の関係

光る井戸の謎

吉野の経済力

朱の女神の支援をうけて

神功皇后邪馬台国観光?

神功皇后卑弥呼」説」

丹生と誕生

宇佐「邪馬台国」説ちらつく神秘医学の影

戦いではなくビジネス

赤い波にのって

 

第三章 前方後円墳と朱のバブル

卑弥呼の古墳?

朱の山のふもとのヤマト

前方後円墳の異常な大きさ

巨大古墳の財政的な裏付け

奈良の経済基盤は?

朱の時代のはじまり

古墳時代は「桜井時代」

赤い糸の伝説

「朱の長者」がいた?

奈良と大分を結ぶ伝承

海の民の古墳

朱砂と三輪素麺

秩父帯と朱の鉱床

滋賀にあった二つの王宮

土蜘蛛とは何者か

大地にひろがる赤い糸

ヤマトタケルの悲劇

邪馬台国(株)の本社はどこだ

朱いマネーの恩恵

 

第四章 奈良時代──「朱の王国」の黄昏

最後の前方後円墳

天智天皇にまつわる謎

天武天皇始皇帝

朱い皇族、息長氏

邪馬台国近江説

朱の年号

東大寺と太古の火山

大仏と水銀──古代のアマルガム技術

お水取りと朱と水銀

龍穴と京都のマンガン地帯

東大寺と不老不死の秘薬

宇佐八幡神と大仏

鯖街道と鯖の経典

鯖江市「邪馬台国」説

伝説うずまくお水取りの道

宇陀の水取一族

白洲正子が歩んだ朱の道

木津川流域にただよう朱の気配

息長氏の寺

天平勝宝四年春、何が起きたのか

十一面観音と朱産地

 

第五章  伊勢──なぜ、そこに国家的な神社があるのか

謎だらけの起源

伊勢神宮は朱の鉱脈に鎮座している

朱座──伊勢商人の前史

伊勢・奈良・丹波

政治都市か、経済都市か

卑弥呼はヤマト姫──内藤湖南邪馬台国

三輪から伊勢へ

丹波の元伊勢

丹後王国と浦島太郎

女神の系譜

なぜ、天照大神天皇家の先祖神なのか

朱の道は縄文時代へとつづく

伊勢は最後の朱産地

大地の歴史と人間の歴史

 

 

 

松田壽男『丹生の研究』──朱の歴史学の先駆けとなった名著

朱・辰砂・水銀ブックリスト①

 

1970年、早稲田大学文学部の教授であった松田壽男氏の『丹生の研究―歴史地理学から見た日本の水銀』(早稲田大学出版部)が刊行されたことによって、日本の歴史に朱(辰砂)・水銀が深くかかわっていることが知られるようになりました。松田氏の専門は東洋史です。古代中国で朱・水銀が珍重された史実を熟知していたことが、日本列島の朱産地に目を向けた理由であるようです。

 

朱と水銀の古代史

『丹生の研究』は、邪馬台国ヤマト王権の歴史を直接のテーマとはしていませんが、いくつかの言及があります。拙著の文春新書『邪馬台国は「朱の王国」だった』で紹介できなかった文面もふくめて、いくつかあげてみます。

邪馬台国の時代にすでに朱の採掘が盛んであったことについては、

日本の朱砂は古くからシナ人の異常な関心をひいたらしく、そのために魏志倭人伝にははやくも倭における丹の産が特筆されている。

『丹生の研究』P47

魏志倭人伝に明らかなように、その朱産は外国人を刮目させるほどであった。

『丹生の研究』P25

と述べています。

神武天皇については、神武天皇の伝説の舞台が奈良の朱産地と重なっていることを述べるくだりで、

この事実が、日本の太古代史に結びつかないとは、誰がいいきれるであろうか。

『丹生の研究』P11

と、重要な問題提起がなされています。

神功皇后については、以下のような記述があります。

神功皇后の伝説にはふしぎなほど朱砂がまとわりついている。それらは、おそらく息長族が朱砂の採取や処理に特技をもつ一族であり、それが国内の朱砂資源の開発にとって、かなり大きな働きをしたことを反映しているのではあるまいか。

『丹生の研究』P282

古事記日本書紀にある神武天皇神功皇后の伝説には、水銀ガスの猛毒の知識がみえることも、『丹生の研究』で詳述されています。

 

