桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

あまりにも個人的な関心、というか地縁からスタートした電子書籍シリーズ「秀吉伝説集成」

桃山堂の電子書籍シリーズ「秀吉伝説集成」は、編集者であり著者陣のひとりでもある蒲池明弘のあまりにも個人的な関心事からスタートしています。紙の本では難しいニッチなこだわりを作品化できるところが、電子書籍のメリット。

とはいえ、当然の結論ながら、お金を出してそうした作品を購入していただける奇特な方はほとんどいないことが判明したので、こうしてほぼ全貌をブログで公開している次第です。

 

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税金を払え! とすごんでいるわけではありません。福岡県筑後市の守護神となっている翼のある犬「羽犬」。

 

福岡県の八女市黒木町はわが御先祖の土地

 

本の企画を立てるとき、著者や編集者の個人的な関心からスタートするというのは当たり前のようですが、現実には、「どれくらい売れそうか」という算盤勘定の比重がつよまっているのが、昨今の風潮ではないでしょうか。

著者や編集者の〈熱〉のようなものの気配を感じない本も少なくありません。

 

「秀吉伝説集成」は、史実とはいえないかもしれないけれど、豊臣秀吉という歴史上の現象の〈真実〉に触れているかも知れないという伝説や伝承を紹介しようという企画なのですが、その出発点のひとつが、秀吉と羽犬の伝説です。

 

翼のある犬という存在そのものが史実である可能性はゼロですが、それなのに、伝説として今日においても生命力をもっているのは、なにがしかの真実をふくんでいるのではないか──とおもうのです。

 

しかし、そもそも、どうして私が羽犬伝説を知っていたかというと、父親までの先祖代々が暮らしていた福岡県八女市黒木町笠原という熊本との県境に近い山間地で、そこ行くためには羽犬塚駅から、バスに乗る必要があるからです。

 

かんたんに言えば、お祖父さん、お祖母さんの家に行くとき、羽犬塚を通るわけです。

 

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標高五〇〇メートルを超えるとおもうのですが、段々畑があり、お茶とかお米とか、作っています。

 

 徐福伝説の古墳

 羽犬塚駅からバスで30分くらいのところに山内という集落があり、そこの真如寺というお寺に先祖代々、世話になっているのですが、この寺のすぐそばに「童男山古墳群」があります。

 

円墳がほとんどですが、30基くらいの古墳が集積しています。6世紀の古墳らしいです。

このあたりは、ほんとうに古墳がゴロゴロしているところで、八女古墳群と称されていますが、正確にいえば、童男山古墳群のようないくつもの古墳群をまとめて、八女古墳群と称しているわけです。

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 このパネルに書かれているように、童男山古墳には、いわゆる「徐福伝説」があります。

 

徐福伝説は各地にあるので、その真偽を詮索しても詮ないことだとおもうのですが、徐福はさておいても、この地域には、渡来系の人たちが活動していた濃厚な形跡があります。

 

わが先祖の地・黒木町の地名は、女優・黒木瞳の芸名の由来でもあるのですが、この地には、黒木氏という武士団がいました。

 

黒木氏は大蔵氏の流れをくむ渡来系の一族とされています。

渡来系のなかでは、漢氏と称される人たちです。

 

八女市の山間地には、星野という集落があり、歴史上、有力な金山のあったことはすでに申し上げました。

星野氏と黒木氏は同族とされ、ともに渡来系と目される人たちです。

 

徐福伝説の背景にあるのは、こうした渡来系氏族のうごめきであるのは間違いないとおもうのです。

 

中国なのか朝鮮半島なのかわかりませんが、危険を顧みず、日本列島に渡ってくる目的は、この地にあった黄金資源なのではないでしょうか。

 

先に申し上げたとおり、羽犬伝説を「黄金を探す犬」として理解できるならば、徐福伝説ともゆるやかにつながるとおもうのですが、いかがでしょうか。

 

