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桃山堂ブログ

豊臣秀吉の<謎>、火山と古事記の探究、電子書籍への挑戦。

豊臣秀吉ゆかりの地には稲荷神社があるという法則

稲荷信仰 豊臣秀吉

 

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大阪市の玉造稲荷神社には豊臣秀頼奉納と伝わる鳥居が残存する。

 

伏見城のそばに最大の稲荷社、大坂城のそばには最古の稲荷社

 

豊臣秀吉に関心をもったきかっけが、大阪市土佐稲荷神社の宮司さんから「秀吉さんは稲荷の信仰者」という話をうかがったことでしたので、どうしてもそのアングルから秀吉を見てしまいます。

 

 お稲荷さんは、きわめてありふれた神さまですから、豊臣秀吉ゆかりの観光地に稲荷神社があったとしても、ふつうであれば気にとめないはずです。

 

でも、僕は秀吉ゆかりの地に稲荷神を見出すたびに「やっぱり、あった!」とひとりで盛り上がり、そこには何か深い意味が隠されているのではないかと考えてしまいます。

 

その時点ですでに、独りよがりの妄想に毒されている懸念はあるのですが、そこに稲荷社があることは事実なので、ここでは事実関係だけを報告します。

 

 

秀吉の晩年の城で、死に場所にもなった伏見城は、伏見稲荷大社の近くにある──というより、双方とも広大な敷地なので、お隣さんといった感じです。

だから、秀吉と稲荷信仰のかかわりが深くなるのは、全国の稲荷神社の総元締めのようなこの神社のそばに引っ越したからではないかと、まず考えました。

 

 

しかし、そうとばかりはいえないのは、伏見城に先立つ大坂城のそばに玉造稲荷神社があるからです。

現在の大阪城公園の敷地からは五〇〇メートルくらい離れていますが、秀吉時代の大坂城でいえば、三の丸に鎮座していました。

 

由緒書によると、「豊臣秀吉公は稲荷神を崇敬し、当神社を大坂城鎮守神として祀った。また、大坂城における神事の多くは、当神社神職が執り行った」そうです。

秀吉時代の大坂城には、至るところに稲荷の祠があったとも伝えられています。

 

玉造稲荷神社が創始されたのは紀元前一二年と伝承されており、平成元年(一九八九)、皇族方も招かれ、創祀二千年祭がとりおこなわれています。

歴史学のうえでの事実であるかどうかは別としても、悠久の歴史をもつ古社であり、「元稲荷」として尊重される由縁です。

 

稲荷神社は全国で四万社とも五万社ともいわれますが、その総本宮を称する最大の稲荷社が伏見稲荷で、最古を標榜するのが玉造稲荷です。

 

秀吉の大坂城伏見城の所在地とほぼ同じ場所に、最古と最大の稲荷神社があるということだけをみても、奇異の思いにとらわれてしまうのです。

 

 

長浜城にも播磨の砦跡にも秀吉ゆかりの稲荷社

 

できるだけ合理的に解釈しようとすれば、秀吉は大坂城を拠点としたとき、偶然、近くにあった玉造稲荷を城鎮守としたことで、稲荷神への親近感を募らせ、晩年、稲荷信仰のメッカ伏見に居城を築いた──というストーリーが想定されます。

 

 

しかし、織田信長の家臣であったころ、秀吉が築いた長浜城滋賀県長浜市)にも稲荷社は祀られていた可能性が高いのです。

いまも城跡の一角に、城鎮守であったと伝わる小さな稲荷社があります。

 

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長浜城の城跡にも稲荷社がある。

 

 

長浜城は石垣が湖面に影をおとし、城内で舟に乗れば、そのまま漕ぎ出せるような水辺の城でした。

遺構はほとんど残っていませんが、城のかたちの市立博物館が建てられ、「秀吉資料館」になっています。

 

 

稲荷社は神社というより、祠といった趣です。

正一位 国守神社」と記した朱色の鳥居があり、稲荷社のそばにブロンズの秀吉像が立っています。

 

長浜城の城主となった天正二年(一五七四)、秀吉は三十八歳、織田信長は天下統一の途上にありました。

 

 

天正六年(一五七八)、秀吉は黒田官兵衛と手を結んで、播磨国兵庫県)の勢力と戦っていました。

神戸市北区八多町屏風に、秀吉がこのころ築いた砦の跡があり、「三本松砦」というそうです。

 

現地で確認しておらず、活字のうえだけの情報ですが、藤本光氏の『史跡太閤記』によると、「小さな稲荷社が祭られ、『史蹟三本松之趾』の標柱が立つのみである」(藤本光『史跡太閤記』一二五ページ)そうです。

 

同じ兵庫県の西宮市山口町には「太閤手植えと伝える相生の松が存在した。今は松はなく、白米稲荷の小祠が建つのみである」(同、一二七ページ) とも報告されています。

 

巨大な大坂城伏見城から、小さな砦に至るまで、秀吉ゆかりの地に、稲荷社が祀られていることがわかります。 

  

 

 秀吉を祭神とする豊国神社にも稲荷社はある

 

秀吉は死後、豊国大明神の神号を得て、京都の豊国神社の祭神として祀られることになります。

 

ゆかりの大名らによってその分霊が運ばれ、各地に豊国神社が設けられるのですが、江戸時代になると、秀吉を神として祀ることははばかられるようになり、ほとんどの豊国神社が姿を消しました。

 

 

したがって現在ある豊国神社の多くは、明治時代になって再建あるいは創設されたものです。

 

京都の豊国神社は、国立博物館三十三間堂のすぐ近くにありますが、豪華絢爛であった本来の豊国神社は徳川幕府によって破却されてしまったので、これも再建された建物です。

 

本殿に向って左側に「槙本稲荷」が鎮座しています。

朱色の鳥居が十本程度ならび、稲荷大明神と白く染め抜いた朱色の旗が鳥居にそって立てられています。

 

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京都・豊国神社の境内にある稲荷社

 

 

滋賀県長浜市の豊国神社はJR長浜駅から五分くらいのところにあります。

江戸時代も幕府の目を盗んで、えびす社を隠れ蓑として秀吉への祭祀が継続されていたそうです。

 

境内の稲荷社は、秀吉を祀る本殿の右に並んでおり、建物の大きさもほとんど同じです。

菅原道真を祭神とする天満宮(天神さま)も境内に祀られていますが、こちらはずっと小さい規模です。

 

神主さんがいたので、なぜ、稲荷を併せ祀っているのか聞いてみたのですが、
「秀吉さんが長浜城の守り神にしていたから」という以上の情報はありませんでした。

 

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長浜市の豊国神社。左は秀吉を祭神とする豊国社で、右が稲荷社。摂社というより、準主役。

 

 

大阪城にも豊国神社がありますが、白玉神社、若永神社という二つの稲荷社が境内摂社として祀られています。

(つづく)