桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

「豊臣秀吉・中国人説」は東アジア世界に拡散していた

 

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勇(いさむ)や(1368年)明の朱元璋、この年、建国。

極貧からの出発、晩年の理不尽な粛正、秀吉とは共通点のある明の創始者。

 

突然の朝鮮出兵によって、豊臣秀吉は明(中国)や朝鮮の知識人社会では「時の人」となり、さまざまな書籍や公文書で「Hideyoshi  Who?」が取りざたされているそうです。そうしたなかで、その正体は日本に渡った中国人なのだという言説が相当の広がりをみせています。

 

鄭潔西教授の論文「秀吉の中国人説について」

 

豊臣秀吉による朝鮮半島、大陸への出兵を、日本では「文禄・慶長の役」といい、朝鮮半島では「壬辰倭乱」といいますが、明(中国)では「万暦朝鮮役」というそうです。

 

当時の東アジア世界においては、驚愕の大事件でにわかに日本への関心が高まります。

当時のそして現在の日本人にとっても、豊臣秀吉という人物は謎めいていますから、明、朝鮮の知識人にとってはなおさらです。

 

さまざまな風説があり、そのひとつが「豊臣秀吉・中国人説」。鄭潔西氏の学術論文「秀吉の中国人説について」はこの問題についての貴重な報告です。

現在、中国浙江省寧波大学の教授をなさっているようですが、この論文は関西大学にいらしたころに書いたものだとおもわれます。

 

鄭潔西教授は、総論としてこう述べています。 

万暦朝鮮役前後の明朝と朝鮮の両国では、秀吉に関する情報は多くて複雑である。

その一つは、秀吉の中国人説である。事実ではないが、秀吉はもともと中国人である伝説は当時頗る流布していた。

 


李氏朝鮮で大臣クラスの政治家だった柳成竜の著作『懲毖録』、幕末の歴史家飯田忠彦の『大日本野史』に、豊臣秀吉の正体は中国人(明人)という風説が書かれていることはすでに紹介しました。

 

鄭教授の論文では、秀吉の中国人説について書かれた文献が列挙されており、まず、その多さに驚かされます。

 

たとえば、中国の学者、談遷という人が書いた編年体の歴史書『国榷』があります。

 

その万暦十九年(一五九一)五月二十八日条に、

「本全州人奴、或云慈谿陸氏、嘉靖末、從粤盜曾一本而敗、亡命日本、國王任之、善用兵、自稱關白、猶漢大將軍也、遂簒立」という記述があるそうです。

 

鄭教授は以下のように解説しています。

 

『国榷』によると、秀吉は万暦十九年(1591)五月に日本国の政権を奪い取った。

秀吉は、本来全州(広西省全州か、福建省泉州か)の人奴であり、あるいは浙江寧波の慈谿県の陸氏であり、嘉靖の末年、広東の海賊曾一本に従って戦いに負けて日本に亡命したのである。

日本の国王は彼を信用した。彼は兵を用いることにたけており、関白と自称した。

 

中国や朝鮮における「豊臣秀吉・中国人説」は、民間伝承のようなものではなく、レベルの高い知識人によって書かれている──このことをまず確認する必要があります。 

 

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朝鮮国王宣祖の孫であった申炅用の著作再造藩邦志』にも、秀吉の中国人説があって、もとは福建省の人であったと書かれているというのです。

 

「與倭通和者二百餘年、而凡三入寇、輒不利退矣。至秀吉平定諸島已十餘年矣。或云秀吉中國福建人、少販傭為生、漂到日本、編於士伍、累功為關白」

 

鄭教授はこう述べています。

秀吉は中国の福建人であり、若い頃商売を生業として従事したが、あいにく日本に漂着して日本の軍隊に編入された。日本兵としての秀吉は戦上手で功績を積み重ねて関白に昇進した。

その説の根拠は資料の欠如で未だ明らかでないが、同書の秀吉に関する第二説は、ほぼ同じ表現が『全浙兵制』第二巻「近報倭警」に見える。

 

ウワサの震源地はどこだ?