秀吉と羽犬伝説と前方後円墳

 福岡県筑後市羽犬塚という地名の発祥をめぐって、豊臣秀吉と「羽犬」すなわち翼のある犬の伝説が語られています。こじつけめいた話をいろいろ書いてしまいましたが、私が秀吉と羽犬の伝説が気になって仕方がない最大の原因は、羽犬伝説の地、筑後エリアに九州では最大級の古墳群が存在するからです。このブログでも、たびたび話題にしているとおり、秀吉と古墳には無視しがたい結びつきがあるように見えるからです。

 

(以下の記事は、電子書籍「秀吉伝説集成」の一作『秀吉と翼の犬の伝説』の内容紹介です)

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この前方後円墳のそばの道を、秀吉ひきいる大軍勢が通って、薩摩へと向かった。

 

 

そこは北部九州最大の古墳群

羽犬塚のある福岡県筑後市に有名な企業、観光地はありませんから、自治体としての知名度は低いとおもいます。筑後市とは、どのような地域なのでしょう? 国立国会図書館ウェブサイトにある資料検索で、「筑後市」として調べてみると、百件ちょっとの資料がありますが、そのうち九十件以上が、古墳や遺跡など文化財発掘の調査報告書です。筑後市には前方後円墳、円墳をはじめ、おびただしい数の古墳時代の遺跡があります。

 

筑後市から久留米市、八女郡広川町、八女市へと連なる低い丘陵地帯には、大小三百基ほどの古墳が群集しており、「八女古墳群」と呼ばれています。北部九州では最大の古墳集積地です。この古墳群で最大の前方後円墳「岩戸山古墳」(全長一三五メートル)は、継体天皇との紛争の主役である筑紫君磐井の墓だといわれています。

 

羽犬塚のある筑後市は、古代の記憶をたたえた古墳の町です。羽犬塚の「塚」は、古墳を指す言葉でもあるので、羽犬塚という地名そのものが古墳とかかわる可能性があります。

 

羽犬塚が北部九州で最大の古墳エリアに位置することに注目するのは、秀吉をめぐる史実と伝承において、古墳にかかわる話が目につくからです。

 

秀吉の母親の出生地は名古屋・御器所とされていますが、八幡山古墳をはじめとして古墳の多いところで、東海地方で最大の前方後円墳である断夫山古墳(全長一五〇メートル)も徒歩一時間圏にあります。秀吉母子が参詣していたという伝承をもつ高座結御子神社熱田神宮境外摂社)の稲荷社は小さな円墳と一体の神社です。

 

羽犬塚から二キロほどのところにある岩戸山古墳と名古屋の断夫山古墳は、天皇陵を除けば、六世紀に造営された古墳のなかで第一位、第三位にランクされ、同じ設計プランによって造営されたとも考えられています。

 

古墳の視点を借りると、名古屋と羽犬塚のある筑後地方には共通点があるわけですが、別の言い方をすると、六世紀の継体天皇の時代、尾張筑後地方は、日本列島で有数の政治勢力であったということです。

 

断夫山古墳の埋葬者とされている尾張氏は、継体天皇に配偶者を送り込んで外戚になるなど強い提携関係にあります。筑後の筑紫君磐井は継体天皇と敵対して激しい戦いになりますが、それ以前においては、継体天皇を支える勢力の一翼を担っていたという説もあります(水谷千秋『継体天皇朝鮮半島の謎』ほか)。

 

石の兵士の守る前方後円墳のそばで

八女古墳群で最も古い前方後円墳は、羽犬塚の集落から北東二キロほどのところにある石(せき)人山(じんさん)古墳(全長約一一〇メートル)です。筑後市と八女郡広川町をまたぐように鎮座しており、この前方後円墳のそばに一條という集落があります。

 

九州遠征における秀吉の行軍ルートについてはいくつかの地域伝承があり、「太閤道」と呼ばれています。史料や伝承をもとにそれをまとめた労作『太閤道伝説を歩く』(牛嶋英俊)は、筑後市前後のルートについて、

