桃山堂ブログ

歴史、地質と地理、伝承と神話

『古代氏族系譜集成』の宝賀寿男氏による拙著『邪馬台国は「朱の王国」だった』の解説的書評の紹介

『古代氏族系譜集成』という本をご存知でしょうか。

国立国会図書館の開架式の部屋のひとつ人文総合情報室には、系図・系譜にかかわる文献を並べているコーナーがあり、太田亮『姓氏家系大辞典』などの基本文献とともに、宝賀寿男氏による『古代氏族系譜集成』(上中下巻)が置かれています。

史料が少なく、判然としないことの多い古代の諸氏族について考えるとき、欠かすことのできない基本文献です。

 

 著者の宝賀寿男氏は、日本家系図学会・家系研究協議会の会長で、大蔵省(現財務省)のキャリア官僚であったという面白い経歴の持ち主です。

 

宝賀寿男 - Wikipedia

 

拙著『邪馬台国は「朱の王国」だった』(文春新書)を書いたとき、『古代氏族系譜集成』を引用させていただきました。

また、息長氏かんけいの文献を渉猟していたとき、最も詳細でポイントの定まったデータを、宝賀寿男氏の『息長氏──大王を輩出した鍛冶氏族』(古代氏族の研究⑥)から学びました。

 

息長氏―大王を輩出した鍛冶氏族 (古代氏族の研究)

息長氏―大王を輩出した鍛冶氏族 (古代氏族の研究)

 

 

実は、私が運営している桃山堂という小出版社の企画で、宝賀寿男氏といっしょに本をつくったことがあります。

宝賀氏による系図学的な論考と私の現場取材を合体した内容です。

 

豊臣秀吉の系図学 近江、鉄、渡来人をめぐって

豊臣秀吉の系図学 近江、鉄、渡来人をめぐって

 

 

宝賀氏から、日本家系図学会の会誌『姓氏と家系』に、拙著『邪馬台国は「朱の王国」だった』(文春新書)の解説的な書評を載せる予定だとうかがい、その一部を当ブログに掲載させていただくことになりました。

 

宝賀氏による書評は、拙著の紹介とからめて、丹生氏という古代氏族の動向を、九州から近畿にかけて検討するものです。

 ここで紹介するのは、主に九州西部(長崎県佐賀県)における丹生氏およびそれに関係しそうな一族の動向です。

私は小学校から高校まで長崎県で育ったこともあり、とくに興味ぶかく読んだくだりです。

 

日本列島における朱・水銀の分布において、長崎県佐賀県は「九州西部鉱床群」と命名され、四大朱産地のひとつになっています。

 

古代において朱の採掘にかかわっていたとされる丹生氏。

丹生氏とのかかわりが議論されている丹治氏、丹党を称する一族。

現在の長崎市に相当する地域を拠点とした長崎氏という中世の武士が、丹治氏にかかわるという謎。

 

それと、古代中国史に、「丹朱」というまさに朱の名を背負ったような人物がいることを紹介したくだりも必読です。(原稿内赤字部分)

 

そのあたりに興味のある方は、『姓氏と家系』の次号(2018年12月刊行予定)をご覧いただければとおもいます。

 

 

朱丹とその関連氏族─蒲池明弘著『邪馬台国は「朱の王国」だった』を読む─

<※ 未定稿からの抜粋。改行、赤字表記など一部変更>

宝賀 寿男

はじめに

豊臣秀吉系図学』を共著という形で刊行させていただいた蒲池明弘氏が最近、出された著作が『邪馬台国は「朱の王国」だった』(文春新書一一七七。二〇一八年七月刊)であり、これを読ませていただき、いろいろ示唆・啓発を受け、朱丹の取り扱い氏族という視点を加味して上古史検討を試みたので、ここに記す次第である。

古代史研究にあたって、あくまでも史実原型を探求し、分析するという「人文科学」の視点でやっていく立場と、史実を踏まえながらも古代史にロマンを求めて様々に検討するという立場があるのかなぁというのが、読後の偽らぬ実感であった。本書は学術論文ではないから、後者の立場がかなり入り込む余地があるということであり、逆にそれだけ本書の記事展開、運びが面白く、より興味深くなってくることにもなる。著者も自ら、「仮説にもとづく一種の思考実験」だとも書かれている。といって、本書が荒唐無稽のことを書いているわけでは決してないことも、誤解なきよう言い添えておきたい。むしろ、読者が「議論の当否を判定するためのデータをできるだけ多く提供するよう心がけ」たものだから、自分の頭で古代の事象・事件を考えるタイプの読者には、面白い本ではなかろうか。