 

このころ、明国は日本との国交がなく、日本についての情報はきわめて乏しかったそうです。

 

鄭教授の論文によると、開戦二年目となる一五九三年、明国政府は許豫という人を、諜報活動のため密かに日本に送り込みます。いまでいえばスパイです。

 

秀吉が中国人であるという風説は確認できず、その後、この国際的なウワサはいくらか沈静化に向かったといいます。

 

諜報者による報告書では、日本には相当の数の中国系の人が住んでいるので、情報収集のためにも彼らを帰国させるべきことが提言されています。

 

この報告書とは別の資料ですが、二千人くらいの中国人が日本にいたとも記録されています。

 

明国が本格参戦したことで、日本に住んでいた明国人が中国に戻ったということは現実にあったことです。

 

政府間の国交はなくても、貿易をはじめとした民間レベルでの行き来はあったわけです。鄭教授はこうした日本からの帰国者や貿易商が「豊臣秀吉・中国人説」の発生に関与していると考えています。

 

 

 先のエントリーで申し上げましたように、豊臣秀吉の母方先祖を、応神天皇の統治期の五世紀ごろ、日本に渡来した佐波多村主(さはたのすぐり)とする系図があります。

 

この系図にどれほどの史実性があるのははっきりしません。

 

これと同じではなくても、似たようなウワサ話は、豊臣秀吉が生きていたころから、ささやかれていたのではないでしょうか。

 

堺の町あたりで、中国人商人と日本人商人が取引の話を終えて、雑談をしているとき、出てきそうな話です。

 

中国人商人 「ところで、いま、お国を治めておられる豊臣秀吉というお方は、たいへんな出世をなさった人だとか。もともとは、どういうお人なのですか」

 

日本人商人 「貧しい百姓やら鍛冶やら、いろいろ話はありますが、私どもにもよくわからないのです。そういえば、ご先祖は、中国から渡ってきた人だという話も聞きますよ。これも本当かどうかはわからない話のひとつです」

 

中国の人にとっては興味のある話です。

日本のなかの中国人社会で、情報は一気に拡散します。

伝言ゲームではありませんが、「豊臣秀吉の先祖は中国人」という話が「秀吉本人が中国から渡って来た」という話にすり替わった──という可能性があるのではないでしょうか。

 

このあたりは、当ブログの筆者の憶測でしかないのですが、火のないところに煙は立たないと申します。

 

東アジア世界に拡散したウワサの<種>は、必ず、日本国内にあるはずです。

(つづく)

 

鄭潔西氏の論文「秀吉の中国人説について」はインターネット上に公開されています。

日本の歴史に通じた中国人の研究者だからこそ書けた面白い論文です。

ぜひ、お目通しください。

http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~shkky/wakumon/wakumon-data/no-14/No.10zheng.pdf

 

幕末の歴史書『大日本野史』にも「豊臣秀吉・中国人説」が出ている?

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幕末の歴史家として名高い飯田忠彦の『大日本野史』にも、「豊臣秀吉・中国人説」が記されている──と断定口調でいう自信はないのですが、妙な一文が秀吉伝記に挿入されているのです。

 

明人羽柴官の再生?

 

大日本野史』は飯田忠彦が三十年以上を費やして一八五一年(嘉永四年)に完成させた歴史書。

本来、歴史の記述は朝廷の職務であり、それを正史と呼ぶのに対し、在野の人が編纂した私撰の歴史を「野史」というそうです。

与党に対する野党の「野」です。

 

水戸黄門こと徳川光圀が編纂した『大日本史』が十四世紀までしか書き及んでいないことから、飯田忠彦はその続編の執筆を志し、計二百九十一巻からなる大著を完成させました。

室町時代から江戸時代までの四世紀余りの歴史が詳述されています。名付けて『大日本野史』。

 

武将、公家、文人など著名な人たちの伝記が集成された伝記集という一面もあり、「武将列伝」のなかに「羽柴秀吉」の伝記が収められています。

 

幼少のころは日吉、尾張国中村の人で、「未だその父を詳かにせず」、父親が誰なのかよくわからない、と冒頭から不穏です。

それにつづけて、こう記されています。

 

将軍家譜に云ふ、出所詳かならず、異説区々なり、或は云ふ、木下弥右衛門の子なり、或は明人羽柴官の再生なりと、

 

秀吉の出自については異説がいろいろあって、よくわからない。木下弥右衛門の子であるとも、明人羽柴官の再生であるともいわれている──。

 

秀吉の時代の中国は明朝ですから、「明人」とは中国人のことではないでしょうか。

不勉強で申し訳ありませんが、もしかすると、まったく別の意味があるのかもしれません。

 

「羽柴官」もよくわかりません。

 

中国人という読み方が正しければ、「羽」がファミリーネーム、「柴官」 がラストネーム? どうも釈然としません。

 

「再生」もまた、意味不明です。

 

