「豊臣秀吉・中国人説」が、朝鮮王朝の高官の著作『懲毖録』に出ている
韓国KBS1で2015年に放送された大河ドラマ『懲毖録』。主演キム・サンジュン(柳成竜の役)。
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豊臣秀吉はもともと中国人なのだが、日本に渡ったあと、破格の出世をとげて、国の支配者となった──という当時の風説が、朝鮮王朝の高官による著作『懲毖録』に書きのこされています。
柳成竜の『懲毖録』
『懲毖録』(ちょうひろく)の著者は、李氏朝鮮の中央政府で大臣クラスの政治家だった柳成竜です。
豊臣秀吉による朝鮮半島・大陸への侵攻(文禄・慶長の役/壬辰倭乱)の前後の期間について、朝鮮王朝の政治に携わる当事者としての視点から詳細で克明な記録がなされています。
柳成竜が政界を離れて隠居したあと、日本からの安易な侵攻を許してしまったことを反省し、後世への教訓をのこす目的で執筆したといわれています。
柳成竜は、豊臣秀吉の来歴についてのくだりで、その正体が中国人だという説があると述べているのです。
秀吉については、[いろいろな取り沙汰があり]、ある者は、「[彼はもともと]中国人で、倭国に流れこんで薪を売って生計をたてていた。ある日、国王(注①)が外出中に[たまたま]道ばたで出会い、その人となりの尋常でないのを見て[配下の]軍列に加えた。
勇敢で、力があり、戦上手であったので、[たちまち]功績をあげて大官に出世し、権力も握るようになって、ついに源氏(注②)[の政権]を奪ってこれに代わったのだ」と言い、またある者は、「源氏が、ある人(注③)に殺され、秀吉がまたその人(注④)を殺して国を奪ったのだ」とも言う。
[秀吉は]兵力を用いて諸島を平定し、域内の六十六州を一つに統合するや、今度は、外国を侵略しようという野望を抱いた。
注① 国王が秀吉を道ばたで見つけて云々という話の「国王」は、織田信長らしい。
注② 源氏とは、将軍足利氏のこと。織田信長についての情報と秀吉の情報が混線している。
注③ 「ある人」は信長ということになるが、最後の足利将軍・義昭を殺してはいない。
注④ 秀吉が信長を殺した話になってしまっている。
李氏朝鮮の高官は誰でもそうなのでしょうが、柳成竜は儒学的教養をもったたいへんな知識人で、すぐれた洞察力をもっていたことは『懲毖録』の行間からも伝わってきます。
しかし、織田信長の台頭から、豊臣秀吉の覇権に至る日本の政治状況の推移については、あいまいで不正確な情報しか持っていなかったようです。
隣国とはいうものの、海峡に隔てられて、情報が行き来していなかったことがわかります。
秀吉のビジュアルイメージについての興味深い記述
『懲毖録』には、日本に赴いて豊臣秀吉に面会した李氏朝鮮の使者の証言も記録されています。
秀吉は、容貌は小さく陋(いや)しげで、顔色は黒っぽく、とくにかわった様子はないが、ただ眼光がいささか閃(きらめ)いて人を射るようであったと言う。(同二〇ページ)
秀吉はこの面談の途中、席を離れると、幼少のわが子(鶴松)を抱いて平服姿で出てきて、朝鮮の楽師に音楽を演奏させ、鶴松に聞かせています。
すると、抱かれていた鶴松がオシッコをおもらしして、秀吉の衣服を濡らしてしまったので、秀吉は笑いながら侍者を呼び、朝鮮の使者たちの面前で着替えたというのです。
大河ドラマではおなじみのシーンですが、ネタ元はこの本だとわかります。
日本人どうしの席なら、いかにも秀吉らしい大らかなふるまいだという笑い話になるのでしょうが、朝鮮王朝からの公式の使者との会見の場なのですから、これは問題行動です。
『懲毖録』のなかで、
[その行動たるや]すべてまことに手前勝手で、傍らに人無きがごとくであった。
と糾弾されるのも仕方のないことです。
秀吉の容貌については、李氏朝鮮の記録『宣祖修正実録』の記述が、翻訳者による注釈として示されています。
上問う、秀吉は何の状ぞと。允吉言う、「その目光燦々、これ胆智の人に似たり」と。
誠一曰く、「その目は鼠の如く、畏るるに足らざるなり」と。
黄允吉、金誠一の二人は李氏朝鮮の政府が派遣した使者ですが、当時の朝鮮政府には二つの派閥があって、二人の使者はそれぞれの派閥から選ばれています。
そのせいで、報告のトーンも微妙に違っています。