なぜ、こうしたことを先に書いたかというと、標題の『邪馬台国は「朱の王国」だった』かについては、私はもともと疑問に思っているからでもある。だからといって、それが誤りだとも言えず、「朱、朱丹」(主に朱砂・辰砂のことで、朱色の硫化水銀。ただ、古代の「丹」には、褐鉄鉱・赤鉄鉱・酸化鉄〔赭〕などのベンガラも含まれたようである)という物だけで邪馬台国論を展開しても、所在地比定の決め手にはなり難いというのが一つの判断だ、と考える。

(中略)

日本列島の四大朱産地のうち九州の鉱床二群

次ぎに、九州の朱産地たる大分県と長崎・佐賀両県にまたがる「九州西部鉱床群」に注目される。これが、佐賀県西南部の多良岳から北方の嬉野市長崎県北部の松浦市にかけての地域にある。拙見では、息長氏は天孫族系統の出とは言え、支流の宇佐国造の流れとみており(拙著の古代氏族シリーズ『息長氏』参照)、九州西部の上記地域には、古代に紀伊国造支族の葛津立国造がおかれた事情があるからである。

 

葛津立国造は「国造本紀」に「志賀高穴穂朝御世、紀直同祖、大名草彦命の児、若彦命定賜国造」と見えており、この「若彦命」とは、景行天皇の九州巡狩に随行した紀直等の祖・稺日子命にあたり、藤津郡能美郷の土蜘蛛を討伐したと『風土記』に見える。だから、この九州巡狩に随行した故に当地に留めおかれた国造ではないかとみていたが、古来、朱丹の産地であったのだから、むしろこの地が紀伊国造を含めた大和朝廷を構成した山祇族系諸氏族の故地だったのかもしれない。

葛津立国造の領域は肥前国藤津郡が中心であったが、旧藤津郡(現・佐賀県嬉野市)の塩田町大字馬場下の丹生神社を中心にして、丹生神社が七社と多く分布する。馬場下の神社は宮の元丹生神社と呼ばれ、藤津郡唯一の国史見在社で、旧県社であって、祭神は丹生大神(月読命)・罔象女神とされる。

 

この一帯の塩田川流域には丹生神社が多くあり、嬉野市域に川上丹生神社(嬉野町大字不動山字丹生川)、平野丹生神社(嬉野町大字不動山字平野)、湯野田丹生神社(嬉野町大字下宿字湯野田)、井手河内丹生神社(嬉野町大字下野字井手河内)、大草野丹生神社(塩田町大字大草野)があり、鹿島市域に五の宮神社(大字森)がある(『佐賀県の地名』など)。塩田川の上流部には丹生川があり、藤津郡長崎県東彼杵郡の郡境の虚空蔵山に源を発していて、この山がこの流域に朱をもたらしたと蒲池氏がいう。

 

馬場下の神社は、同社蔵の「丹生神社由来記」に拠ると、天智天皇の代に藤原武智麻呂の次男主殿守が氏を馬場と改め、その社人となったと伝える。中臣氏も紀伊国造と同族であったことは「丹生祝氏文」も示すものであり、主殿守の伝承はこの者が『尊卑分脈』に見えず、実在が疑問だとしても、両氏族の故地をこの藤津郡に求めてよいのかもしれない。

 

佐賀県の地名』では、丹生神を、「塩田川流域の開発に伴って、その水系を支配する水神として崇敬されたものであろう」とする。丹生神社を水銀と関係付けるむきを否定的代にあったのであれば、今は殆ど枯渇したとしても、こちらとの関連がむしろ自然である。

蒲池氏が本書で取り上げる波佐見鉱山は、長崎県東彼杵郡波佐見町嬉野市の西北に隣接)にあって明治期に金・銀が採掘された鉱山であるが、この波佐見鉱山や相ノ浦鉱山も朱産地とされる(上記の辰砂鉱山鉱石の分析論文)。彼杵郡も葛津立国造の領域内だとみられる。同郡には東彼杵町川内郷の小字に丹生河内の地名もある。