 

秀吉通過の道筋はおおむね久留米市府中から広川町相川・一条、筑後市羽犬塚をへて長田にいたる。その間、太閤道の伝承は広川町一条のみだ

 

 

と説明しています。この地域では最古の前方後円墳のある集落だけが、秀吉についての記憶を伝承しているのです。

 

八女古墳群のよく知られた特徴は、古墳の墳丘に埴輪ではなく、石の造形物が置かれていることです。「石人」と呼ばれる古代の鎧兜に身をかためた武人の石像はその代表的なもので、石人山古墳という名称の由来となっています。いま、この古墳を訪ねてみると、横穴式石室のそばで、小屋に保管された「石人」を見ることができます。ほんとうに人間の大人と同じくらいの大きさです。緻密な文様の彫られた石棺も有名です。

 

住民が伝承する「太閤道」は、石人山古墳の外周をなぞるように伸びている三メートル幅の道です。農道に毛の生えたような道ですが、この道を行軍してきた秀吉は古墳のかたわらで休息をとり、そのとき、一條集落の住民が一服の茶を献上したというのです。こうしたことが「太閤道」の伝承として、この集落で語りつがれてきたそうです。

 

秀吉と古墳のつながりについては、当ブログのカテゴリー「古墳/土師氏」にいろいろな記事を載せています。 →

 

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秀吉伝承がのこる「太閤道」。この道を秀吉ひきいる大軍勢が通り抜けた。

羽犬伝説──「金属を探す犬」という民俗学的知見から考えると

 福岡県筑後市羽犬塚という地名の発祥をめぐって、豊臣秀吉と「羽犬」すなわち翼のある犬の伝説が語られています。そもそも、どうして犬なのだという疑問を解き明かす手がかりを、「金属を探す犬」という民俗学のキーワードに求めてみます。

(以下の記事は、電子書籍「秀吉伝説集成」の一作『秀吉と翼の犬の伝説』の内容紹介です)

 

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筑後市羽犬塚には、こんな看板も。

 

 

 犬の嗅覚は地下資源を発見することができるのか

織田信長の家臣であったころの秀吉は、中国方面軍の司令官として播磨国の姫路城を拠点としていました。もとは黒田官兵衛(如水)の城です。黒田家は江戸時代も大名家として存続し、筑前国(福岡県北部)の藩主となったのはご存じのとおりです。

 

播磨国は古代から鉄、銅など金属資源の豊かなところですが、『播磨国風土記』の讃容郡の条に、金属文化と「犬」についての注目すべき記述があります。ほぼこのような内容です。

 

山の四面に十二の谷がある。どの谷も鉄を産出する。孝徳天皇のとき、はじめて献上した。鉄の鉱脈を発見した人は別部(わけべの)犬(いぬ)である。

 

「別部犬」をふつうに解釈すると、別部がファミリーネーム、「犬」が個人名ということになりますが、別部という人が飼っていた犬という解釈も可能です。

 

日本刀研究者の近江紀夫氏はこの文面について、「犬の嗅覚を利用して地中の鉱物資源を探索する技術があったことにもとづくもの」(『刀剣と歴史』二〇一一年十一月号)と述べています。

 

皇学館大学教授で、住吉大社などの神職でもあった真弓常忠氏は「犬」について、さらに踏み込んだ解釈を提唱しています。この方面では、評価の高い『古代の鉄と神々』という本から引用します。 

「犬」とは、製鉄の民の間では砂鉄を求めて山野を跋渉する一群の人びとの呼称であった。つまり製鉄の部民にほかならない。(中略)「犬」が製鉄の部民を意味すると知るなら、犬上、犬飼、犬養の氏や地名も、これをたばねる人びとをいうことと判明しよう。

 

鉄の探索者が犬と称されたのは犬をともなって、山野をめぐっていたからだという説明です。犬はすぐれた嗅覚によって金属資源のありかを探り出すことができたかどうかは不明ですが、そう信じられていたのは事実です。

