羽犬伝説と黄金アイランド・九州
福岡県筑後市の羽犬塚という地名の発祥をめぐって、豊臣秀吉と「羽犬」すなわち翼のある犬の伝説が語られています。前回は、黄金を守護する聖獣グリフィンと羽犬との形態的類似について話題にしました。今回は、羽犬が黄金にかかわる可能性について、羽犬伝説の地、九州・筑後地方の地質条件から検討してみます。
(以下の記事は、電子書籍「秀吉伝説集成」の一作『秀吉と翼の犬の伝説』の内容紹介です)
黄金の王国・薩摩
ご承知のとおり、豊臣秀吉による天正十五年(一五八七)の九州遠征は、薩摩国(鹿児島県)の島津氏を討伐することが目的です。
羽犬伝説のある福岡県筑後市を、秀吉の大軍勢が通過したのは、鹿児島に向かう途中でした。
今日の交通網でみても、JR羽犬塚駅は博多から鹿児島に向かう鹿児島本線の駅です。
突然ですが、クイズです。
日本列島のすべての金の鉱山のうち、過去からの累計の総産出量が、いちばん多いのはどこかご存じでしょうか。
ブー。
菱刈鉱山は一九八〇年代に発見された現役バリバリの鉱山です。その金鉱石は世界でも最高レベルの純度で、またたくまに佐渡金山の累計生産高を超えてしまいました。
鹿児島大学の教授をされていた浦島幸世氏の著書『金山』(春苑堂出版)によると、県別に過去からの累計で金の産出量を調べると、鹿児島県が一位で次いで北海道、新潟、静岡、大分という順になるといいます。
黄金の国ジパングの伝説はすこし大げさであるとしても、世界地図のうえでいえば、日本列島は太平洋をとりまく黄金や銀の集積エリアのうえにあります。
その日本列島でも、最も豊富な黄金をかかえもつエリアが薩摩国。
秀吉の九州遠征の目的地です。
黄金太閤と黄金の国・薩摩。
何かの気配があります。
地球物理学のプレートテクトニクス理論によると、太平洋、フィリピン海など、海洋にあるプレートが大陸をのせたプレートの下に沈み込もうとするひずみが、地震や火山をつくりだしているというものですが、太平洋をとりまく火山と地震のラインは金、銀の集積地と重なっているのです。
九州はフィリピン海プレートとユーラシアプレートの接点に形成された火山の集積地で、阿蘇、桜島をはじめ、おびただしい火山が集積しています。
金、銀の鉱床ができる要因はいくつかありますが、マグマのなかの貴金属鉱物が熱水に溶け、岩の割れ目にそって鉱脈を形成するというタイプが火山エリアの金山、銀山です。熱水鉱床といいます。
九州とくに鹿児島県に、金山が多いのはこうした地質学的な条件によります。
火山の王国・九州は、黄金アイランドでもあるのです。
羽犬伝説の筑後地方も金山エリアの一角
菱刈金山、佐渡金山と比較すると、産出量、知名度ではずいぶん落ちますが、第五位に福岡・大分の県境エリアにある鯛生金山(大分県日田市)が入っています。
現在でもそうですが、地理的な条件によって、日田市は福岡県の筑後地方との結びつきが強く、鯛生金山で採れた金鉱石は羽犬塚で集積され、鉄道で運ばれていました。明治期には東洋一の金山の異名をもっていましたが、一九七二年、閉山しています。
すでに閉山した鯛生金山の内部。ここで採掘された金は羽犬塚へ運ばれていた。
福岡県が金の産地だというイメージをもつ人はあまりいないかもしれませんが、福岡県南部の筑後地方から大分県日田市にかけてのエリアには、鯛生金山と鉱脈を同じくするいくつかの金鉱山がありました。
現在は合併により福岡県八女市の一部になっていますが、鯛生金山から北西十キロほどのところに星野村があり、金山の歴史によって知られています。
八女市は羽犬塚のある筑後市と隣接しており、公共交通機関をつかって星野村に向かう場合、JR羽犬塚駅で星野行きの路線バスに乗り換えることになります。
一般には星野金山と呼ばれていますが、星野と鯛生金山のあいだにはいくつもの金鉱山が開発されています。