 なぜ、日本史学界で評価されなかったのか

神武天皇神功皇后の伝説と朱・水銀の歴史をむすびつけた『丹生の研究』は、かつてない斬新な視点であったとおもうのですが、古代史学界で正面切って議論された形跡はありません。なぜでしょうか。

 

神武天皇は船によって、生まれ育った九州の日向国を出立、いくつかの戦いを経て、奈良に入り、初代の天皇になります。神功皇后は夫である仲哀天皇の死後、全軍を統率し、朝鮮半島に出兵、みごとに勝利しています。

戦前、戦中期の教科書ではこうした記述を史実として記載していましたが、戦後の歴史学を方向づけた津田左右吉氏、直木孝次郎氏など有力な学者は、神武天皇神功皇后を実在の人物とは認めていません。そして、記紀の物語の多くを史実ではなくフィクションとしています。それが戦後の歴史学の定説となっています。

 

つまり、『丹生の研究』が刊行された一九七〇年代、学界の議論においては、神武天皇神功皇后を前向きにとりあげること自体が不見識であり、戦前・戦中期に逆行するような反動的な行為とみなされた可能性があります。

 

松田氏が述べていることは、神武天皇神功皇后の伝説には、朱・水銀とのかかわりが濃厚に見えるということであって、その実在性をうんぬんしているのではないのですが、七〇年代当時の進歩的(左翼的?)な歴史学者にとっては、神武天皇神功皇后の実在説を側面支援するような研究にみえたのかもしれません。

 

日本史学界からあまり相手にされなかった原因のひとつは、松田氏は古代中国を中心とする東洋学の研究者であったことにあるようにもみえます。しだいに分業の傾向がつよくなる歴史学界において、中国史の研究者が、日本古代史に言及することは一種の領海侵犯だったのでしょうか。

 

最も大きな理由は、日本列島における朱・水銀の営みが、十分に〝歴史化〟されていなかったことではないか。私がそう考える根拠は、1970年の時点において、朱の商業的な採掘がおこなわれていたことです。 

金銀の歴史の重要さは明らかですが、歴史学、考古学としての研究の歴史は浅く、その全貌が明らかになっているわけではありません。鹿児島県の菱刈金山では現在も採掘がつづいており、新しい鉱床の発見をめざす探査もつづいています。

日本列島に存在した石炭資源が、明治時代以降の近代産業に大きく貢献したことは知られていますが、その歴史については必ずしも熱心に研究されているとはいえないと思います。

石炭、金、朱・水銀。こうした近現代まで採掘がなされた鉱物は、歴史学の研究対象としては、時代が近すぎるのだと思います。

朱の商業的な採掘が終わって、ほぼ半世紀。もしかすると、本格的な研究がはじまるのは、これからなのかもしれません。

 

おそるべきフィールドワーカー

戦前の松田氏は東洋史の研究者として、中国やシルクロードのある西域を歩きまわっていたようですが、戦後、共産党政権が中国を支配したあと、フィールドワークがまったくできなくなってしまったといいます。

東洋史の研究者が、古代日本における朱・水銀の歴史に没入したのは、古代中国において、朱・水銀がとほうもない価値をもっていたことをよく知っていたからです。朱・水銀によって、古代中国と日本列島はむすびついており、それを実証的に明らかにした作業が『丹生の研究』であるともいえます。

 

『丹生の研究』には、朱産地として有名な奈良、九州だけでなく、瀬戸内エリア、日本海エリア、東日本などもふくめて、「丹生」という地名を手がかりに古代の朱産地を探査しています。

松田氏の研究によってはじめて、丹生という古代からの地名および人名が、朱・水銀とふかい関係をもつことが実証されました。

 

この本は大ぶりのB5判(週刊ジャンプのサイズ)で400ページを超す大著です。

拙著である文春新書『邪馬台国は「朱の王国」だった』を読んでいただき、朱の歴史に興味をもたれたなら、ぜひ、『丹生の研究』に目を通していただきたいと思います。

 

ただ、残念ながら、この本は発行部数がすくない学術書なので、各県の県立図書館くらいにしかないようで、古書市場では高価です。松田氏の研究のエッセンスを知るには、ちくま学芸文庫に入っていた『古代の朱』が最適です。こちらは『丹生の研究』と比較すると、ずっとアクセスしやすい本です。

