桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

キリシタン大名、大村氏の城に行ったこと。大村寿司のこと。

玖島城長崎県大村市玖島)といっても、その知名度は乏しいかもしれませんが、キリシタン大名として教科書にも出ている大村氏の居城です。

城跡は大村公園、大村神社となっており、石垣が残っているだけです。

週末、実家のある長崎市に帰っていたので、花見を兼ねて、城跡に行ってみたのですが、折悪しく今年は寒さがつづいており、桜はあまり咲いていませんでした。

 

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玖島城のすぐ近くに、大村市立玖島中学校があります。

途中で転校して、卒業はしていないのですが、私は玖島中学校に二年間、通っています。

 

小さい規模とはいえ、大名の城のそばの中学校に通学するというのは、いま考えると恵まれた環境ですが、当時は、城にも石垣にも、もちろん「石」そのものにも興味はなく、ありがみを感じることもありませんでした。

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 新しく積み直したのかもしれませんが、野面積み的な石垣が大半を占めています。

史料的なことはまったく調べたことがないのですが、加藤清正の指導をうけたという伝承があります。

 

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豊臣秀吉の死と海の堅城・玖島城

 

大村氏が玖島城を築いたのは慶長三年(一五九八年)。

つまり、豊臣秀吉が死んだ年であり、再び、天下が乱れ、九州においても戦いが起こる事態を想定しての築城であるという解説をみます。

 

大村氏の歴史についても、調べたことがないのですが、築城の時期と秀吉の死が一致していることには興味をひかれます。

 

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玖島城の跡は現在、陸続きになっており、「島」ではなくなっていますが、もとは、海の水を堀とするいわゆる「海城」であったことが、上記復元図からも明らかです。

 

埋め立てられた堀を戻して、もう一度、「海城」の現状を復元すれば、城好きの人たちがもっと訪れるとおもうのですが、そんなムダな公共工事をやることは難しいでしょう。

 

石垣、櫓はいくらか復元されていますが、玖島城玖島城である根幹である「海城」の姿は、想像するしかありません。

 

大村氏が玖島城を築くまえに拠点としていたのは、三城城(さんじょうじょう)で、こちらはまったくの平城です。

 

玖島中学校に入学するまえは、大村市立三城小学校に一年だけですが、通っていました。

城跡は、忠霊塔といっていた神社だと記憶しているのですが、その城跡の近くに、三城小学校があります。

 

大村市に暮らしていた小学校、中学校時代は、こうして振り返ると、城まみれの日々だったわけですが、住民にとっては、あまりにもあたりまえの風景なので、ことさら、お城のことが話題になることもあまりありませんでした。

 

そういえば、私が大村市ですごした時期より、四、五年まえまで、大村氏の当主である大村純毅氏が大村市の市長をつとめていました。

 

殿さま市長とか、殿さま知事という事例はいくつかありますが、大村純毅市長もそのひとりです。

 

大名大村氏ゆかりの大村寿司

 

大村市には、大名家大村氏の伝承に由来する大村寿司という郷土料理があります。

 

客観的には、ちらし寿司を箱状にしたものでしかないと言われれば、そのとおりですが、お祝いごとには欠かせない郷土料理です。

 

とはいえ、大村市のスーパーなどでも売られているので、完全に市民生活に定着した料理です。

 

玖島城の近くには、大村寿司で有名な「やまと寿司」があります。

城跡で、しょぼい花見をしたあと、「やまと寿司」に行きました。

 

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店を入ったところにあるパネルによると、美智子妃殿下、皇太子も食べられたということが紹介されています。 

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長崎 大村寿司 | 九州の味とともに 春 | 霧島酒造株式会社

 

大村寿司の写真はおいしそうに撮影できなかったので、霧島酒造さんのサイトからの引用です。

霧島酒造さんのサイトは、九州のいろいろな郷土料理の説明があって、とても読みごたえがあります。

 