肥前筑前の丹治姓一族の活動

彼杵郡大村郷から起こった大村氏は、鎌倉初期までは藤津庄を本拠としていたといわれ、中世豪族として活動し蒙古合戦でも名が見え、大村純忠などを出して幕藩大名にもつながる。一族諸氏が多いが、これらは藤姓で純友後裔を称したものの、葛津立国造の族裔とみられる(太田亮博士)。肥前筑前の中世豪族に丹治(多治)を名乗るものもあり、とくに彼杵・高来郡に文永・弘安の蒙古襲来時に「貫首丹治」、丹治重茂が見え、後に戸町・大串・長崎(永埼)などの名字を名乗るが、これら諸氏も同じく葛津立国造の族裔かもしれない。丹生神社の奉斎(及び朱丹の採取)で、丹治姓が九州にも生じたものか。

 

関東でも、将門の乱に見える多治経明など多治姓の武士は、丹生関係者の流れをひいた可能性がある。いま「丹治」の名字は福島県に分布が多いというが、十三世紀代頃から岩代磐城地方に見え、信夫郡福島などの稲荷社・八幡社の神主に丹治播磨・丹治相模の名が見える。その由来は不明だが、地域的に考えて武蔵の丹党(丹治党)と遠祖が同じ一族か。

関連して言うと、「丹南鋳物師」(河内国丹南郡日置荘、現・大阪府堺市あたりに居住した鍛冶)で名高く、関西を中心に多数の梵鐘鋳造をてがけた鋳物師のなかには、丹治久友など丹治姓の人々が見えるが、その系譜も不明である。常陸の信太郡の般若寺の建治元年(一二七五)の鐘銘にも「大工丹治久友」の名が見える。鎌倉期には、「大工丹治国則」「大工丹治国真」などの名も見える。

 

平安中期の刀伊入寇のときに大宰帥藤原隆家に従った武士に筑前国怡土郡住人の多治久明がおり(『小右記』)、その半世紀ほど前の天暦年間にも筑前の多治氏が『西宮記』に見える。鎌倉期の文永年間にも、「筑前飯盛社古文書写」に「惣検校丹治」が見える。同国糟屋郡の豪族薦野氏は長く丹治姓を称したが、これらの族裔か。

 

平安時代に丹治式部少輔峯延が築いたという薦野城(臼岳城)の旧跡が福岡県古賀市北東部にある。太田亮博士も、この氏は武蔵丹党の族と伝えるが、おそらく多治久明の後かとみる。薦野氏は戦国期・江戸期に立花氏や黒田氏の家老で見え、主君から賜った立花の名字も称した。剣豪宮本武蔵の弟子の流れに立花峯均がおり、武蔵についての書『丹治峯均筆記』を著わしたが、薦野一族の出である。大宰府の丹治恒頼が弘安七年(一二八四)、薩摩の浄光明寺の梵鐘を鋳造した記録も残る(『薩摩藩旧記』)。このように、系譜不明ながら肥前筑前には丹治・多治姓の人々の活動が長く見える。

 

藤津・彼杵両郡まで「魏志倭人伝」の末盧国の領域ではなかったろうが、この辺まで邪馬台国勢力圏だったという想定は、あまり無理がないと思われる。このように九州の二つの朱丹鉱床群を見ると、政治史的には九州西部鉱床群のほうに大きな魅力を感じる(「日向三代」に神話の舞台も、実際には筑前沿岸部であり、この辺で南部鉱床群を重視する蒲池氏とは異なる)。いまは資源が殆ど枯渇していても、西部鉱床群が伊都国・奴国などの領域あたりの弥生墳墓など、北九州の上古墳墓に使用された朱の産地でもあったのかもしれない。

 

天皇家を含む天孫族が日本列島に渡来した時、その始祖たる位置づけをもつ五十猛神の率いた小集団が、韓地から肥前国松浦に上陸した後では、松浦川を遡って山間地を南方へ抜け、佐賀平野の西端部に出たという移動経路を、私は考えてきた。この経路のなかで、藤津郡あたりに本拠があった山祇族と連携・通婚して、その種族の女たる丹生津比売(罔象女神)を嫁に迎え入れたものとみている。この両種族連携の勢力は、ともに佐賀平野を東に進んで、筑後川の中下流域を中心に筑後肥前あたりに部族連合国家圏を形成したが、これが当初の邪馬台国勢力圏だと考えられる(対立した筑前の海神族系の奴国を後に降して、勢力圏を拡大したのが魏朝の時代の勢力圏だったか)。

 

そのときに、天孫族勢力は筑後御井郡久留米市あたりに邪馬台国高天原)を形成し、肥前・基肆郡(鳥栖市三養基郡基山町)あたりに山祇族が部族国家の形成をしたのではないか、と私はみている。丹生氏も当時は未分岐で、山祇族のなかに包摂された状態であったとみられる(伊都国に丹生氏の先祖があったという丹生廣良氏の見方には与し得ない)。