 

古代の朱 (ちくま学芸文庫)

古代の朱 (ちくま学芸文庫)

 

  

『古代の朱』の冒頭で松田氏はこう述べています。

 

だいたい『丹生の研究』は、日本として、いや世界としても、水銀を人文科学の対象として取扱った最初の書物だ。文庫版P8

 

朱の歴史学は、日本でこそなされるべき研究テーマであるという自負がうかがえる一文です。

 

『古代の朱』には、日本各地の丹生地名、すなわち古代の朱産地の候補地が一覧表とされています。このリストだけでものすごい情報量で、いろいろなことを考えさせられます。このほとんどの地点を実地調査しているのですから、頭が下がります。

 

邪馬台国は「朱の王国」だった』に転載したかったのですが、スペースのかねあいで出来ませんでしたので、このブログに挙げておきます。合併などで変更になっている地点もありますが、『古代の朱』のままで引用しています。

 

1 山形県尾花沢市丹生

2 福島県伊達郡梁川町舟生(丹生)  

3 茨城県那珂郡山方町舟生(丹生)

4 栃木県塩谷郡塩谷町船生(丹生)

5 群馬県富岡市丹生(上丹生、下丹生)

6 群馬県多野郡鬼石町浄法寺字丹生

7 千葉県安房郡富浦町丹生

8 長野県大町市丹生ノ子

9 岐阜県大野郡丹生川村(大丹生岳、大丹生池、小丹生池などがある)

10 三重県員弁郡丹生川村

11 三重県一志郡多気村丹生俣

12 三重県多気郡勢和村丹生

13 和歌山県日高郡竜神村上山路字丹生ノ川

14 和歌山県日高郡印南町丹生

15 和歌山県日高郡川辺町和佐(旧称は丹生村)

16 和歌山県有田郡金屋町丹生

17 和歌山県有田郡吉備町丹生図(東丹生図、西丹生図) 

18 和歌山県那珂郡粉河町丹生谷(上丹生谷、下丹生谷)

19 和歌山県伊都郡九度山町入郷

20 和歌山県伊都郡九度山丹生川

21 奈良県吉野郡下市町丹生

22 奈良県宇陀郡菟田野町入谷(もとは丹生谷と書いた)

23 奈良県高市郡高取町丹生谷

24 奈良県御所市関屋字丹生谷

25 奈良市(旧柳生村)丹生町

26 滋賀県坂田郡米原町上丹生および下丹生

27 滋賀県伊香郡余呉村上丹生および下丹生(もとは丹生村と称した)

28 福井市(もとの丹生郡国見村)大丹生、小丹生

29 福井県武生市丹生郷町

30 福井県小浜市太良ノ庄字丹生

31 福井県三方郡美浜町丹生

32 京都府舞鶴市大丹生および浦丹生

33 京都府竹野郡網野町郷字丹生土

34 兵庫県城崎郡香住町丹生地

35 兵庫県城崎郡香住町丹生(旧称)

36 神戸市兵庫区山田町丹生山

37 岡山県井原市丹生

38 香川県大川郡大内町町田(旧称は丹生)

39 高知県安芸市入河内(古称は丹生)

40 佐賀県藤津郡嬉野町丹生川

41 熊本県下益城郡城南町丹生宮

42 大分県大分郡野津原町練ヶ迫字丹生山

43 大分市坂ノ市町(もと丹生と称した)

44 大分県臼杵市丹生島

45 鹿児島県姶良郡溝辺町丹生附

 

 

孫栄健『決定版 邪馬台国の全解決』──〝司馬氏史観〟で読み解く試み魏志倭人伝

邪馬台国ブックリスト③

 

文春新書『邪馬台国は「朱の王国」だった』を書くにあたって、邪馬台国かんけいの本を、旧作、新作とりまぜて可能なかぎり目を通しました。そのなかで最もインパクトのある本だとおもったのが、孫栄健氏の『決定版 邪馬台国の全解決』です。

もっとも、『邪馬台国は「朱の王国」だった』のなかで引用・参照したわけではなく、巻末の参考文献にもあげていません。私は邪馬台国の研究者でも専門家でもないので、孫栄健氏の結論そのものを論評する資格はないのですが、この著者の知的バックグラウンドや論述の方法論にすごく興味をもちました。

 

 