『懲毖録』の著者柳成竜は儒臣(文官)ですが、軍事部門の統括者のようなポジションにつき、あの李舜臣を抜擢します。同郷で幼少のころからよく知っていたようです。
朝鮮水軍の将軍としての活躍は日本でも有名です。
柳成竜がテレビの歴史ドラマの主人公になっているのは、李舜臣との関係が深かったからだろうと想像します。
韓国ドラマにはまったく疎いのですが、柳成竜を演じているキム・サンジュンさんはけっこう有名な俳優のようです。
(つづく)
翻訳者の朴鐘鳴さんは、同じく文禄・慶長の役の時代の貴重な記録『看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記』の翻訳もしており、『滋賀のなかの朝鮮』などの著作もあります。
出身は朝鮮半島ですが、戦前、戦中、戦後を日本で暮らしており、日本と朝鮮の双方に視点をもつことのできる貴重な「時代の証言者」です。
下のリンクで、朴鐘鳴さんのインタビュー動画を見ることができます。誠実なお人柄がしのばれる語り口です。
前田晴人教授の「桃太郎=豊臣秀吉」説について考える
これは愛知県犬山市の桃太郎神社。サルが家来というのも気になる。
「桃太郎」の物語は、細川幽斎が、豊臣秀吉の政治構想と業績を顕彰するために創作した近世神話である──。
大阪経済大学で歴史学の教授をなさっていた前田晴人氏は、『桃太郎と太閤さん』(二〇一二年刊)という著書で、こんな説を披露しています。
薩摩の島津氏は鬼なのか
前回のエントリーでとりあげた岡山県の古代山城「鬼ノ城」は、桃太郎伝説の舞台という説もあるので、今回は『桃太郎と太閤さん』について考えてみます。
著者の前田教授(現在は退職し同大客員教授)は『日本古代の道と衢』などの学術書によって知られる古代史家です。
ご自身でも言っておられるように豊臣秀吉の活躍した戦国期はもとより、桃太郎研究は専門外ですから、この本は余技ということになるのでしょうが、なかなか力のこもった論考です。
秀吉の晩年の居城であり、死に場所ともなった伏見城は、現在の住所表記では、京都市伏見区桃山町であるので、地名によって「桃山城」とも呼ばれます。
秀吉の統治期を「桃山時代」というのも同じ理由です。
「桃太郎=豊臣秀吉」説は、桃山と桃太郎の一致をひとつの根拠としているので、ダジャレ学説のようですが、そうとばかりは言えない深みがあります。
当ブログのテーマにもかかわるところがあるので、ポイントを紹介してみます。
「鬼」とは、中央の政治権力に従うことを拒む「まつろわぬ人」であるという議論が、かねてより民俗学系の研究者によりなされています。
これを豊臣秀吉の時代に当てはめると、天皇の権威をバックにした関白秀吉の意向に従わない地方勢力──具体的には薩摩の島津氏が「鬼」、秀吉は鬼退治に向かう桃太郎であるという構図になると前田教授は言っています。
すなわち「桃太郎」は、秀吉の九州遠征を題材として構想されたというのです。
秀吉の九州出兵は、大分県を領国としていた大友宗麟からの支援要請にこたえた形をとっています。
天正一四年七月十二日付の秀吉から大友氏への書状は、薩摩討伐の決定を告げるものですが、そこに
「この上は征伐、加えらるべく候」
「逆徒退治、程あるべからず候」
という文言があります。
ここに、桃太郎の鬼退治へと神話化されるモチーフを見いだせると前田教授は述べています。
桃太郎の作者(?)細川幽斎は当代随一のインテリ武将
細川幽斎は和漢の書籍に通じ、和歌、連歌の才にも恵まれた当代随一の文人として有名な武将です。
豊臣秀吉の九州遠征のときは、すでに隠居して、息子の細川忠興に家督を譲っていたので、戦闘には加わっていませんが、陣中見舞いをすべく九州に赴いています。
秀吉の連歌、茶の湯の相手をつとめているようすが、『九州道の記』という紀行文に記録されています。なぜか、戦についてはまったく書かれていません。
細川幽斎は当時の歌壇の指導者だったので、薩摩の領主島津義久とは和歌をとおして交流があったそうです。
そのため、九州遠征の戦前、戦後において、秀吉と島津の交渉の仲介役になっていることを前田氏は強調しています。
秀吉の九州政策において、幽斎は当事者であったということです。
細川幽斎の先祖は伏見城と同じ場所に城を築いていた?