同サイトには、大村寿司の歴史も書かれており、大村のお殿様とのゆかりが紹介されています。

史実かどうかは別としても、この伝承によって、ありがたみが増すことは事実。

 

 

大村寿司は、長崎空港大村市)でもさりげなく販売されています。 

目立つ看板、旗をかかげて売られているわけではないので、すこしわかりにくいかもしれません。お土産屋さんが並んでいるコーナーの、薬類を販売しているあたりです。

 

歴史好きの人が、長崎空港を利用される折には、ぜひ、大村寿司をご賞味ください。 

羽犬伝説の筑後地方(福岡県南部)で、火山が激しく活動していたころ

私が個人営業している桃山堂という零細出版社は、このブログでメインテーマとしている秀吉伝説のほか、『火山と日本の神話──亡命ロシア人ワノフスキーの古事記論』という火山神話の本も出しています。

どうして、秀吉と火山なのだ、あまりにも支離滅裂ではないかと糾弾されることも多いので、その言い訳めいた話です。

 

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阿蘇中岳火口から立ちのぼる噴煙。(2016年3月撮影)

羽犬のふるさと「筑後」とは何か 

 

羽犬伝説のある福岡県筑後市は、福岡県といっても博多のある福岡市よりずっと南の熊本よりです。

福岡市などのある福岡北部を筑前というのに対し、筑後市とか八女市とか久留米市筑後と呼ばれています。

 

気質とか言葉も微妙に違います。

 

関東、関西の人に、それを説明するのは困難ですが、乱暴に言ってしまえば、博多のある福岡市が東京二十三区だとすると、筑後地方は多摩地区です。

 

かえって話がこんがらがりそうですが、同じ福岡県でも、田舎的な性格がより濃厚である──ということです。

 

私の先祖が代々、暮らしていた福岡県八女市黒木町は、筑後地方のなかでも、さらに熊本との県境に近いところです。

9万年まえ、阿蘇が何万年に一度という規模のすさまじい巨大噴火をしたとき、火砕流が県境の山を越えて、八女市にも到達しています。 

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八女市岩戸山歴史資料館に掲載されていたパネルです。

岩戸山古墳、石人山古墳のあるあたりが筑後エリアで、このあたりまで火砕流(ピンク色)が流れてきています。

 

火砕流とは、大規模な噴火のときに生じる現象ですが、火山ガス、火山灰などによる気体と固体の混合した流動体です。

もともとはマグマですから、火砕流は冷えて固まると固体になります。岩状にがっちり固まると、溶結凝灰岩と命名されます。

固まり方がゆるいと、鹿児島のシラス台地のような土地になります。こちらは岩ではなく、土です。

 

阿蘇カルデラ噴火でできた石は、今でも商売に使われている

 

八女市に到達した火砕流は溶結凝灰岩となり、「八女石」と呼ばれる有用な石材となっています。

加工しやすく、見た目もいいので市場性の高い石なのだそうです。

江戸時代には、石橋の材料にもなっています。

 

石灯籠などの材料となり、八女市の郷土産品のひとつです。

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阿蘇噴火に由来するこの石は、古代から加工に適した石として知られていたようで、八女古墳群には、「石人」と称される石の守護像が置かれています。

 

埴輪のかわりのようなものです。

 

これは、八女古墳群では最大の岩戸山古墳にあった「石人」です。

六世紀、継体天皇のときのヤマト政権と敵対して、戦いに敗れた筑紫君磐井を葬った前方後円墳だとかんがえられています。

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羽犬の墓が、阿蘇噴火に由来する「八女石」かどうかは未確認です。

こじつけめいた話になってしまいましたが、羽犬伝説の筑後地方は、阿蘇文化圏の一角にあったことはご理解いただけたのではないでしょうか。

 

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福岡県南部における、200万年まえの火山活動

私の先祖代々が暮らしていた黒木町は、もともと独立した自治体でした。その隣村を矢部村といいましたが、いまは双方とも合併により八女市の一部となっています。

 