決定版 邪馬台国の全解決

決定版 邪馬台国の全解決

 

 

邪馬台国本の王道

著者の孫栄健氏は1946年生まれ、大阪市在住のプロの物書き。中国系のお名前ですが、巻末の略歴をみるかぎり、日本語で書いている人のようです。著作一覧には中国かんけいの著作のほか、『Windows基本の基本』『一夜づけのOutlook』(いずれも明日香出版社)などパソコン関係の本や経済書もあるので、ITにも強いライターという感じなのでしょうか。

詩人、作家の肩書きもあります。

 

孫栄健氏は古代中国の史書について、日本人の大学教授顔負けの知識をもっている──かどうか、無学な私には判断するだけの能力がないのですが、すくなくとも、そうした前提でこの本の論述は進められています。

 

著者は、「魏志倭人伝」をおよびそれに関連する史書を徹底的に掘り下げて、ひとつの結論に達しています。

近年の邪馬台国本の多くは、考古学の成果をご都合主義で引用して、持論を展開するような傾向があります。

これに対し、孫栄健氏の論述は、潔いほどに、中国語文献の世界のなかで完結しています。正確にいえば、ほぼ完結しています。

 

邪馬台国」という国は、「三国志」の魏志倭人伝、「後漢書」「隋書」をはじめとする中国語の文献に記録されているだけなのですから、『決定版 邪馬台国の全解決』は、邪馬台国本の王道を歩んでいるといえます。

 

諸葛孔明のライバル司馬懿

このブログのタイトルにかかげているとおり、孫栄健氏の邪馬台国論のベースにあるのは〝司馬氏史観〟です。

この司馬氏とは、司馬遼太郎氏のことでも、司馬遼太郎氏があやかろうとした「史記」の著者である司馬遷のことでもなく、魏の将軍・政治家である司馬懿の一族です。司馬一族をクローズアップすることで、「魏志倭人伝」はこれまでとまったく異なる容貌をもって立ち現れてくるのです。

その物語を信じるかどうかは別として、そこに至る論証はなかなかスリリングです。

 

司馬懿というより、司馬仲達という方が、日本語文化圏では有名かもしれません。

死せる孔明、生きる仲達を走らす──。

諸葛孔明のライバルの仲達が、司馬懿のことです。諸葛孔明諸葛亮)、司馬仲達(司馬懿)というと、軍師という言葉が連想されますが、現実には軍事にもたけた政治家というべき存在です。

 

どうして、諸葛孔明のライバルが邪馬台国にかかわってくるかが問題です。

三世紀前半の東アジア世界は、大帝国であった後漢が滅亡し、魏呉蜀の三国が競う、混沌とした時代でした。

朝鮮半島は、後漢のもとで当地に勢力をもっていた公孫氏という一族による半独立国家のようになっていましたが、司馬懿の率いる魏の軍勢が朝鮮半島に赴き、制圧します。その結果、公孫氏の支配は消滅し、朝鮮半島の実効支配者は魏となります。

三世紀前半の景初二年(別の文献では景初三年)に、卑弥呼の使者が朝鮮半島にある魏の出先機関に赴いたという「魏志倭人伝」の記事は、ちょうどこのころのことです。

 

その後、司馬懿は宮廷クーデターを成功させることなどを通して、政権の実質的なトップとなり、多少のアップダウンはあっても、その大権は息子の司馬昭に継承され、司馬懿の孫の司馬炎は、魏の皇帝からの禅定という形式をとり、晋の初代皇帝として即位します。この人が高校の歴史教科書にも出ている晋の武帝で、およそ百年ぶりに中国の統一を実現しました。

晋の初代皇帝は、朝鮮半島を制圧した司馬懿の孫にあたる──というところがポイントです。

 

教科書的には、魏と晋は別の国ですが、『決定版 邪馬台国の全解決』の孫栄健氏が強調しているのは、晋という国は、魏の官僚組織、軍隊をそのまま受けつぐ形で建国されたという事実です。もしかすると、皇帝の王宮も譲り受けたのかもしれません。

株式会社にたとえれば、側近の重役がオーナー家を追放して新社長に就任し、社名だけ変更して、営業をつづけるようなものでしょうか。

 