大日本野史』にある秀吉の伝記を読んだだけの印象ですが、それぞれの史料の史実性を吟味することなく、玉石混淆で、さまざまなデータを盛り込んでいる感じです。

ただし、オカルト話には関心はなさそうなので、「再生」は魂の再生とか、輪廻転生とか、そちら方面の意味ではないはずです。

 

文脈からすると、前回のエントリーでとりあげた柳成竜の『懲毖録』と同じく、中国から渡ってきた人物が、羽柴秀吉の正体であるということを述べていると筆者には見えます。

 

中国人の流れ者が日本で大出世したことを「再生」と言っているのでしょうか。「大変身」ということでしょうか。

 

このくだりについて解説してくれている文献を探しているのですが、見つかりません。

 

志士にして歴史家、安政の大獄に死す

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飯田忠彦 自画像

 

 幕末のころ、『系図纂要』という非常に網羅的な系図集が編まれており、現代の活字本でも出版されています。

編者が誰かは不詳なのですが、飯田忠彦が編者であろうといわれています。

 

大日本野史』も『系図纂要』も、現代の歴史家からの評価は芳しくないようですが、個人編纂の書籍としては、おそるべきスケールです。

大日本野史』の著者は、時代の端境期に生きた、大きな精神をもった知識人でした。

 

 飯田忠彦はもともと武家の生まれですが、有栖川宮の支援をうけて研究と執筆をつづけました。

学者という枠におさまらず、「幕末の志士」というべき政治活動をしていた人です。

幕府の監視対象となり、たびたび投獄されています。安政の大獄連座し、自ら命を絶ちました。

(つづく)

「豊臣秀吉・中国人説」が、朝鮮王朝の高官の著作『懲毖録』に出ている

 

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韓国KBS1で2015年に放送された大河ドラマ『懲毖録』。主演キム・サンジュン(柳成竜の役)

http://www.kbs.co.kr/drama/jing/

 

豊臣秀吉はもともと中国人なのだが、日本に渡ったあと、破格の出世をとげて、国の支配者となった──という当時の風説が、朝鮮王朝の高官による著作『懲毖録』に書きのこされています。

 

柳成竜の『懲毖録』

 

『懲毖録』(ちょうひろく)の著者は、李氏朝鮮中央政府で大臣クラスの政治家だった柳成竜です。

豊臣秀吉による朝鮮半島・大陸への侵攻(文禄・慶長の役壬辰倭乱)の前後の期間について、朝鮮王朝の政治に携わる当事者としての視点から詳細で克明な記録がなされています。

 

柳成竜が政界を離れて隠居したあと、日本からの安易な侵攻を許してしまったことを反省し、後世への教訓をのこす目的で執筆したといわれています。


柳成竜は、豊臣秀吉の来歴についてのくだりで、その正体が中国人だという説があると述べているのです。

 

秀吉については、[いろいろな取り沙汰があり]、ある者は、「[彼はもともと]中国人で、倭国に流れこんで薪を売って生計をたてていた。ある日、国王(注①)が外出中に[たまたま]道ばたで出会い、その人となりの尋常でないのを見て[配下の]軍列に加えた。

 

勇敢で、力があり、戦上手であったので、[たちまち]功績をあげて大官に出世し、権力も握るようになって、ついに源氏(注②)[の政権]を奪ってこれに代わったのだ」と言い、またある者は、「源氏が、ある人(注③)に殺され、秀吉がまたその人(注④)を殺して国を奪ったのだ」とも言う。

 

[秀吉は]兵力を用いて諸島を平定し、域内の六十六州を一つに統合するや、今度は、外国を侵略しようという野望を抱いた。 

 平凡社東洋文庫版 八ページ。 [ ]の文言は翻訳者による注釈 )

 

注① 国王が秀吉を道ばたで見つけて云々という話の「国王」は、織田信長らしい。

注② 源氏とは、将軍足利氏のこと。織田信長についての情報と秀吉の情報が混線している。

注③ 「ある人」は信長ということになるが、最後の足利将軍・義昭を殺してはいない。

注④ 秀吉が信長を殺した話になってしまっている。

 

 

李氏朝鮮の高官は誰でもそうなのでしょうが、柳成竜は儒学的教養をもったたいへんな知識人で、すぐれた洞察力をもっていたことは『懲毖録』の行間からも伝わってきます。

 

しかし、織田信長の台頭から、豊臣秀吉の覇権に至る日本の政治状況の推移については、あいまいで不正確な情報しか持っていなかったようです。

 

隣国とはいうものの、海峡に隔てられて、情報が行き来していなかったことがわかります。

 