矢部村には、200年ほどまえ、激しい火山活動があり、筑紫溶岩、日向神溶岩と呼ばれる火山岩としてものの本にその名をみます。

 

火山について、本格的に調べはじめたのはこの三年くらいですから、先祖の地がそのような恐るべき火山地帯にあるとは知りませんでした。

 

あまりに山間地の田舎すぎて、メジャーな観光地にはなれないのですが、矢部村には日向神渓という渓谷美をアピールするエリアがあって、もう四〇年以上まえの小学校のころ、何度か連れて行かれたことがあります。

 

「ひゅうがみダムに行く」という音として記憶していました。

日向神ダムです。

 

漢字でみると、にわかに妄想力のスイッチが入ります。

 

風景の記憶はほとんど残っていないのですが、いま、ネット検索してみてみると、典型的な火山的風景です。

 

 

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矢部村にも、金山があって、近現代においては、大分県からつづいている鯛生金山の一部として知られています。

鯛生金山は一時期、産出量で日本一になっていた時期があります。

過去の累計による総産出量では、第五位です。

相当に規模の大きな金の集積が、この地にあったことは歴然とした事実です。

 

わが先祖の地である黒木町に隣接する星野村矢部村には、大正、昭和時代までつづいていた金山の歴史があって、華麗なるゴールドに彩られているのですが、残念ながら、わが黒木町ではまとまった金は採れなかったようです。

 

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鯛生金山の跡地。

 

ともかくも、このあたりは、日本でも有数の金山があったところであり、それは200万年ほどまえの火山活動により形成された金鉱床なのだとおもいます。

 

そうした金をもとめて、渡来人だとか、後醍醐天皇の皇子だとか、星野氏、五條氏などの武士団だとか、前の回にとりあげた徐福だとか、虚実おりまぜて、さまざまな人たちが行き交った痕跡があります。

 

そうした史実と幻想の土壌から、秀吉と羽犬の伝説が生じているのでないか──。その視点から、『秀吉と翼の犬の伝説』という電子書籍をつくり、こんなブログを書き連ねているのですが、先祖代々が暮らした土地への過大評価と、それにもとづく私自身の誇大妄想である可能性は否定できません。

 

まとまりのない文章になってしまいましたが、同じ福岡県のなかでも、筑前とは違って、筑後地方においては火山的な地質が濃厚であることはご理解いただけたのではないでしょうか。

それは、否定できない地質学的な事実です。

 

 

 

あまりにも個人的な関心、というか地縁からスタートした電子書籍シリーズ「秀吉伝説集成」

桃山堂の電子書籍シリーズ「秀吉伝説集成」は、編集者であり著者陣のひとりでもある蒲池明弘のあまりにも個人的な関心事からスタートしています。紙の本では難しいニッチなこだわりを作品化できるところが、電子書籍のメリット。

とはいえ、当然の結論ながら、お金を出してそうした作品を購入していただける奇特な方はほとんどいないことが判明したので、こうしてほぼ全貌をブログで公開している次第です。

 

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税金を払え! とすごんでいるわけではありません。福岡県筑後市の守護神となっている翼のある犬「羽犬」。

 

福岡県の八女市黒木町はわが御先祖の土地

 

本の企画を立てるとき、著者や編集者の個人的な関心からスタートするというのは当たり前のようですが、現実には、「どれくらい売れそうか」という算盤勘定の比重がつよまっているのが、昨今の風潮ではないでしょうか。

著者や編集者の〈熱〉のようなものの気配を感じない本も少なくありません。

 

「秀吉伝説集成」は、史実とはいえないかもしれないけれど、豊臣秀吉という歴史上の現象の〈真実〉に触れているかも知れないという伝説や伝承を紹介しようという企画なのですが、その出発点のひとつが、秀吉と羽犬の伝説です。

 

翼のある犬という存在そのものが史実である可能性はゼロですが、それなのに、伝説として今日においても生命力をもっているのは、なにがしかの真実をふくんでいるのではないか──とおもうのです。