時代をさかのぼると、星野村は南北朝時代、九州における南朝勢力の拠点のひとつでした。九州の南朝勢力は、後醍醐天皇によって派遣された懐良親王を擁して、大宰府を拠点に北朝勢力を制圧していた時期もあります。しかし次第に退潮し、各地の拠点を失ったあと、懐良親王の「御所」が山深い星野村にあったという伝えがあります。この時期の金の生産、採取については不詳ですが、金を抜きにして、九州南朝を支える経済力の源泉を考えることは不可能です。
本格的な鉱山ではないとしても、砂金による採取は相当古い時代に始まっていたようです。星野金山は採掘の休止と再開を繰り返しながら、鉱山としての命脈を保っていましたが、昭和期にすべての鉱山が閉山しています。
写真は八女市役所星野支所提供。
星野氏は黄金の探索者
鎌倉時代のころから、星野村を拠点とする星野氏という武士団の動向がみえます。秀吉の九州遠征を控えた前哨戦において、星野一族は薩摩の島津方に立って参戦、当主の星野鎮胤と弟の鎮元が戦死し、星野エリアの領主であった星野氏は滅亡しています。金鉱山の利権がかかわっていたのかどうかわかりませんが、微妙な時期に星野氏は歴史の舞台から消えています。
通説的には星野氏は渡来系の調(しらべ)氏の系譜とされ、渡来氏族の分類のうえでは東漢氏とされています。別説では、多田源氏の系譜ともされますが、その発祥地である兵庫県川西市の多田は秀吉との因縁も浅からぬ銀山のあるところで、どちらにしても鉱山にかかわります。
星野の地名、名字を話題にする理由は、金山のことに加えて、秀吉の血縁者だともされる福島正則の本来の名字は、星野だという説があるからです。江戸時代に書かれた大道寺友山の『落穂集』では、福島正則と秀吉は父親どうしが腹違いの兄弟とされているので、秀吉の父親の名字は星野氏だという説も出されています(櫻井成廣「現存する豊臣氏の血統」)。
中公新書『福島正則』(福尾猛市郎、藤本篤)は、福島正則が星野一族の生まれで福島家に養子に出されたという所伝を肯定的に紹介しています。
星野が本姓であるという説は、まんざらでたらめとも思われない節がある。正則の重臣には星野姓の者が福島姓に次いで多いことが、その一つである。(中略)星野姓が福島姓の隠語に使えるほど意味の深いものであることは間違いないようで、正則養子説を肯定させるものがある。
筑後地方の星野氏とは直接むすびつかない話ですが、星野の名字が秀吉の周辺にちらついていることは注意すべきことです。
浦島氏の著書『金山』によると、鉱石に金が含有されているといっても多くの場合、千分の一ミリ程度の金粒があるかどうかという話です。しかし、まれにはミリ単位の金粒があり、それは「トジ金」と呼ばれるといいます。トジ金のトジには、石偏に「辰」という和製漢字があてられることがあるそうですが、浦島氏は「つくりの辰は星のことだから、これも意味がありそうだ」と述べておられます。石偏に「辰」という奇妙な文字は、星のようにキラキラと輝く石、すなわち黄金の粒ということです。
筑後地方にある星野という地名は、金粒や砂金によって地面や川の水底が星のように輝いていたことに由来するはずです。その地を名字とした九州の星野氏は、渡来系あるいは多田源氏系の黄金探索者の気配がします。
福島正則や秀吉との関係がいわれている尾張の星野氏が、金銀の探索にかかわる人たちであるかどうかは不明ですが、黄金太閤秀吉の血縁者なのですから非常に気になる話ではあります。
このブログでも何回か話題にしているように、秀吉の母方は渡来系の鍛冶の子孫であるとする系図があります。
黄金にしても、製鉄にしてもそうですが、金属にまつわる技術系譜には明らかに渡来系の文化が関係しています。
すべては朦朧とした伝承世界の言説ではありますが、秀吉はそのあたりの人脈と結びつく気配が漂っています。
電子書籍『秀吉と翼の犬の伝説』の立ち読みリンクを用意しました。
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秀吉伝説の「羽犬」は黄金の聖獣グリフィンと似ている?