 

吉野ヶ里遺跡にあった原始部族国家も邪馬台国連合圏の主要国を構成したとみられるが、弥生時代築造の支配層のものとみられる北墳丘墓で見つかった十四基の甕棺墓のうち八基で副葬品が発見されており、甕棺墓一基を除き、いずれも細形銅剣一本が死者の側に置かれた状態にあって、ここでは水銀朱も多量に検出された。


これらの諸事情に、甕棺墓が縄文期から北九州に見られ、この地域で弥生時代前期~中期において最盛期を迎える事情を考え併せると、当時のこの地域の支配層を構成する山祇種族(火神・月神を祭祀)の墓だったか。弥生期の棺墓に赤色を塗ったことについて、祭祀説や腐食防止説などがあるが、火の赤さに通じるような気もする。もっとも、吉野ヶ里遺跡からは三千五百基以上検出された墓のなかで十一基の石棺墓(弥生後期)もこれまでに出ていて、内面には赤い顔料が塗られており、こちらは天孫族系かもしれず、あるいは築かれた時期により墓の形状が異なる場合もあるのかもしれないのだが。

 

蒲池氏があげる弥生後期後半の泊熊野甕棺墓(糸島市北部)に大量の水銀朱が副葬されたこともあり、こちらは伊都国の領域であった。弥生後期の奴国中心地域たる比恵遺跡群や伊都国中心地域たる三雲遺跡群からも、多量の朱が埋葬施設から出ている。古墳時代になると、広範囲に墓室内で朱や朱塗り棺が使われるようになる。


蒲池明弘氏が提示する朱丹産地の主要地域は、こうした上古史の政治過程を示唆するものとも考えられるし、その場合に、上記関係地名を見ると、邪馬台国問題とは決して無縁なものではなかった。

もう一つ、補足的に中国の神話・上古史まで飛ぶと、朱丹は「丹朱」ともいうが、ズバリその名の人物がいる。それが、上古五帝の第四の帝堯(唐陶氏)の長子とされる丹朱であって、人徳に欠ける不肖の息子だとされ、帝舜を女婿に迎えて、こちらのほうに帝位を譲り渡されたとされるが、一時期だが丹朱も帝位に就いたとも伝える。その末流と伝えるのが漢王朝の初代の劉邦であり、赤帝の子を自称し、旗幟にみな赤を用いた(『漢書』高帝紀)。これにより、「劉邦が赤帝の子で、白帝の子(秦王朝のこと)を滅ぼす」とまで言われた。

 

この故事にならってか、壬申の乱のときに大海人皇子(後の天武天皇)の軍が、赤旗を使用していた。敵と区別するために「赤い衣服」とするのが『書紀』の記事であり、『古事記』序文には「絳旗(深紅の旗)、兵を輝かして」と見える。これは、五行思想の火徳を自称した中国の漢の高祖、劉邦にならって(井上通泰は自ら高祖に擬したと解する)、自らが創業帝王である正義の軍である事を主張したのだろうと言われている。ちなみに、この乱の時、相手の大友皇子弘文天皇)側は、金の旗を使用したという。


「赤は官軍(天皇の軍)を意味する」というのはその事かとみられ、平家の赤旗はこれに因むともいう。この赤に対抗するための色が、源氏の白だと思われるが、白にも、清廉潔白の意味があり、軍神である八幡菩薩の色であるということで、赤に対抗する色としてはベストな色だった。源氏の白旗、平家の赤旗ということは、保元平治の頃より始まりというが、これらの由来はもっと古かったことになろう。


藤原氏肥前の九州西部鉱床群と関係があったらしいことは先にも見たが、藤原鎌足の廟所とされる多武峰付近には朱の鉱床もいくつかあり、藤原氏氏長者の地位を表す重宝として「朱器台盤」を相伝したというから、赤・朱はこの一族にも深いつながりがあった。

このように朱を追いかけていくと、邪馬台国どころか、日本を含む東アジアの上古・神話や軍事行動にまで、地域的にも年代的にも大きな広がりと影響を見せることになる。蒲池氏はたいへん面白い着眼で様々な研究にあたられており、その著書は、読者に対して、多大な示唆と興味を起こさせてくれるものと考えられる。
(二〇一八年九月に記)