魏という国は、三国志の物語や「魏志倭人伝」をとおして、日本人にもなじみが深いので、立派な国であったような先入観をもちがちですが、220年から265年まで、45年ほどの短命国家で、その後半は、司馬氏が実質的な支配者となり、その流れで司馬炎による晋の建国に至るということに、孫栄健氏は注目しているのです。

 

魏志倭人伝」をふくむ「三国志」という史書の著者である陳寿は、晋の司馬炎につかえる官僚でした。

晋の建国に至る歴史の起点は、司馬懿にあり、朝鮮半島を制圧し、倭国をてなずけたことはその記念すべき業績のひとつである。

倭国かんれんの資料は、司馬懿の配下によって保存され、「魏志倭人伝」の著者である陳寿の手元にもたらされた。

司馬一族に対する〝忖度〟を抜きに、「魏志倭人伝」を読むことはできないという論点が、『決定版 邪馬台国の全解決』のヘソとなっています。

 

ひと昔まえの邪馬台国研究者のなかには、陳寿の能力および人間性を非常に高く評価し、記述のすべては真実に触れているとして、あれこれ新解釈を提起する傾向もありましたが、孫栄健氏は陳寿をたとえて、

言論弾圧独裁国家での新聞記者

と言っています。

真実を知ってはいても、それをそのまま書くことは許されない。

しかし、真実を伝えたいという歴史家としての誇りはある。

ぎりぎりのバランスのなかで、倭国についての文章は書かれた。

だから、私たち現代人が真実を読みとるには、陳寿による〝忖度〟の実相を明るみにするしかない。孫栄健氏の「魏志倭人伝」解読の方法論はそのことにつきています。

 

 

衝撃のエピローグ

魏志倭人伝」の解読に、「司馬氏」という変数を加えることで、従来、難解とされていた疑問点のいくつかが、すらすらと解き明かされ、思わぬ回答が示されます。

その結論に納得するかどうかは別に、その手際はあざやかで拍手喝采です。

この本は学術論文のスタイルはとっておらず、著者ご本人がおっしゃられているように、「探偵小説」のように楽しく読める作品です。

 

したがって、「探偵小説」における事件の解決に相当する邪馬台国の場所や卑弥呼の墓の所在地はここで書かないのがルールだと思います。

気になる方は、このブログを予告編として、ぜひ、本編を読んでいただきたいと思います。

 

しかし、この本がよく出来た邪馬台国本という範疇を超えているのは、邪馬台国の場所を名指しし、一件落着となったあと、衝撃のエピローグが展開されているからです。

 

魏志倭人伝」の記すところによると、卑弥呼は王宮にこもって祭祀にあたり、政治の実務は弟がとっていたといいます。

孫栄健氏は、この弟が卑弥呼を殺害し、王位に就いたという新説を提唱しているのです。そして、その黒幕は司馬懿

魏志倭人伝」には、即位した男王に倭国の人々は従わず、混乱は戦闘状態に至り、千人が殺害されたと記されています。

 

この新説だけでも驚愕ですが、孫栄健氏はさらにスケールの大きな新説を加えています。

この邪馬台国における姉と弟の闘争が、古事記などに記されているアマテラスの岩戸隠れの神話の元ネタとなった歴史的な事件であったというのです。

 

岩戸隠れの神話とは、傍若無人のふるまいをする弟のスサノオに怒った姉のアマテラスが、岩の穴にひきこもってしまったため、世界は光を失い、たいへんな混乱状態に陥るという話です。神々の必死のはたらきかけによって、アマテラスが岩穴から出て、世界は光をとりもどし、スサノオは神々の世界から追放されます。

 

孫栄健氏は、「魏志倭人伝」と「古事記」を以下のように結び付けます。

  • アマテラスが岩穴に隠れることは、卑弥呼の死と埋葬をあらわす。
  • 傍若無人スサノオは、卑弥呼の弟による圧政をあらわす。
  • 「常夜」と記されている永遠につづく夜は、卑弥呼亡き後の倭国の混乱をあらわす。
  • アマテラスの復活とは、13歳の少女、台与が卑弥呼の後継者として擁立された史実を神話化したもの。

 

私が以前、執筆した文春新書『火山で読み解く古事記の謎』では、アマテラスの岩戸隠れを、超巨大な火山噴火によって、太陽が輝きを失う「火山の冬」とよばれる現象とむすびつける説を紹介しました。