細川幽斎は、織田信長の家臣であったころ、山城国長岡(現在の京都府長岡京市、向日市エリア)の領地を得て、長岡藤孝を称していました。
桓武天皇が平安京のまえに短期間、都を置いていた長岡京のあるところです。桓武天皇がこの地への遷都を模索したのは、母方の祖母にあたる大枝(大江)氏の拠点地だったからという有力な説があります。
長岡京は京都では有数の古墳エリアで、大枝(大江)に改姓した土師氏の居住地でした。この一族が桓武天皇の母方です。
「幻の都」という言葉につられて長岡京跡に行ったことがあるのですが、ほんとうになにもない。
細川幽斎はもともと三淵氏の生まれで、養子に入って細川家を継いだとされています。
この本を読むまで知らなかったのですが、幽斎の実家の三淵氏はもともと伏見を拠点とする一族であった可能性があるそうです。
伏見と長岡とは隣接地です。現在の地図をみても、長岡京市は京都市伏見区と接しています。
細川幽斎は、伏見、長岡というこのエリアに地縁をもっていた人らしいのです。
『桃太郎と太閤さん』における論証の山場は、幽斎の先祖の三淵氏が、秀吉の伏見城(桃山城)があった同じ場所に小さな城を築いていたのではないかという主張です。
江戸時代に書かれた京都の名所旧跡ガイド『山州名跡志』の伏見故城の項にある
「ここに初め小城あり。水淵大和守、築くところなり」
という記述が引かれています。
幽斎の実家の三淵氏は水淵氏と表記されることもあるので、これは幽斎の先祖について述べているのではというのです。
もし、この論証が正しければ、細川幽斎が「桃太郎=豊臣秀吉」の物語を構想するモチベーションは、自らのルーツにかかわっていることになります。
伏見城跡に桃を植えたのは誰だ
ここで問題になるのが伏見の桃山、すなわち秀吉の最後の居城・伏見城のあった桃山です。
桃山という地名については、ひとつの謎があります。
秀吉が生きていたころの伏見城には、桃の木などなかったというのです。
江戸時代初頭のいつのころか、誰かによって桃が植樹され、桃林となったことから「桃山」という地名が生じました。
前田教授は、上に述べたような地理的な状況証拠によって、伏見城の跡地に桃を植えた<犯人>が細川幽斎であることをうっすらと示唆しています。
「桃山」の主である秀吉が「桃太郎」ということになります。
これも、この本を読むまで知らなかったことですが、「桃太郎」は鎌倉時代、室町時代に形成されたいわゆる「伽草子」ではないそうです。
成立の時期がずっと新しく、江戸時代のはじめころ。つまり、細川幽斎の時代と重なるのです。
前田教授はこう結論づけています。
「彼は秀吉を「桃太郎」という名の聖なる英雄として描き、永遠に彼の事績をこの話のなかに閉じ込めようと策したのではないだろうか。
これ以上はあり得ないという短編の物語のなかに、極限の形で秀吉の生涯と偉業が抽象化されていると考えるのである」
前田氏の主張する「桃太郎=秀吉」説に全面的に賛成するつもりはないのですが、この説には不思議な魅力があります。
細川幽斎の前名である長岡藤孝は、在所の長岡を名字にしたものです。
長岡は古墳エリアで、土師氏/菅原氏の信仰地である長岡天満宮はよく知られた神社です。
長岡とは、長い丘すなわち前方後円墳だという地名説もあります。
細川幽斎は豊臣秀吉のブレーンというだけでなく、なにか秘密を共有していたような気配がします。
(つづく)
日本史上の人物のなかで最も稲荷と縁の深い豊臣秀吉
秀吉を祭神とする長浜市の豊国神社のなかにある稲荷社。
秀吉の守護神は稲荷?