縄文本・古代史本の愛読者にも超お勧め! 映画『縄文にハマる人々』

評判を聞きつけ、遅ればせながら、ドキュメンタリー映画縄文にハマる人々』を見てきました。まったく私の個人的な観察にすぎないのですが、来ている人たちの大半は、アート系男女、スピリチュアル系女性、ディープな映画マニアであるように見えました。というわけで、本日は、並みの<古代史本>よりもはるかに面白く、情報量も豊かなこの映画について書いてみます。

 

 

www.jomon-hamaru.com

 

魅力的なアマチュア縄文学者

この映画は主にインタビューによって構成されています。

縄文文化にかかわる研究者、アーティスト、社会活動家など26人が、それぞれの縄文観を披露しています。

本、論文などをとおして、存じ上げている名前が10人くらいいました。

私は「縄文本」が好きで、けっこう読んできましたが、小林達雄氏(國學院大学名誉教授)、小山修三氏(国立民俗学博物館名誉教授)、山田康宏氏(国立歴史民俗博物館教授)など、大手出版社から出ている「縄文本」でお馴染みの先生方もこの映画に登場し、熱弁をふるっています。

 

ところが、小林先生らアカデミズム系の研究者と同じような扱いで、出版業界ではキワモノ扱いされている本(学術関係者の視点からするとトンデモ本?)の著者であるアマチュア縄文学者たちも次々と登場し、独自の縄文論を語っています。

 

マチュア研究者による「縄文本」の多くは、縄文のイメージを表現しようとするためか、どぎつい装丁になりがちで、タイトルもぶっ飛んでおり、たいていの場合、文章や構成にも難があるので、見るからに妖しげな雰囲気をさらけだしているものです。

 

ところが、この映画のなかのアマチュア研究者たちは実に魅力的です。彼らが語る言葉は、エネルギッシュで、奇妙な説得力があります。

まず、驚いたのはこの点です。

 

縄文人は、生命誕生の秘密と宇宙創成の秘密を熟知しており、生命と宇宙の神秘を解き明かす<統一理論>が縄文土器には込められている──というような内容のコメントをしているアマチュア縄文学者もいました。

 

本を読んでいて、こうした文面にぶつかると、つい、引いてしまう人が少なくないと思いますが、映画のなかでは、アマチュア研究者たちの真摯な人柄や情熱が画面をとおして伝わり、表情、声の感じにも、トンデモ臭はまったく感じられないのです。 

それとは反対に、学術系の研究者、考古学者の先生たちの方が、引き立て役のように見えくるくらいです。

 

過激な「縄文特集記事」的な面白さ

私は本を編集したり、執筆したりという仕事をしているので、つい、出版の世界と比較対照してしまうのですが、この映画は、出版業界ではまず不可能とおもえるリスキーな企画を軽々と実現しています。

それは学術系の研究者・考古学者とアマチュア縄文学者(トンデモ本と言われかねない過激な言説を唱えている人たちをふくむ)を同じ作品のなかに配置していることです。

 

こうした企画が、一般の本や雑誌で困難であることは、どなたにもわかると思います。

 

 本や雑誌で、有名な大学教授やお堅い考古学者が、突飛な言説を展開しているアマチュア縄文学者と、活字のうえで〝同席〟することを了承するでしょうか。

この映画を雑誌の特集記事でたとえるならば、『季刊考古学』と『ムー』と『現代思想』の三誌の共同企画。実現不可能なコラボです。

 

 なぜ、このような〝奇跡の企画〟が実現できたのでしょうか。

 

企画書なき企画

 

その秘密を解くカギが、映画パンフレットに掲載されている山岡信貴監督の一問一答を読んでわかりました。

 

Q:インタビューした方々はどのように決めて行ったのでしょうか?  

A :本当にこれが映画になるものなのか、確信が持てないまま、縄文に対する興味だけは断ちがたく、様々な資料に目を通す中で、話を直接聞いてみたいとか、インタビューさせていただいた方からのご推薦で、流れに任せてインタビューを続けていった感じです。

 

明確な企画、おおまかな構成が固まったあと、撮影をはじめたのではなく、情報収集・調査の段階から、撮影をはじめていたというのです。

つまり、行き当たりばったりの撮影。

良くいえば、<企画書なき企画>?