 

江戸時代に書かれた「たたら製鉄」にかかわる技術書『鉄山必要記事』のなかにある祭文、つまり祭祀のときの唱え言葉のなかにも犬がでてきます。およそこんな内容です。

 

金屋子神は高天が原から播磨国に天降り、はじめて金属の道具をつくったが、やがて白鷺に乗り、西に向かい、出雲国に至り、山林の桂の木のうえで休んでいた。数多くの犬をつれた狩人がそこを通ろうとしたとき、犬が桂の木で輝く光をみつけて吠えたてた。狩人が問うたところ、「私は金屋子神である。この地で鉄をつくる仕事をはじめたい」と答えた。

 

播磨国から出雲国への技術者集団の移動と解釈されている一文ですが、「鉄」の神である金屋子神を、犬が発見するという筋立てになっています。

「鉄」の神が白鷺に乗って移動するというのですから、こじつけかもしれませんが、羽犬伝説と同じく、犬と鳥の伝説ということになります。

 

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これは羽犬塚小学校まえの羽犬銅像

 

柳田国男の「黄金小犬」伝説

犬は鉄だけでなく、黄金を探す能力ももっていると信じられていたことを「花咲かじいさん」は物語っています。童謡の歌詞にはこう描かれています。

 

裏の畑でポチがなく

正直じいさん 掘ったれば

大判 小判が ざくざく ざくざく

 

柳田国男の昔話についての論考『桃太郎の誕生』では、「黄金小犬」という伝承がとりあげられています。「花咲かじいさん」と似た話なのですが、「黄金小犬」は九州およびその南の島々に伝わる話だというので、九州・薩摩に注目する本稿にもかかわる問題です。要約するとほぼこのような話です。

 

二人の兄弟のうち、弟は親孝行で死んだ親を懇ろに供養したが、兄はその正反対だった。ある日、いつものように弟が墓参りをしていると、墓のなかから犬が飛び出してきた。家に帰って、飯を食わせると、犬は黄金の糞をした。それをうらやんだ兄が犬を借りてゆき、大量の黄金を手に入れようと、一升の飯を食わせたところ、犬は死んでしまった。弟はそれを悲しんで犬を丁寧に埋葬したところ、そこから木がはえ、黄金の実をつけた──。

 

現代社会においても犬は、その鋭敏な嗅覚によって、覚醒剤犯罪の捜査から地雷の探査までさまざまな領域で活躍しています。

民俗学が報告する「金属を探す犬」や「黄金小犬」を羽犬伝説と照らし合わせてみると、秀吉の九州遠征の部隊には、金銀鉱山の専門家である山師も同行しており、金属探査能力を持つ(と信じられている)犬が実在していた──という想定は可能です。あるいは、金属資源を探査する人そのものを「犬」と呼んだという説もあるので、動物の犬であるとも、特殊技能をもった鉱山師であるともいえます。

 

 

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電子書籍『秀吉と翼の犬の伝説』の立ち読みリンクを用意しました。

秀吉と翼の犬の伝説 - つながりで読むWebの本 YONDEMILL(ヨンデミル)

 

yondemill.jp

羽犬伝説と黄金アイランド・九州

福岡県筑後市羽犬塚という地名の発祥をめぐって、豊臣秀吉と「羽犬」すなわち翼のある犬の伝説が語られています。前回は、黄金を守護する聖獣グリフィンと羽犬との形態的類似について話題にしました。今回は、羽犬が黄金にかかわる可能性について、羽犬伝説の地、九州・筑後地方の地質条件から検討してみます。

(以下の記事は、電子書籍「秀吉伝説集成」の一作『秀吉と翼の犬の伝説』の内容紹介です)

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羽犬塚小学校まえには、秀吉と羽犬の銅像

 

黄金の王国・薩摩

 