福岡県筑後市の羽犬塚という地名の発祥をめぐって、豊臣秀吉と「羽犬」すなわち翼のある犬の伝説が語られています。一方、古代西洋の伝説には、翼のある聖獣グリフィンが登場します。グリフィンに比べると、羽犬伝説はあまりにもマイナーですが、黄金というキーワードによって、この二つの伝説が結びつく可能性があるのです。
(以下の記事は電子書籍「秀吉伝説集成」の一作『秀吉と翼の犬の伝説』からの抜粋です)
ハリー・ポッターの学生尞は「グリフィンドール」
まずは、福岡県筑後市にある羽犬の銅像とグリフィンを描いたイラストを並べてみます。
福岡県筑後県税事務所まえの羽犬像
ウィキペディアより。正確にはグリフィン(グリフォン)の息子。
似ているかどうかは主観の問題ですが、羽犬とグリフィンは似ているという前提で、その背景を考えることにします。
グリフィンは、ドラゴン、ユニコーンなど空想上の生き物の仲間で、グリフォン、グリュプスともいいます。
鳥のような翼のある獅子(ライオン)なのだそうです。
古代オリエント世界にルーツをもつグリフィン伝説は、ヨーロッパへと広がり、神話や物語のなかに定着しています。
「グリフォンは黄金を発見し、守る」(ウィキペディア)という言い伝えがあり、財産や権威の守護が期待されているのですが、知識は黄金に値するという連想から、知識の守護神でもあるそうです。
企業から学校までさまざまな団体が紋章としてグリフィンを掲げています。
小説や映画でおなじみの魔法使いの少年ハリー・ポッターが通う魔法学校にはいくつかの学生尞があって、団体戦のように競い合うようすが描かれていますが、ハリーが暮らしている学生尞を「グリフィンドール」といいます。「黄金のグリフィン」というフランス語であるそうです。
グリフィンと黄金が結びついています。
豊臣秀吉といえば、黄金の茶室で知られた「黄金太閤」。
その秀吉の愛犬(あるいは強敵?)という伝説をもつ羽犬は、黄金によってグリフィンと結びつく──。
すこし強引なこじつけのような気もしますが、黄金伝説として羽犬を考える手がかりをグリフィンは与えてくれるという程度であれば、言ってもいいのではないでしょうか。
元祖歴史家ヘロドトスの証言
紀元前五世紀ごろ、ギリシャの歴史家ヘロドトスが書いたとされる『歴史』には、以下のようなことが書かれています。
ヨーロッパの北方には、他と比較にならぬほど大量の金があることは明らかである。その金がどのようにして採取されるかについても、私は何も確実なことを知らないが、伝えられるところでは、一つ眼のアリマスポイという人種が怪鳥グリュプスから奪ってくるのだという。(岩波文庫『歴史』上巻 一一六ページ)
黄金の山を守る聖獣のイメージです。
でも、ここでは「怪鳥」と記されており、「鳥」の性格が強くにじんでいます。
日東金属鉱山株式会社の技師で、相内鉱山の地質研究で東北大学の博士号をもつ石井康夫氏は、一般向けの著書『きみも金鉱を発見できる』のなかで、黄金の採掘者としてのグリフィンを紹介しています。
金は、地中から産した希少な金属で、黄金色に輝く色彩と光沢を持ち、変色・腐敗もしない神秘で魅惑的な金属であるため、古代から太陽の落とし子だと信じられ、これを掘りだすのは、獅子の体にワシの頭と翼を持った怪獣が、そのくちばしで掘るのだと考えられていた。
そういえば、秀吉は自ら、母親が太陽によって懐妊した「太陽の子」であると称し、そう記された外交文書もあります。
黄金と太陽。
ここにもキーワードの交差がありますが、これについては別の機会に考えてみます。
秋田県にも、羽犬/グリフィン的・謎の生命体が出現!?
尾去沢鉱山(秋田県鹿角市)は日本を代表する銅山でしたが、金銀を産出していた時代もあります。
『獅子大権現御伝記』という江戸時代末期に地元の僧侶によって書かれた文献によると、鉱山の発見は奈良の大仏がつくられるときだったといい、グリフィンと類似する不思議な獅子が登場します。
空を飛ぶ獅子(ライオン)が出現し、まだ知られていなかった銅山に人びとを導いたというのです。
「空中に唐獅子の形の物、あらわれ出」うんぬんの古文書は、『獅子大権現御伝記』などで検索すれば、ネット上でも見ることができます。
また、別の話もあって、室町時代、銀閣寺が建てられたころ、尾去沢の上空に怪鳥が出現し、村人を恐怖させていたのですが、あるとき、山の中で怪鳥の死骸がみつかり、その体内には金銀銅が満ちていたといいます。
そのそばに「獅子の形の岩」があったので、掘ったところ、すばらしい鉱脈がみつかった──と同書に記されています。
ここでは獅子と鳥が分離されていますが、こちらも、金銀銅の発見にかかわる翼のある獣の伝説です。
この種明かしはわりと簡単かもしれません。
豊臣秀吉、徳川家康の時代は鉱山開発が盛んで、ヨーロッパや中国から最新の鉱山技術が競うように導入されていました。
キリスト教にかかわる鉱山師が各地で活躍していたころなので、黄金を発見しそれを守護するグリフィンの神話が当地にも伝わり、変形しながら幕末まで伝承されていたのだと考えられます。
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羽犬伝説──秀吉ゆかりの「翼のある犬」の正体は何なのか?