 

しかし、そもそも、どうして私が羽犬伝説を知っていたかというと、父親までの先祖代々が暮らしていた福岡県八女市黒木町笠原という熊本との県境に近い山間地で、そこ行くためには羽犬塚駅から、バスに乗る必要があるからです。

 

かんたんに言えば、お祖父さん、お祖母さんの家に行くとき、羽犬塚を通るわけです。

 

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標高五〇〇メートルを超えるとおもうのですが、段々畑があり、お茶とかお米とか、作っています。

 

 徐福伝説の古墳

 羽犬塚駅からバスで30分くらいのところに山内という集落があり、そこの真如寺というお寺に先祖代々、世話になっているのですが、この寺のすぐそばに「童男山古墳群」があります。

 

円墳がほとんどですが、30基くらいの古墳が集積しています。6世紀の古墳らしいです。

このあたりは、ほんとうに古墳がゴロゴロしているところで、八女古墳群と称されていますが、正確にいえば、童男山古墳群のようないくつもの古墳群をまとめて、八女古墳群と称しているわけです。

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 このパネルに書かれているように、童男山古墳には、いわゆる「徐福伝説」があります。

 

徐福伝説は各地にあるので、その真偽を詮索しても詮ないことだとおもうのですが、徐福はさておいても、この地域には、渡来系の人たちが活動していた濃厚な形跡があります。

 

わが先祖の地・黒木町の地名は、女優・黒木瞳の芸名の由来でもあるのですが、この地には、黒木氏という武士団がいました。

 

黒木氏は大蔵氏の流れをくむ渡来系の一族とされています。

渡来系のなかでは、漢氏と称される人たちです。

 

八女市の山間地には、星野という集落があり、歴史上、有力な金山のあったことはすでに申し上げました。

星野氏と黒木氏は同族とされ、ともに渡来系と目される人たちです。

 

徐福伝説の背景にあるのは、こうした渡来系氏族のうごめきであるのは間違いないとおもうのです。

 

中国なのか朝鮮半島なのかわかりませんが、危険を顧みず、日本列島に渡ってくる目的は、この地にあった黄金資源なのではないでしょうか。

 

先に申し上げたとおり、羽犬伝説を「黄金を探す犬」として理解できるならば、徐福伝説ともゆるやかにつながるとおもうのですが、いかがでしょうか。

 

秀吉と羽犬伝説と前方後円墳

 福岡県筑後市羽犬塚という地名の発祥をめぐって、豊臣秀吉と「羽犬」すなわち翼のある犬の伝説が語られています。こじつけめいた話をいろいろ書いてしまいましたが、私が秀吉と羽犬の伝説が気になって仕方がない最大の原因は、羽犬伝説の地、筑後エリアに九州では最大級の古墳群が存在するからです。このブログでも、たびたび話題にしているとおり、秀吉と古墳には無視しがたい結びつきがあるように見えるからです。

 

(以下の記事は、電子書籍「秀吉伝説集成」の一作『秀吉と翼の犬の伝説』の内容紹介です)

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この前方後円墳のそばの道を、秀吉ひきいる大軍勢が通って、薩摩へと向かった。

 

 

そこは北部九州最大の古墳群

羽犬塚のある福岡県筑後市に有名な企業、観光地はありませんから、自治体としての知名度は低いとおもいます。筑後市とは、どのような地域なのでしょう? 国立国会図書館ウェブサイトにある資料検索で、「筑後市」として調べてみると、百件ちょっとの資料がありますが、そのうち九十件以上が、古墳や遺跡など文化財発掘の調査報告書です。筑後市には前方後円墳、円墳をはじめ、おびただしい数の古墳時代の遺跡があります。

 