ご承知のとおり、豊臣秀吉による天正十五年(一五八七)の九州遠征は、薩摩国鹿児島県)の島津氏を討伐することが目的です。

羽犬伝説のある福岡県筑後市を、秀吉の大軍勢が通過したのは、鹿児島に向かう途中でした。

今日の交通網でみても、JR羽犬塚駅は博多から鹿児島に向かう鹿児島本線の駅です。

 

突然ですが、クイズです。

日本列島のすべての金の鉱山のうち、過去からの累計の総産出量が、いちばん多いのはどこかご存じでしょうか。

 

新潟県佐渡金山。

 

ブー。

 

正解は、鹿児島県伊佐市菱刈鉱山佐渡金山は第二位です。

菱刈鉱山は一九八〇年代に発見された現役バリバリの鉱山です。その金鉱石は世界でも最高レベルの純度で、またたくまに佐渡金山の累計生産高を超えてしまいました。

 

鹿児島大学の教授をされていた浦島幸世氏の著書『金山』(春苑堂出版)によると、県別に過去からの累計で金の産出量を調べると、鹿児島県が一位で次いで北海道、新潟、静岡、大分という順になるといいます。

 

黄金の国ジパングの伝説はすこし大げさであるとしても、世界地図のうえでいえば、日本列島は太平洋をとりまく黄金や銀の集積エリアのうえにあります。

その日本列島でも、最も豊富な黄金をかかえもつエリアが薩摩国

秀吉の九州遠征の目的地です。

 

黄金太閤と黄金の国・薩摩。

 

何かの気配があります。

 

地球物理学のプレートテクトニクス理論によると、太平洋、フィリピン海など、海洋にあるプレートが大陸をのせたプレートの下に沈み込もうとするひずみが、地震や火山をつくりだしているというものですが、太平洋をとりまく火山と地震のラインは金、銀の集積地と重なっているのです。

 

九州はフィリピン海プレートユーラシアプレートの接点に形成された火山の集積地で、阿蘇桜島をはじめ、おびただしい火山が集積しています。

 

金、銀の鉱床ができる要因はいくつかありますが、マグマのなかの貴金属鉱物が熱水に溶け、岩の割れ目にそって鉱脈を形成するというタイプが火山エリアの金山、銀山です。熱水鉱床といいます。

 

九州とくに鹿児島県に、金山が多いのはこうした地質学的な条件によります。

 

火山の王国・九州は、黄金アイランドでもあるのです。

 

羽犬伝説の筑後地方も金山エリアの一角

 

菱刈金山、佐渡金山と比較すると、産出量、知名度ではずいぶん落ちますが、第五位に福岡・大分の県境エリアにある鯛生金山(大分県日田市)が入っています。

現在でもそうですが、地理的な条件によって、日田市は福岡県の筑後地方との結びつきが強く、鯛生金山で採れた金鉱石は羽犬塚で集積され、鉄道で運ばれていました。明治期には東洋一の金山の異名をもっていましたが、一九七二年、閉山しています。

 

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すでに閉山した鯛生金山の内部。ここで採掘された金は羽犬塚へ運ばれていた。

 

福岡県が金の産地だというイメージをもつ人はあまりいないかもしれませんが、福岡県南部の筑後地方から大分県日田市にかけてのエリアには、鯛生金山と鉱脈を同じくするいくつかの金鉱山がありました。

 

現在は合併により福岡県八女市の一部になっていますが、鯛生金山から北西十キロほどのところに星野村があり、金山の歴史によって知られています。

八女市羽犬塚のある筑後市と隣接しており、公共交通機関をつかって星野村に向かう場合、JR羽犬塚駅で星野行きの路線バスに乗り換えることになります。

 

一般には星野金山と呼ばれていますが、星野と鯛生金山のあいだにはいくつもの金鉱山が開発されています。

時代をさかのぼると、星野村南北朝時代、九州における南朝勢力の拠点のひとつでした。九州の南朝勢力は、後醍醐天皇によって派遣された懐良親王を擁して、大宰府を拠点に北朝勢力を制圧していた時期もあります。しかし次第に退潮し、各地の拠点を失ったあと、懐良親王の「御所」が山深い星野村にあったという伝えがあります。この時期の金の生産、採取については不詳ですが、金を抜きにして、九州南朝を支える経済力の源泉を考えることは不可能です。