 

映画パンフレットによると、山岡監督は、全国各地の縄文にハマった人たちへのインタビューに5年間を費やしたそうです。

<企画書なき企画>なので、インタビューに応じた人たちも監督自身も、どのような人たちが出て、最終的にどのような映画になるのか、その時点ではわからなかったのです。

山岡監督による取材と調査のプロセスそのものを追いかけるドキュメンタリー映画という性格をもたせることで、この映画には、プロ、アマふくめた多様な人たちの縄文論が盛り込まれています。

本や雑誌では不可能な〝奇跡の企画〟が実現した背景には、時間と手間ひまをかけたこうした映画制作上のプロセスがあるのは明らかです。

 

世界で最も美しい謎

縄文文化とは何か?」。その答えを探しての、5年間の旅の記録がこの映画です。時系列的に編集されているわけではないのですが、北海道、青森県から鹿児島県に至る列島各地の縄文遺跡をめぐるロードムービーという一面もあります。

 

 5年間の撮影と取材を経た結論は、縄文文化は謎だらけで、縄文土器の意匠もけっきょくのところ意味不明というものだったようです。

山岡監督はそれを、

世界で最も美しい謎

と表現しています。

 

人間は誰しも、問いに対して、答えを求めます。

しかし、この映画は、謎は謎であることによって価値があると語りかけているようにおもえました。

 

謎は謎であることによって美しい。

もし、そうであるならば、大学の先生の言葉も、アマチュア縄文学者のすこし妖しげな言説も、等価であることになります。

この映画のなかのアマチュア研究者に存在感があるのは、山岡監督のこうしたおおらかな視点に由来することは言うまでもありません。

 

 

 映画『縄文にハマる人々』には、最新の学説や発掘成果はあまり話題になっていませんが、プロ、アマふくめた研究者やそのほかの関係者の、情熱や人間性がクローズアップされています。

 

縄文ストレッチという健康体操の指導者、

縄文人になりきるため、竪穴式住居に暮らす陶芸家、

縄文式の人材育成、家族教育の推進者。

 

なんだかよくわからないけれど、過剰な熱量で縄文を語る人たちが次々に登場します。

 

そして、全国各地の縄文遺跡をとりかこむ、息をのむように美しい風景。

千両役者さながら、自らの魅力を誇示する縄文の土偶や土器たち。

縄文ビーナスをはじめ、国宝の縄文土偶、土器たちは、映画のなかで博物館で見るときとはひと味違った存在感を示しています。

それもこの映画の魅力のひとつです。

 

アート系でちょっとゆるめの映画

ナレーションは、「水曜日のカンパネラ」のコムアイさん。

エンディングテーマは、知る人ぞ知る(が、私は知らなかった)幻の音楽集団「森は生きている」の代表作。

ということからもわかるとおり、古代史をテーマにはしていますが、アート系の映画として制作された美しい絵と音に満ちた作品です。

 

複数の人たちへのインタビューによって、ひとつの世界を表現しているので、1990年代以降、シリーズ化されていた『地球交響曲ガイアシンフォニー』を連想する人がいるという話を聞きました。

(私は1990年代の初頭、山梨県で新聞記者をやっていて、生協のおばちゃんたちやエコロジー系の団体が運営する『地球交響曲』の自主上映会に取材に行っていました。あの自主上映会の盛り上がりはよくおぼえています)

 

しかし、『縄文にハマる人々』には、『地球交響曲』のように、監督の世界観、価値観をこれでもかこれでもかと提示する印象はまったくありません。

地球交響曲』のようなシリアスな雰囲気はまったくなく、『縄文にハマる人々』というタイトルのとおり、ゆるいムードが全編に漂っています。

ゆるいけど、まじめ。

ゆるい中の緊張感。

映画を実際にみての私の結論は、『地球交響曲』にはまったく似ていないということです。

 

私はこの映画を、渋谷駅近くのシアター・イメージフォーラムで見ました。

 

上映スケジュールをみると、しばらくやっているようなので、「最近の古代史本、縄文本は今ひとつだなあ」とぼやいている方にはお勧めします。

きっと新しい発見があるはずです。

  

www.imageforum.co.jp

 

このタイプの映画の宿命として、東京など都市部でのみの上映ということになっているようですが、縄文遺跡のある地方の町で、ごく普通の地元の人たちに見てもらいたい映画です。 

高画質の映画なので、上映には技術的な問題があるそうですが、地方での地道な上映活動を期待します。 

 そして、海外での上映も楽しみです。現代の<日本人論>としても出色の出来であるとおもうからです。

 

『邪馬台国は「朱の王国」だった』が朝日新聞の書評欄で紹介されました。

拙著『邪馬台国は「朱の王国」だった』(文春新書)が、「古代国家の実像探る思考実験」というタイトルで本日9月8日付け朝日新聞の書評欄で紹介されました。

www.asahi.com

 