神道関係の本を多く書かれている戸部民夫氏の『戦国武将の守護神』は、勇猛果敢な戦国武将の神頼みの一面がわかって面白い本ですが、豊臣秀吉が最初に信仰したのは稲荷神であると紹介されています。
稲荷のほか、大黒天、阿弥陀如来、不動明王などが秀吉ゆかりの神仏として紹介されています。
稲荷信仰の専門家である大森恵子氏の大著『稲荷信仰と宗教民俗』には、「武将たちと城鎮守稲荷神」という章があり、ここで最も詳しく記述されているのが豊臣秀吉の稲荷信仰です。
秀吉の稲荷好きは相当なもので、関東地方にまで噂されたらしい。
後世に至って、豊臣秀吉の立身出世にあやかろうと願う人々の参詣を受けて、秀吉に関わる由来伝承を付随する稲荷社は流行神となり、二〇世紀の今日まで根強い信仰を集めているのである。
(一六四ページ)
日本史上の人物のなかで、最も稲荷と縁が深いのは豊臣秀吉だとおもわれます。
秀吉と稲荷信仰にまつわる問題は謎めいていて、奥深く、とても面白いです。
ここを深掘りすれば、いろいろ新しい知見を得られるのではと、僕は考えているのですが、残念ながら、今のところ、それをほかの人にうまく伝えることができていないのです。
秀吉本企画、ボツの原因?
以前、このブログに書かせていただいたように、僕は名の知れた出版社に企画書を送って、「秀吉本」の刊行を狙っていたのですが、そのときのメインテーマは、稲荷信仰者としての秀吉というものでした。
しかし、結果からいうと、この企画に興味をもってくれる編集者さんはほとんどいませんでした。
その後、何人かの知人に、秀吉と稲荷のことを話したのですが、どうも、反応がよくありません。
「秀吉は無教養で、難しい仏教の教学がわからないから、お稲荷さんでも拝んでいたんじゃないの」
「出世稲荷という神社があるくらいだから、秀吉は出世がしたくてお稲荷さんを信仰したんだろう? 関白にまでなったのだから、ご利益はあったわけだね」
お稲荷さまが出世の神になったのは、大森氏も書いているように、秀吉が稲荷信者だったから、秀吉の出世にあやかりたい人が稲荷を拝んだことによるようです。
知人の反応は原因と結果が逆さまなのですが、それを指摘しても、「あ、そうなの」とあっさりしたものです。
「稲荷神社なんか全国どこにでもあるのだから、単純な確率論だけでいっても、秀吉が稲荷を拝んでいたことに、それほど不自然な印象をもたないのだけど」
どうも、秀吉が稲荷信者だという話は、インパクトに欠けるようです。
僕がかつて送っていた「秀吉本」の企画がボツになった一因も、このあたりにあったのかもしれません。
秀吉と稲荷神はよく似ている
後醍醐天皇が真言立川流に傾倒していたらしいという話が、人びとの興味をひくのは、邪宗めいた立川流と天皇という組み合わせの新奇さにあるとおもいます。
皇族の誰それさんはキリスト教徒だったらしいという無責任なウワサ話も、その意外感が人をひきつけるようです。
秀吉は氏素性のはっきりしない低い出自ですが、お稲荷さまも庶民派ですから、キャラクターが似通っているようにみえます。
秀吉が稲荷信仰者であると聞いても、驚きの感情をもつことはなく、興味、関心にむすびつきにくいのかもしれません。
しかし逆から考えると、秀吉と稲荷神が似ているということは、その結びつきの深さ、強さを示唆している可能性があります。
豊臣秀吉は非常に謎の多い人ですが、稲荷神をとおして、その謎の一端に触れることができるのでは、と僕は考えてしまうのです。
ところが、稲荷神は庶民派の外見をしていますが、ヌエ的とでもいいましょうか、とらえどころがなく、こちらも実に謎めいた存在らしいのです。
稲荷信仰はきわめて単純であるとともに、雑多であり、はっきりとした教理があるわけでもなく、教祖、教団もなく、組織も体系もない。いわば得体が知れないのである。
と述べておられます。
この点において、秀吉と稲荷神はよく似ています。
そして、これは秀吉と稲荷の関係を説明するのが、非常に難しい原因にもなっています。
このブログでは、今まで調べたことをもう一度、整理して、秀吉と稲荷について考えてみます。
うまく論点が整理できれば、電子書籍にまとめて、「本」としてのこしたいとおもっています。
紙の本の一般書として出したいという希望はあるのですが、どうも、テーマがマニアックすぎるようです。
逆にいえば、ネット向きの話題なのかもしれません。
当ブログの目的のひとつには、せっかく、秀吉のことをあれこれ調べたり、取材したりしたのだから、文字にして書きのこしておきたいという願望もあります。
当ブログの記事が、心ある人の目にとまることを祈願しつつ、インターネット空間の虚空にむけて、秀吉をめぐるよもやま話をさらに書き綴ってみます。
お稲荷さまのご加護のあらんことを!