羽犬塚という町は福岡県筑後市の中心部にあります。「はいぬづか」と読むちょっと変わったこの地名の発祥をめぐって、豊臣秀吉と「羽犬」すなわち翼のある犬の伝説が語られています。今回は、電子書籍シリーズ「秀吉伝説集成」の一作『秀吉と翼の犬の伝説』を紹介しつつ、羽犬伝説について書いてみます。
羽犬塚駅前には、偉人のような羽犬の銅像
博多と熊本、鹿児島を結ぶJR鹿児島本線に羽犬塚駅があります。快速電車であれば博多から四十五分程度。
JR羽犬塚駅ロータリーに銅像があり、町の名士の銅像でものっていそうな重々しい台座ですが、ブロンズの犬がペガサスのように二つの翼を広げて、いままさに飛び立とうとしています。
鳥のような翼を持つ犬、すなわち「羽犬」を葬った塚が築かれたことによって、この地を羽犬塚と呼ぶようになった。地元ではそう語りつがれており、その説話の主役が豊臣秀吉なのです。
天下統一の戦の途上にあった豊臣秀吉が、薩摩国の島津氏を制圧すべく、十万を超える雲霞のごとき大軍団を率いてこの町を通過したのは、天正十五年(一五八七)四月のこと。熊本を経て、鹿児島へ入った秀吉軍。総力戦に至るまえに島津氏は降伏し、秀吉はふたたびこの町を通って、博多へと凱旋します。
羽犬伝説 二つのバージョン
羽犬伝説には二つのバージョンがあるのですが、羽犬塚駅前にある筑後市役所の説明パネルをもとに紹介してみましょう。
- 九州遠征に来た秀吉は「羽のある犬」を連れていた。しかしその愛犬はこの地で病気にかかり死んでしまった。秀吉が羽のある犬のために塚をつくり葬ったことから、この地は羽犬塚と呼ばれるようになった。
- 昔、この地に翼のはえた犬がいて、人や家畜を襲い、住民から恐れられていた。秀吉が九州遠征した際、この羽犬によって行く手を阻まれ、大軍を繰り出しやっとの思いで退治した。秀吉は、羽犬の賢さと強さに感心し、犬のために塚をつくり丁寧に葬った。
荒唐無稽な伝説とはいえ、それらしい史実の「種」があったに違いない。そう考える人は少なくないようで、文献的な探索はつづいていますが、残念ながらその成果は乏しいようです。
秀吉のそばに犬がいて、九州遠征の途中に死んだという史実でもあれば、羽犬伝説の歴史学的な評価はぐんと上がるのでしょうが、秀吉が愛犬家だったという記録もなさそうです。
羽犬塚駅まえでは、羽犬マークのタクシーがお出迎え。
羽犬と黄金の聖獣グリフィン
電子書籍『秀吉と翼の犬の伝説』では、現実の歴史とはすこし距離をおいて、神話・伝承の世界のなかで、羽犬伝説とは何かを検討します。
世界各地の文献には、さまざまな形の空想上の「幻想動物」が記録されていますが、翼のある獅子(ライオン)であるグリフィンは、羽犬とよく似た形態をもっています。黄金を発見し、それを守護すると信じられた聖獣グリフィンを糸口として、羽犬伝説の神話的なバックグラウンドを考えています。
『秀吉と翼の犬の伝説』を、途中まで読んでいただける「立ち読みリンク」を用意しました。
徳川幕府がつくった『寛政重修諸家譜』は豊臣氏を渡来系として分類?