「朱の交易が邪馬台国を盟主とする連合国家の最大のミッションであった」という記述は刺激的だ。

という書き出して、朱(辰砂)という鉱物の利用価値、記述内容が邪馬台国の時代から奈良時代まで及ぶことなどを紹介してくれています。

 

巨大古墳の造営バブルとの関連、なぜ伊勢に国家的な神社があるのかにまで話は広がる。「仮説に基づく思考実験」なので内容に疑問を持つ向きもあるだろうが、私は「へえー」の連続だった。  

 

掲載されたのは書評欄の担当記者が気になる本を紹介する「おすすめ」というコーナーです。朝日新聞をご購読のかたは、ぜひご覧ください。 

 

 

平野邦雄『邪馬台国の原像』──今や絶滅危惧種となった邪馬台国を論ずる東大出身の歴史学者

邪馬台国ブックリスト④

 

今回、紹介するのは、2002年に出版された『邪馬台国の原像』です。今や絶滅危惧種ともいえる邪馬台国を論じる東大出身の歴史学者。平野邦雄氏はもしかすると、その最後のひとりだったかもしれない研究者です。 

邪馬台国の原像

邪馬台国の原像

 

 

歴史学界は学歴社会

東大を出ているからといって、かんたんに出世できるような企業は今の日本にはほとんど存在しないのではないでしょうか。

政界で活躍中の安倍首相、菅官房長官、麻生副総理、みなさん私立大学の出身者です。

 

官僚の世界でさえ、東大の卒業証書の価値が次第に目減りしている今、最も学歴が価値をもつのは、学界ではないでしょうか。学界メンバーの大半は大学に属しているので、当たり前の話ではありますが、皮肉な現象です。

 

とくに歴史学(発掘調査をともなう考古学ではなく、文献にもとづく歴史学)の分野では、東大、京大の教授を頂点とするヒエラルキーがあって、私立大学の先生にも、東大、京大卒の人たちが目立つように見えます。

 

邪馬台国の原像』の著者、平野邦雄氏(1923年~ 2014年)は、戦前の東京大学に入学、歴史学のビッグネームである坂本太郎教授のもとで古代史を学んだ方で、文化庁文化財調査官を務めたほか、九州工業大学東京女子大で教授として古代史を講じていました。

 

歴史学界の超エリートという経歴ではありませんが、古代史の分野では指導的な地位にあり、歴史かんけいの名門出版社、吉川弘文館から『大化前代政治過程の研究』、『帰化人と古代国家』などの堅実な学術書を発表しています。

 

どうして、学歴のことをしつこく書いているかというと、『邪馬台国の原像』は東大出身の歴史学教授が書いた最後の邪馬台国本かもしれないからです。

 

なぜ、歴史学の王道を行く東大出身の歴史学者は、邪馬台国について語らなくなったのか。

ここに邪馬台国論争史をめぐる小さな謎があります。

 

そして誰もいなくなった

邪馬台国の所在地について、近畿説と九州説が二大陣営をなして対立する論争の構図ができたのは一九一〇年(明治四十三)。

東京帝国大学教授の白鳥庫吉(九州説)、京都帝国大学教授の内藤湖南(近畿説)が相次いで学術論文を発表、論争の口火を切りました。

 邪馬台国論争史上で有名な「放射説」を提示して、九州説の一時的な優位をつくりだした榎一雄氏も、東京大学歴史学教授でした。

中央公論社の「日本の歴史」シリーズの一冊『神話から歴史へ』の著者、井上光貞氏も東大の教授ですが、同書は九州説寄りの記述となっています。

 

明治以来、一〇〇年を越す邪馬台国の論争史をひもとくと、東大、京大に学んだ多くの研究者が参戦したことがわかります。俗に、九州説の東大、近畿説の京大といわれるほどです。

ところが、ひとり抜け、ふたり抜け、気がついてみると、邪馬台国問題について論陣を張る東大、京大出身のエリート歴史学者はいなくなってしまいました。

 

いま、邪馬台国について独自の見解を表明している大学在籍の研究者のほとんどは、発掘調査をベースとする考古学者です。

そのほか、邪馬台国研究者のほとんどは、アマチュアの研究者であるように見えます。

私は『邪馬台国は「朱の王国」だった』という邪馬台国をタイトルにかかげる本を書いてしまいましたが、邪馬台国のアマチュア研究者という資格はもっていないので、外野席から、野次を飛ばしたような本であるといえます。

 