(つづく)
「日本列島をパナマ湾に移動することだって朝飯前」というテンプル騎士団の神秘のパワー?
世界一すごいトンデモ本
前回、ウンベルト・エーコの小説『フーコーの振り子』を、出版ビジネス本として読んだ感想を書いたわけですが、出版業界は作品の舞台であるにすぎません。
作品としてのテーマは、ヨーロッパの本の世界の<裏文化>のようなものです。
硬派な学術出版社ガラモンを表の顔としながら、詐欺まがいの自費出版ビジネスを手がけるマヌーツィオ社を裏の顔とする出版社において、自費出版される本の大半は、科学、学術の常識を逸脱したトンデモ本です。
テンプル騎士団をはじめとする秘密結社の歴史、ユダヤ人の陰謀、現代科学を超越した知られざる超科学、宇宙の叡智を知りつくした不死の智者サン・ジェルマン伯爵…。
アマチュア研究者、素人作家を、詐欺まがいの自費出版に誘い込んで、荒稼ぎをしているガラモン/マヌーツィオ社ですが、編集スタッフの三人は次第に、トンデモ世界観、トンデモ歴史観に深入りし、自分たち独自の新しい解釈を試みます。
本来は学術書の編集者です。
情報収集の能力はあるし、論理を構成し、もっともらしく見せる技術ももっています。
その結果、彼らは地球の磁気というかたちで、わずかに見えている宇宙的パワーの<源泉>を突き止め、秘密結社である「テンプル騎士団」はその事実を知っていたにもかかわらず、ある理由により封印されたことを発見するのです。
この宇宙的パワーは、オカルト科学が「地電流」と呼ぶ地球に潜在したエネルギー。
それをある極地点でコントロールすることができれば、「金属を純金に変え/日本列島をパナマ湾に移動することだって朝飯前/原子爆弾どころではない」すごいことが起きるというのです。
パリ工芸院にあるフーコーの振り子の実験装置が、この恐るべきパワーを実現する秘密の場所だというところで、作品のタイトルにつながってきます。
もちろん、これは「世界一すごいトンデモ本」をつくるための編集会議めいた会話が膨らんだホラ話にすぎなせん。
編集者たちの、知的なお遊びです。
ところがこの<秘密>が外部にもれてしまい、宇宙的な神秘のパワーや秘密結社による世界の刷新を信じる人たちは、すべての謎が解き明かされるときが来たと信じてしまうのです。
その<秘密>を編集者たちから奪うべく、陰謀めいた事件の幕が開きます。
人間の愚かさは美徳を凌駕する価値をもつのか
ウンベルト・エーコの膨大な著作のうち、僕が読んだのは小説『フーコーの振り子』と対談本『もうすぐ絶滅するという紙の書籍について』だけです。
この人については、ウィキペディアに載っている経歴くらいしか知らないのですが、『記号論と言語哲学』『完全言語の探求』『記号論入門――記号概念の歴史と分析』『美の歴史』という著作リストをみるだけでも立派なアカデミズムの研究者であることがわかります。
ウンベルト・エーコはボローニャ大学で、言語学・記号学・哲学・文学などを講じる大学教授であり、ヨーロッパ知識人の世界では、当代随一の古書、稀覯本のコレクターとして知られていたそうです。
それが『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』という対談本の前提となっています。
古書だけかどうか不明ですが、自宅と別荘に、約五万冊の蔵書があったそうです。対談では、自分の死後、それをどう処分してほしいかという話題も出ています。
大学教授の古書コレクションなのですから、自らの思索や研究の糧になる本、自らの芸術的感受性にフィットする美しい本が、収集されていると誰もがおもうはずです。
でも、ちょっと違うようなのです。
私は自分がその内容をぜんぜん信じてない本ばかり集めてきましたから、私の蔵書は私の姿を逆さまに映したものになっているはずです。
あるいは、私のなかのあまのじゃく的な部分を映し出したものかもしれません。
(『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』 437ページ)