本格的な鉱山ではないとしても、砂金による採取は相当古い時代に始まっていたようです。星野金山は採掘の休止と再開を繰り返しながら、鉱山としての命脈を保っていましたが、昭和期にすべての鉱山が閉山しています。

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写真は八女市役所星野支所提供。

 

 

星野氏は黄金の探索者

鎌倉時代のころから、星野村を拠点とする星野氏という武士団の動向がみえます。秀吉の九州遠征を控えた前哨戦において、星野一族は薩摩の島津方に立って参戦、当主の星野鎮胤と弟の鎮元が戦死し、星野エリアの領主であった星野氏は滅亡しています。金鉱山の利権がかかわっていたのかどうかわかりませんが、微妙な時期に星野氏は歴史の舞台から消えています。

 

通説的には星野氏は渡来系の調(しらべ)氏の系譜とされ、渡来氏族の分類のうえでは東漢氏とされています。別説では、多田源氏の系譜ともされますが、その発祥地である兵庫県川西市の多田は秀吉との因縁も浅からぬ銀山のあるところで、どちらにしても鉱山にかかわります。

 

星野の地名、名字を話題にする理由は、金山のことに加えて、秀吉の血縁者だともされる福島正則の本来の名字は、星野だという説があるからです。江戸時代に書かれた大道寺友山の『落穂集』では、福島正則と秀吉は父親どうしが腹違いの兄弟とされているので、秀吉の父親の名字は星野氏だという説も出されています(櫻井成廣「現存する豊臣氏の血統」)。

 

中公新書福島正則』(福尾猛市郎、藤本篤)は、福島正則が星野一族の生まれで福島家に養子に出されたという所伝を肯定的に紹介しています。

 

星野が本姓であるという説は、まんざらでたらめとも思われない節がある。正則の重臣には星野姓の者が福島姓に次いで多いことが、その一つである。(中略)星野姓が福島姓の隠語に使えるほど意味の深いものであることは間違いないようで、正則養子説を肯定させるものがある。

 

 

筑後地方の星野氏とは直接むすびつかない話ですが、星野の名字が秀吉の周辺にちらついていることは注意すべきことです。

 

浦島氏の著書『金山』によると、鉱石に金が含有されているといっても多くの場合、千分の一ミリ程度の金粒があるかどうかという話です。しかし、まれにはミリ単位の金粒があり、それは「トジ金」と呼ばれるといいます。トジ金のトジには、石偏に「辰」という和製漢字があてられることがあるそうですが、浦島氏は「つくりの辰は星のことだから、これも意味がありそうだ」と述べておられます。石偏に「辰」という奇妙な文字は、星のようにキラキラと輝く石、すなわち黄金の粒ということです。

 

筑後地方にある星野という地名は、金粒や砂金によって地面や川の水底が星のように輝いていたことに由来するはずです。その地を名字とした九州の星野氏は、渡来系あるいは多田源氏系の黄金探索者の気配がします。

 

福島正則や秀吉との関係がいわれている尾張の星野氏が、金銀の探索にかかわる人たちであるかどうかは不明ですが、黄金太閤秀吉の血縁者なのですから非常に気になる話ではあります。

 

 

このブログでも何回か話題にしているように、秀吉の母方は渡来系の鍛冶の子孫であるとする系図があります。

黄金にしても、製鉄にしてもそうですが、金属にまつわる技術系譜には明らかに渡来系の文化が関係しています。

 

すべては朦朧とした伝承世界の言説ではありますが、秀吉はそのあたりの人脈と結びつく気配が漂っています。

 

 

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電子書籍『秀吉と翼の犬の伝説』の立ち読みリンクを用意しました。

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