筑後市から久留米市、八女郡広川町、八女市へと連なる低い丘陵地帯には、大小三百基ほどの古墳が群集しており、「八女古墳群」と呼ばれています。北部九州では最大の古墳集積地です。この古墳群で最大の前方後円墳「岩戸山古墳」(全長一三五メートル)は、継体天皇との紛争の主役である筑紫君磐井の墓だといわれています。

 

羽犬塚のある筑後市は、古代の記憶をたたえた古墳の町です。羽犬塚の「塚」は、古墳を指す言葉でもあるので、羽犬塚という地名そのものが古墳とかかわる可能性があります。

 

羽犬塚が北部九州で最大の古墳エリアに位置することに注目するのは、秀吉をめぐる史実と伝承において、古墳にかかわる話が目につくからです。

 

秀吉の母親の出生地は名古屋・御器所とされていますが、八幡山古墳をはじめとして古墳の多いところで、東海地方で最大の前方後円墳である断夫山古墳(全長一五〇メートル)も徒歩一時間圏にあります。秀吉母子が参詣していたという伝承をもつ高座結御子神社熱田神宮境外摂社)の稲荷社は小さな円墳と一体の神社です。

 

羽犬塚から二キロほどのところにある岩戸山古墳と名古屋の断夫山古墳は、天皇陵を除けば、六世紀に造営された古墳のなかで第一位、第三位にランクされ、同じ設計プランによって造営されたとも考えられています。

 

古墳の視点を借りると、名古屋と羽犬塚のある筑後地方には共通点があるわけですが、別の言い方をすると、六世紀の継体天皇の時代、尾張筑後地方は、日本列島で有数の政治勢力であったということです。

 

断夫山古墳の埋葬者とされている尾張氏は、継体天皇に配偶者を送り込んで外戚になるなど強い提携関係にあります。筑後の筑紫君磐井は継体天皇と敵対して激しい戦いになりますが、それ以前においては、継体天皇を支える勢力の一翼を担っていたという説もあります(水谷千秋『継体天皇朝鮮半島の謎』ほか)。

 

石の兵士の守る前方後円墳のそばで

八女古墳群で最も古い前方後円墳は、羽犬塚の集落から北東二キロほどのところにある石(せき)人山(じんさん)古墳(全長約一一〇メートル)です。筑後市と八女郡広川町をまたぐように鎮座しており、この前方後円墳のそばに一條という集落があります。

 

九州遠征における秀吉の行軍ルートについてはいくつかの地域伝承があり、「太閤道」と呼ばれています。史料や伝承をもとにそれをまとめた労作『太閤道伝説を歩く』(牛嶋英俊)は、筑後市前後のルートについて、

 

秀吉通過の道筋はおおむね久留米市府中から広川町相川・一条、筑後市羽犬塚をへて長田にいたる。その間、太閤道の伝承は広川町一条のみだ

 

 

と説明しています。この地域では最古の前方後円墳のある集落だけが、秀吉についての記憶を伝承しているのです。

 

八女古墳群のよく知られた特徴は、古墳の墳丘に埴輪ではなく、石の造形物が置かれていることです。「石人」と呼ばれる古代の鎧兜に身をかためた武人の石像はその代表的なもので、石人山古墳という名称の由来となっています。いま、この古墳を訪ねてみると、横穴式石室のそばで、小屋に保管された「石人」を見ることができます。ほんとうに人間の大人と同じくらいの大きさです。緻密な文様の彫られた石棺も有名です。

 

住民が伝承する「太閤道」は、石人山古墳の外周をなぞるように伸びている三メートル幅の道です。農道に毛の生えたような道ですが、この道を行軍してきた秀吉は古墳のかたわらで休息をとり、そのとき、一條集落の住民が一服の茶を献上したというのです。こうしたことが「太閤道」の伝承として、この集落で語りつがれてきたそうです。

 

秀吉と古墳のつながりについては、当ブログのカテゴリー「古墳/土師氏」にいろいろな記事を載せています。 →

 

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秀吉伝承がのこる「太閤道」。この道を秀吉ひきいる大軍勢が通り抜けた。