秀吉のビジュアルイメージについての興味深い記述

『懲毖録』には、日本に赴いて豊臣秀吉に面会した李氏朝鮮使者の証言も記録されています。

 

秀吉は、容貌は小さく陋(いや)しげで、顔色は黒っぽく、とくにかわった様子はないが、ただ眼光がいささか閃(きらめ)いて人を射るようであったと言う。(同二〇ページ)

 

秀吉はこの面談の途中、席を離れると、幼少のわが子(鶴松)を抱いて平服姿で出てきて、朝鮮の楽師に音楽を演奏させ、鶴松に聞かせています。

すると、抱かれていた鶴松がオシッコをおもらしして、秀吉の衣服を濡らしてしまったので、秀吉は笑いながら侍者を呼び、朝鮮の使者たちの面前で着替えたというのです。

 

大河ドラマではおなじみのシーンですが、ネタ元はこの本だとわかります。 

 

日本人どうしの席なら、いかにも秀吉らしい大らかなふるまいだという笑い話になるのでしょうが、朝鮮王朝からの公式の使者との会見の場なのですから、これは問題行動です。

 

『懲毖録』のなかで、

 [その行動たるや]すべてまことに手前勝手で、傍らに人無きがごとくであった。

 と糾弾されるのも仕方のないことです。

 

秀吉の容貌については、李氏朝鮮の記録『宣祖修正実録』の記述が、翻訳者による注釈として示されています。

 

上問う、秀吉は何の状ぞと。允吉言う、「その目光燦々、これ胆智の人に似たり」と。

誠一曰く、「その目は鼠の如く、畏るるに足らざるなり」と。 

 

黄允吉、金誠一の二人は李氏朝鮮の政府が派遣した使者ですが、当時の朝鮮政府には二つの派閥があって、二人の使者はそれぞれの派閥から選ばれています。

そのせいで、報告のトーンも微妙に違っています。

 

『懲毖録』の著者柳成竜は儒臣(文官)ですが、軍事部門の統括者のようなポジションにつき、あの李舜臣を抜擢します。同郷で幼少のころからよく知っていたようです。

朝鮮水軍の将軍としての活躍は日本でも有名です。

 

柳成竜がテレビの歴史ドラマの主人公になっているのは、李舜臣との関係が深かったからだろうと想像します。

 

韓国ドラマにはまったく疎いのですが、柳成竜を演じているキム・サンジュンさんはけっこう有名な俳優のようです。

(つづく)

 

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  翻訳者の朴鐘鳴さんは、同じく文禄・慶長の役の時代の貴重な記録『看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記』の翻訳もしており、『滋賀のなかの朝鮮』などの著作もあります。

 

出身は朝鮮半島ですが、戦前、戦中、戦後を日本で暮らしており、日本と朝鮮の双方に視点をもつことのできる貴重な「時代の証言者」です。 

 

 下のリンクで、朴鐘鳴さんのインタビュー動画を見ることができます。誠実なお人柄がしのばれる語り口です。

cgi2.nhk.or.jp 

豊臣秀吉を渡来人の子孫とする謎の系図

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国立国会図書館に所蔵されている『諸系譜』という系図集に、豊臣秀吉を渡来人の子孫とする系図が掲載されています。『諸系譜』とは、幕末生まれの国学者たちが収集した系図資料がまとめられたものです。

 

国立国会図書館で『諸系譜』を見る

 

現代の戦場というわけでもありませんが、本日の話のはじまりは東京・永田町です。

与野党の激しいバトルの舞台、国会議事堂のそばにある国立国会図書館。その三階の「古典籍資料室」は、俗世から隔絶されたような静寂の空間です。

和書、漢籍、明治時代の和装本などの貴重書を扱うセクションですが、『諸系譜』はこの部署によって所蔵されています。

 

鈴木真年(まとし)ら幕末生まれの国学者が採取した系図資料をまとめた系図集で、ここに「太閤母公系」と題された豊臣秀吉の母方系図が収められています。

完成時期は不詳ですが、明治時代のはじめと考えられています。

 

豊臣秀吉の母方は代々の刀鍛冶で、その先祖は五世紀ごろの応神天皇のとき、朝鮮半島から日本列島に移住した佐波多村主(さはたのすぐり)いう渡来人。

そして、その渡来系鍛冶の一族は大和国から美濃国を経て、秀吉の祖父の世代に尾張国に移ったという内容です。

 