 岩戸隠れには、弱った太陽の光の復活を祈る「冬至の祭」説、「日食」説などの解釈があることも知られています。

 

しかし、卑弥呼とその弟による悲劇的な闘争が、元ネタになっているという解釈は初耳です。

この新説も面白いですが、こうした解釈を誘発する古事記神話のふところの深さに改めて畏敬の念をいだいてしまいました。

 

 

このタイトルを見て、手を伸ばす古事記ファンはいないと思いますが、この本は古事記ファンにこそ読んでいただきたい本です。

私がこのブログで紹介記事を書いてみたいと思ったのも、じつは、古事記と「魏志倭人伝」をリンクさせた番外編的な部分がすごく面白いとおもったからです。

 

邪馬台国の全解決』は、〝司馬氏史観〟という切り札によって、みごと、難事件を解決したかに見えながら、その結論は、古事記神話とむすびつくことによって、新たな謎を提起することとなりました。

古い謎は新しい謎を招き、歴史の闇はさらに濃くなったと言うしかありません。

 

司馬遷『史記』──不老長寿の神仙幻想と日本列島

邪馬台国ブックリスト②

 

日本列島に朱・水銀の豊かな鉱床がある──。その情報が、中国文化圏にもたらされたのは、いつごろのことなのでしょうか。

文献のうえでは、三世紀後半に書かれた「魏志倭人伝」における「その山には丹あり」という記述が最初の事例ですが、当然ながら、情報の伝来はそれをさかのぼることになります。「朱の王国」としての邪馬台国をかんがえるとき、司馬遷の「史記」にしるされた徐福についての記述は無視できないのですが、あまりにのぼんやりとした情報で、年代も邪馬台国時代からは六百年ほど隔たっているので、文春新書『邪馬台国は「朱の王国」だった』では、軽く触れただけでした。

というわけで、今回は邪馬台国かんれん本として「史記」をとりあげてみます。

 

後漢書」のなかの徐福

中国の歴代政権が作成した史書のいくつかには日本列島についての記述があって、「魏志」のなかの「倭人伝」に邪馬台国についての記述があることはおなじみの事実です。後漢が滅亡して、魏呉蜀の三国時代がはじまるので、順番としては逆になりますが、「魏志」が書かれたあと、「後漢書」が作成されています。

 

後漢書」の日本列島について記述は、「魏志倭人伝」の丸写しに近いもので、邪馬台国卑弥呼について私たちがよく知る内容が書かれていますが、いくつか重要な相違点があり、そのひとつは、司馬遷の「史記」にある徐福の話の概要を掲載していることです。「史記」の淮南衝山列伝にある記事です。

 

史記」では、徐福が赴いた島を倭(日本列島)と明示していませんが、「後漢書」は倭の項目の、邪馬台国卑弥呼のくだりの直後に、徐福の記事を載せています。徐福が発見し、その後、定住した島国は日本列島であることをほぼ断定しているわけです。

 

史記」の淮南衝山列伝をもとに概要を紹介してみます。私には古代中国の文献を読む能力などありませんから、日本語訳をコンパクトにしただけです。

 

秦の始皇帝は、不老不死の薬を探させるため、徐福を海の彼方に向かわせた。徐福はそのありかである蓬莱山を知る神と出会ったものの、神はその場所を見せても良いと言ったが、持ちかえることは許さなかった。

徐福は、何を献上すれば、不老不死の薬を持ちかえることが許されるのか尋ねた。その神は、良家の男子、女子、さまざまな職人(原文では「百工」)を献上すれば、望みの物は得られるであろうと答えた。

これを聞いた始皇帝は喜び、三千人の童男、童女に五穀の種、さまざまな職人を添えて、徐福を再び派遣した。ところが、徐福は彼の地にとどまり王と称し、戻ってくることはなかった。

 

不老長寿のメソッドを柱とする神仙思想は道教とむすびつき、中国の精神文化においてひとつの潮流をつくっていますが、神仙の術を方術といい、それを行う人を方士といいました。「後漢書」の倭のくだりでは、徐福の肩書きを「方士」としています。かねてより指摘されているように、徐福伝説は不老不死を夢見た古代中国の神秘医学の世界と重なり合っています。 

 