『寛政重修諸家譜』は徳川幕府が編纂した武家系図集の集大成です。この系図集で豊臣氏は渡来系の氏族のなかに掲載されている──ように見える謎。
『寛政重修諸家譜』のなかの豊臣氏系図
『寛政重修諸家譜』は江戸時代の大名、旗本の系図を集成した系図集です。
なぜ、そこに大坂の陣で滅亡した豊臣氏の系図が載っているかというと、秀吉の正妻おねの兄の子孫が大名家として存続し、豊臣姓を称していたからです。
『寛政重修諸家譜』は千百十四氏、二千百三十二家を掲載するという膨大な系図集で、全体で千五百三十巻、活字本として出版されているものは全二十二巻と索引四巻です。
活字本では第十八巻に、豊臣氏の系図が載っています。
これがその目次です。
宮道氏、弓削氏は物部氏の系譜、渡会氏は伊勢外宮にかかわる系譜、飯高氏はよくわかりませんが、惟宗(これむね)氏は渡来系である秦氏の系譜です。
『世界大百科事典』は惟宗氏についてこう説明しています。
秦氏はいうまでもなく渡来系の雄族です。
次の大蔵氏も渡来系で、このブログでもとりあげた九州の大名秋月氏の系譜などが掲載されています。
多々良姓の大内氏は、山口県を拠点とした一族で、大内義弘をはじめとする有名武将がいますが、百済王族の子孫を標榜していました。
次の三善氏も百済系、清川氏の始祖は日本に帰化した唐人とされています。
すなわち、惟宗氏から清川氏まで、朝鮮半島や中国にルーツをもつ武家の系譜が並んでおり、その二番目に、豊臣姓の木下氏の系譜が掲載されている──ように見えます。
『寛政重修諸家譜』を編纂する幕府の文官は、豊臣秀吉のルーツが渡来系という情報をもっており、豊臣氏を渡来系グループとして分類したのでしょうか。
編纂者が執筆したまえがきの内容を、そのまま信用すれば、どうもそうではないようです。
幕府編纂者の編集方針
『寛政重修諸家譜』の掲載系図の配列は『新撰姓氏録』を踏襲して、「皇別、神別、諸蕃」の順に並べられています。
「皇別」というのは、天皇家からの分岐した氏族という意味で、武家系図でいえば源氏、平氏です。
「神別」は天皇系ではない貴族を先祖とする氏族で、藤原氏、菅原氏、物部氏などの系統です。
朝鮮半島や中国にルーツをもつと称する氏族が「諸蕃」。つまり、渡来系の氏族です。
上記写真の目次において、渡会氏までが「神別」で、秦氏から清川氏までが「諸蕃」です。
「神別」と「諸蕃」に挟まれた飯高、惟宗、豊臣の三氏は、何なのでしょうか?
『寛政重修諸家譜』では、こう説明されています。
飯高、惟宗のごとき、出所さだかならず。豊臣氏のたぐい、何れの別といひがたきものは、しばらく神別の下におさむ。
豊臣氏など三氏は分類不能だから、とりあえず、「神別」と「諸蕃」のあいだに置くといっているのです。
しかし、上記写真には、渡来系氏族に続いて、「未勘」という項目があり、「もろもろの姓氏、詳ならざるを未勘となづけ、諸氏のしもにをけり」と書かれています。
豊臣氏など三氏が分類不能なら、 「未勘」に入れればクリアーだとおもうのですが、なぜ、そうしないのか疑問です。
さらにいえば、幕府の編纂者は、惟宗氏を不詳扱いしていますが、渡来系であることを強く示唆しています。
惟宗姓神保氏の系図に注釈して、幕府の編纂者は、
と記しています。
惟宗氏(神保氏)については、限りなく渡来系に近いニュアンスで掲載されているわけですが、その次が豊臣氏、そして秦氏という配列には、悪意とまではいえないものの、意図的なものを見るのはゲスの勘ぐりでしょうか。
豊臣氏と惟宗姓島津氏
冷静に考えるならば、豊臣氏が惟宗氏、秦氏という有名な渡来系氏族のあいだに配置されたのは、「偶然」ということになります。
こういうのを奇遇というのでしょうか。
現代日本に住む歴史好きにとって、惟宗氏は比較的有名な渡来系氏族だとおもうのですが、その原因のひとつは、薩摩藩・島津氏の「史実としての系譜」が惟宗氏と考えられているからです。
昭和期に書かれた本には、島津氏の始祖を鎌倉将軍・源頼朝のご落胤としているものもありますが、最近は、そんなことはないようです。
『岩波 日本史事典』でも、「本姓は惟宗」と断じています。
『寛政重修諸家譜』の記事は、島津氏の始祖忠久について、惟宗氏の結びつきを詳述してはいるものの、薩摩藩島津家の自己申告を認めて、源頼朝の「御落胤」としています。
幕府の編纂者が御落胤説に「?」である雰囲気は行間から伝わるのですが、結局、頼朝の直系子孫と記載させたのは、西国の雄藩の政治力でしょうか。
島津氏は清和源氏の氏族として分類され、この膨大な系図集では冒頭に近いところに掲載されています。
もし、島津氏が小さな大名とか旗本クラスの家であれば、「惟宗姓 島津氏」として、豊臣氏の直前に配置されたかもしれません。
(つづく)