文献史学の分野で、邪馬台国を論じているのは、独自の戦いを展開する私立大学の先生たちで、学界の序列でいえば非エリートです。

これは研究者としての能力というより、表だって邪馬台国を論じるようなスタンスが、学界内部での出世の妨げになっているのではないかと推察されます。気骨はあるが、空気を読まない──あるいは、あえて空気を読まないタイプの研究者なのかもしれません。

 

邪馬台国論争は、大学に属するプロの研究者が論ずるべきテーマではなく、アマチュア研究者の集う場所になっています。

 

わかりやすく言えば、邪馬台国研究は、アカデミズムの文献歴史学者にとっては、キワモノです。

東大、京大で歴史を学んでいる大学生が、卒業論文邪馬台国をやりたいと言っても、おそらく認められないはずです。

 

邪馬台国の原像』の著者である平野邦雄氏は、東大出身の歴史学教授で、文科省文化財保護行政にも長年、かかわっているのですから、どこから見ても堅気の研究者です。

いまやキワモノでしかない邪馬台国の問題に、首をつっこむメリットは何もないと思うのですが……。奇特な先生というしかありません。

 

なぜ、平野氏はあえて、邪馬台国をタイトルにかかげる本を執筆したのでしょうか。

このささやかな謎を探ることも、『邪馬台国の原像』の読み所ではないかと思います。

 

「銅鏡百枚」について

邪馬台国論争史では、九州説の東大、近畿説の京大というまとめ方もありますが、文献史学者は九州説、考古学者は近畿説という傾向もはっきりしています。

京都大学系の考古学者たちは、発掘された鏡についての詳細な分類にもとづき、卑弥呼が魏の皇帝から賜ったとされる「銅鏡百枚」を、三角縁神獣鏡にむすびつけて、体系だった学説をつくってきました。

 

私のような学界の部外者のところにも、その学説をめぐる動向は伝わっているのですから、その情報発信力は相当なものであったと思います。

 

邪馬台国は近畿で決まり!」という風潮がつよまったのは、鏡についての理論のみごとさに、多くの人が幻惑されたからだと思われます。

そして、纒向遺跡奈良県桜井市)での大型建物群の発見が近畿説の決定打であるように報道されたことも、まだ記憶に新しいことです。

 

堅気の研究者である平野邦雄氏が、あえて、邪馬台国をタイトルに掲げる著作を、世に問うたのは、考古学者によって主導される邪馬台国をめぐる議論に、強い違和感をいだいていたからではないでしょうか。

平野氏は、鏡をめぐる考古学者の説に、このように反論しています。 

魏帝の詔書に「銅鏡百枚」を下賜すると記された部分は、まさに「別貢物」(別禄)に該当する。より多くは「方物」としてよりも、「交易品」として輸入されたと推定せねばならない。

(『邪馬台国の原像』P163)

 

小林行雄氏をはじめとする京大系の考古学者によって提示された説によると、卑弥呼が入手した「銅鏡百枚」は、卑弥呼を通して、全国各地に有力者に配布され、それが政治的な従属関係を示すと説明されていました。

三角縁神獣鏡の分布の中心は明らかに近畿地方にあるので、邪馬台国の所在地が近畿であることが科学的に立証された──。そう信じる人が少なくありませんでした。

 

上で引用した平野氏の見解は、従来、<政治的>に解釈していた鏡の問題を、交易すなわち<ビジネス>として解釈しようとするものです。

 

銅鏡の研究が緻密になって、邪馬台国の時代であっても、中国の大都市では、市中の店舗で銅鏡が売られていたという事情も明らかになってきたようです。

銅鏡が<お金>を出せば買えるものならば、平野氏がいうように、交易という観点が重要になるのは明らかです。

個人的には、平野氏の記述にリアリティを感じます。

 

 

 

九州説のバージョンアップ 

邪馬台国の所在地について、平野氏は明確な場所を特定していませんが、九州説を支持しています。

これまでの論争史をふまえて、よりバージョンアップされた九州説であるといえます。

 

魏志倭人伝」には倭国を構成する国々の有力者によって、卑弥呼が「共立」されたと記されていますが、「共立」は近畿説だと説明が難しいことを平野氏は根拠としてあげています。

 

個人的に面白いと思ったのは、「明史」が豊臣秀吉のことを「倭奴平秀吉」と記していることに着目して、志賀島の金印にある「倭奴国」を、倭国のうちの奴国ではなく、倭国の蔑称であると解釈していることです。

このように、『邪馬台国の原像』は、「後漢書」「魏志」から「明史」に至るまでの中国の正史を比較検討することを通して、邪馬台国の問題に理詰めで迫っています。

文献史学者としての意地のようなものを感じます。