『諸系譜』は学術出版の雄松堂書店によってマイクロフィルム化されており、国立国会図書館のほか、主要な公立図書館や大学の図書館で閲覧できます。

ただし、国会図書館に行っても、『諸系譜』の原本の閲覧は原則としてできないようです。資料の傷みがはげしいためです。

僕もマイクロフィルムでしか見たことがありませんが、気軽にコピー申請できるので、これはこれで便利だとおもいます。

 

『諸系譜』にある秀吉母方の系図は以下のようなものです。

 

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系図の冒頭の「包永」のところにはこう書かれています。

 

佐波多村主後 天蓋平三郎

包永

大和国当麻 後堀河天皇御宇 貞応比 或伏見天皇御時 正応比 刀剣鍛冶工

 

天蓋平三郎「 包永」は、鎌倉時代の刀工で、当麻派、保昌派、尻懸派、千手院派とともに大和五派とされる手掻(てがい)派の始祖的な人物です。

 

刀剣史の専門家に一度、この系図を見てもらったことがあるのですが、刀工系図としては、いろいろと難点があり、そのまま史実とは認められないそうです。

 

このブログの目的は、真実の刀工系図を作成しようというものではありません。

ここでは、渡来系の佐波多村主を先祖に位置づけ、奈良の刀工を初代とする秀吉の系図があるということを確認するにとどめたいとおもいます。

 

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豊臣秀吉の系図学  近江、鍛冶、渡来人をめぐって』(宝賀寿男+桃山堂)より転載。弊社のつくった本です。

 

  

『諸系譜』とはどのような資料なのか

 

ところで『諸系譜』とは、どのような性格の系図集なのでしょうか。

 

一見したところ、かなり雑然とした印象があります。

ひとつの基準を設けて編纂された系図集ではなく、収集し記録した膨大な系図資料をとりあえずまとめたという感じでしょうか。

系図ごとに完成度もまちまちで、なかには研究途上のメモのような系図もあります。

 

江戸と明治にわたって活躍した国学者の鈴木真年(一八三一~一八九四)の収集した資料が主体となっていますが、同学の士である中田憲信(一八三五~一九一〇)が、それをベースとしつつ、自身の収集系図も織り込んで、まとめたのではないかと推定されています。

 

中田憲信も国学者としての素養をもつ人ですが、維新後の本職は法律家で、甲府地方裁判所の所長などの要職を歴任しています。

 

『諸系譜』は国立国会図書館にある原本が唯一のもので、写本は存在しません。

いつ、どのような経緯で国立国会図書館に収まったかも不明です。

 

鈴木真年の作品や遺稿の多くが、三菱系の静嘉堂文庫(東京都世田谷区岡本)で所蔵されていることからもわかるとおり、鈴木真年は三菱財閥の岩崎家の支援をうけて、全国規模の系図調査をおこなったようです。

地方の神社、寺院、旧家に伝わる系図を、鈴木真年は精力的に採取していたと、日本家系図学会の宝賀寿男氏にうかがいました。

 

問題なのは、資料の採取先をきちんと記録していないケースが多いことです。

 

秀吉母方系図のデータも、どのような経緯で見出されたものなのか、『諸系譜』には記載されていません。

 

史料としての価値は低いということになり、アカデミズムの歴史学研究者からはほとんど相手にされないまま、今日に至っています。

 

今のところ、秀吉の渡来人系図について論評しているのは、宝賀寿男氏をはじめとする系図研究のフィールドにいる人たちだけのようです。

 

秀吉の渡来人系図をどう考えるべきか

 

この秀吉母方の系図には疑問点が多く、そのまま史実として信用することはできそうにありません。

 

それならば、偽系図というべきなのでしょうか。

 

最も多く見うけられる系図の偽造は、源氏、平氏などの名門に自家の先祖をつなげて、家柄を飾るものです。

一方、『諸系譜』の秀吉系図は、佐波多村主というほとんど知られていない渡来人を遠祖としています。

同じ渡来系でも、百済王族や漢の王族の末裔を称するのとは意味合いが異なります。

 

それに、豊臣一族が自分たちの系譜として、社会的に公表していたものでもありません。

 

したがって、『諸系譜』の秀吉系図は、単純な偽系図とはみなしえないものです。

 

もし、この系図が史実とはほど遠い内容だとしたら、誰が何の目的で、こうした系図を作成したのかという疑問が生じます。

新撰姓氏録』にちらりと出ているだけの佐波多村主と豊臣秀吉を結びつける理由は何だったのでしょうか。

 

『諸系譜』の秀吉系図は、内容が史実であっても、史実でないとしても、多くの謎をはらんでいます。

(つづく)