不老長寿の効能をかかげる仙薬をつくるとき、最も重要な素材として珍重されたのが朱、水銀でした。水銀の有害性を知る現代人には信じがたいことですが、『神農本草稀経』『抱朴子』など古代医学のテキストをみると、神秘的な医学において、水銀や朱がいかに重視されていたかは明らかです。

史記」のなかの徐福には、朱や水銀とのかかわりが見えます。

 

史記」は中国の史書の元祖的な存在であり、その基調はリアリズムであるはずですが、徐福の話は真偽不詳の伝説めいた気配が濃厚です。しかし、司馬遷が荒唐無稽の伝説に価値をみいだしていたとは思えませんから、史実的要素の強い伝承であるのではないでしょうか。

そう考えてみると、ここに登場する「神」が、始皇帝の使者、徐福に交換条件として要求した「さまざまな職人(百工)」が、非常に奇妙なものに見えてきます。

 

異国からの使者に「職人」の派遣を要求する「神」などいるものでしょうか。

始皇帝の生きた時代は紀元前三世紀は、日本列島でいえば弥生時代ですが、徐福に「百工」を要求した「神」を、そのころの日本列島の有力者というくらいに解釈することで、この伝承は現実の歴史との接点をもちうるはずです。

 

不老不死の効能(もちろん、そんなものは無かったのですが)のある水銀や朱を採掘することと引き替えに、中国の先進的な技術を求める<等価交換>と解釈することもできるとおもうのです。一種の貿易行為であるともいえます。

 

じつは、前回紹介した「佐世保邪馬台国説」の『真説邪馬台国』(恋塚春雄)は、徐福伝説と日本列島の水銀鉱床とのかかわりを論じています。徐福伝説と朱・水銀の関係をとりあげた最初の論考かどうかは未確認ですが、この点においても、『真説邪馬台国』にはユニークな古代史本であったといえます。

 

 

永遠に流動する水銀の川

史記」秦始皇本紀には、始皇帝についてのこんな一文があります。

 

始皇日く、「吾、真人を慕ふ。自ら真人と謂ひて、朕と称せざらん」と。

 

世界の真理をきわめ、不老不死を達成した「真人」すなわち仙人への願望のあまり、始皇帝は帝王の一人称である「朕」をやめて、自分のことを「真人」と呼ぶと宣言しているのです。

はじめて、中国世界を統一し、比類無き帝国を築いた始皇帝ですが、しょせんは生身の人間、やがては老い、死の恐怖におびえることになります。「史記」秦始皇本紀は、こう述べています。

 

始皇、死をいうことをにくむ。群臣、あえて死のことをいう者なし。

 

 「死」をにくんだところで、それを避けることは不可能です。始皇帝は亡くなり、世界でも屈指の巨大な墳墓に埋葬されました。有名な始皇帝陵です。

墓には機械仕掛けの弓矢があり、埋葬空間に近づこうとする者を射殺すようになっていたと書かれています。

史記」によると、始皇帝の埋葬空間には、水銀の流れる川があり、それは水銀の海にそそいでいました。こちらも機械仕掛けによって、水銀の川は、永遠に流れ続けるようにつくられているというのです。原文の読み下しを引いてみます。

 

水銀を以て百川、江河、大海をつくり、機もて相灌輸す

 

永遠に流れつづける水銀の川が、<永遠の生命>をシンボライズしていることは言うまでもありません。始皇帝陵は、共産党政権となった現代においても、未発掘で内部状況を知るよしもありません。水銀の川がどうなっているのかも、いまだ謎につつまれています。

 

日本各地の徐福伝説

徐福伝説は日本各地にのこっていますが、日本人が「史記」を読み出したあと、付会された伝説なのか、それとも史実として徐福にかかわる一団の居住地だったのか、判断するのは難しいことです。

有名な伝承地は、佐賀県長崎県、鹿児島県、そして、熊野地方の中心都市である和歌山県新宮市といったところです。

 

朱・水銀の分布のうえでは、佐賀県長崎県は「九州西部鉱床群」、鹿児島県は「九州南部鉱床群」と命名されている代表的な産地です。

熊野地方は、神武天皇の東征伝説で、船によって九州から移動してきた軍団の上陸ポイント、つまり、奈良に至る進軍ルートの起点です。

これをとらえて、「徐福=神武天皇」という説で本を書いている中国人の学者もいますが、別の話になってしまうので、本日はこのあたりで終わりとさせていただきます。