対談のなかで、奇怪な古書の数々を紹介しています。
スウェーデンの学者オロフ・ルトベックが書いた三〇〇〇ページの大著では、スウェーデンは「ノアの方舟」のノアの息子ヤフェトの祖国で、スウェーデン語こそアダムが話していた原初の言葉であることが立証されているそうです。
スコットランド出身の一九世紀の天文学者は、クフ王のピラミッドに宇宙のあらゆる寸法が含まれていることを発見したそうです。ピラミッドの高さの一〇〇万倍は地球と太陽の距離だとか、四辺の長さの合計を倍にすると、赤道から緯度六〇分の一度までの距離になる、つまり、クフ王のピラミッドは地球の周長の四万三二〇〇分の一の縮尺になっている、というのです。
エーコ先生は、
「この分野は今日、インターネットに引き継がれて、非常に充実しています。インターネットでピラミッドを検索してみてください」
と、トンデモワールドへのガイダンスまで提供しています。
人間の想像世界の、本当に気の遠くなるような広がり
秘密結社の真実の発見、トンデモ言語学、ピラミッド超科学などについての膨大な古書コレクションから得た奇妙奇天烈な<学説>が、『フーコーの振り子』にはしつこいほど紹介されています。
ヨーロッパの読書人であれば、驚嘆したり、大笑いしたりできるポイントがいっぱいありそうな気配はします。
でも、正直なところ僕にはよくわからないところが多いです。
日本人でそのあたりまで楽しめるのは、プロ級に変態な読書家(A先生ですとか、お亡くなりになったS先生とか)くらいしかいないのではないでしょうか。
ただ、そうした部分は飛ばし読みしても、支障はないような構成になっているとおもいます。
というのも、『フーコーの振り子』には、トンデモ古書のコレクションからえた知識を発表するためとしかおもえない、一見ムダな記述が多いからです。ウンベルト・エーコはそうした珍妙な<学説>の数々を楽しみながら書いているようにみえます。
日本でも、トンデモ本をそれと知りつつ、楽しもうという趣向があり、その筋のコレクターがいます。
また、たとえ偽書だとしても、その偽書が成立した背景を知ることは、歴史研究として価値がある、という大学の歴史学教授もいます。
エーコ先生の珍書コレクションはそれともすこし違うようです。
学術的な価値、文芸的な美しさはなくても、人間の愚かさを証明することによって、価値をもっている本がある──ということのようなのです。
対談本『もうすぐ絶滅するという紙の書籍について』には「珍説愚説礼讃」という章があって、ウンベルト・エーコはこう発言しています。
愚かしさをテーマに語ろうとは言ったものの、これは、半分天才で半分馬鹿という、この人間という存在に対するオマージュなのです。
そして人間は誰しも、ちょうど我々二人ともがそうであるように、死ぬときが近づいてくると、愚かしさが美徳を凌駕するんだと考えるようになります。(299ページ)
ここまで言われてしまうと、ウンベルト・エーコのトンデモ古書のコレクションは、人類愛によって包まれているとさえおもえてきます。
地道な学術出版の裏で、詐欺まがいの自費出版ビジネスを手がけるガラモン/マヌーツィオ社は、人間世界の暗喩のようにもみえてきます。
対談相手のフランス人脚本家ジャン=クロード・カリエール氏はこう応じています。
「私やあなたが収集しているすべての書物は、我々の想像世界の、本当に気の遠くなるような広がりを証明しています。
逸脱や狂気を愚かしさと区別することはとりわけ困難です」
僕は映画のことはよく知らないのですが、有名な脚本家らしいです。
『ブリキの太鼓』『存在の耐えられない軽さ』などを手がけています。この人もエーコ先生に負けず、トンデモ古書をずいぶん集めています。
たとえ専門家に相手にされないトンデモ本であっても、「人間の想像世界の、本当に気の遠くなるような広がり」 に貢献できるということなのでしょうか。
希望なのか、救いなのかよくわかりませんが、ふたりの老賢人の対話は、本の世界の底知れない広がりを教えてくれます。