平野邦雄『邪馬台国の原像』──今や絶滅危惧種となった邪馬台国を論ずる東大出身の歴史学者
邪馬台国ブックリスト④
今回、紹介するのは、2002年に出版された『邪馬台国の原像』です。今や絶滅危惧種ともいえる邪馬台国を論じる東大出身の歴史学者。平野邦雄氏はもしかすると、その最後のひとりだったかもしれない研究者です。
歴史学界は学歴社会
東大を出ているからといって、かんたんに出世できるような企業は今の日本にはほとんど存在しないのではないでしょうか。
政界で活躍中の安倍首相、菅官房長官、麻生副総理、みなさん私立大学の出身者です。
官僚の世界でさえ、東大の卒業証書の価値が次第に目減りしている今、最も学歴が価値をもつのは、学界ではないでしょうか。学界メンバーの大半は大学に属しているので、当たり前の話ではありますが、皮肉な現象です。
とくに歴史学(発掘調査をともなう考古学ではなく、文献にもとづく歴史学)の分野では、東大、京大の教授を頂点とするヒエラルキーがあって、私立大学の先生にも、東大、京大卒の人たちが目立つように見えます。
『邪馬台国の原像』の著者、平野邦雄氏(1923年~ 2014年)は、戦前の東京大学に入学、歴史学のビッグネームである坂本太郎教授のもとで古代史を学んだ方で、文化庁の文化財調査官を務めたほか、九州工業大学、東京女子大で教授として古代史を講じていました。
歴史学界の超エリートという経歴ではありませんが、古代史の分野では指導的な地位にあり、歴史かんけいの名門出版社、吉川弘文館から『大化前代政治過程の研究』、『帰化人と古代国家』などの堅実な学術書を発表しています。
どうして、学歴のことをしつこく書いているかというと、『邪馬台国の原像』は東大出身の歴史学教授が書いた最後の邪馬台国本かもしれないからです。
なぜ、歴史学の王道を行く東大出身の歴史学者は、邪馬台国について語らなくなったのか。
ここに邪馬台国論争史をめぐる小さな謎があります。
そして誰もいなくなった
邪馬台国の所在地について、近畿説と九州説が二大陣営をなして対立する論争の構図ができたのは一九一〇年(明治四十三)。
東京帝国大学教授の白鳥庫吉(九州説)、京都帝国大学教授の内藤湖南(近畿説)が相次いで学術論文を発表、論争の口火を切りました。
邪馬台国論争史上で有名な「放射説」を提示して、九州説の一時的な優位をつくりだした榎一雄氏も、東京大学の歴史学教授でした。
中央公論社の「日本の歴史」シリーズの一冊『神話から歴史へ』の著者、井上光貞氏も東大の教授ですが、同書は九州説寄りの記述となっています。
明治以来、一〇〇年を越す邪馬台国の論争史をひもとくと、東大、京大に学んだ多くの研究者が参戦したことがわかります。俗に、九州説の東大、近畿説の京大といわれるほどです。
ところが、ひとり抜け、ふたり抜け、気がついてみると、邪馬台国問題について論陣を張る東大、京大出身のエリート歴史学者はいなくなってしまいました。
いま、邪馬台国について独自の見解を表明している大学在籍の研究者のほとんどは、発掘調査をベースとする考古学者です。
そのほか、邪馬台国研究者のほとんどは、アマチュアの研究者であるように見えます。
私は『邪馬台国は「朱の王国」だった』という邪馬台国をタイトルにかかげる本を書いてしまいましたが、邪馬台国のアマチュア研究者という資格はもっていないので、外野席から、野次を飛ばしたような本であるといえます。
文献史学の分野で、邪馬台国を論じているのは、独自の戦いを展開する私立大学の先生たちで、学界の序列でいえば非エリートです。
これは研究者としての能力というより、表だって邪馬台国を論じるようなスタンスが、学界内部での出世の妨げになっているのではないかと推察されます。気骨はあるが、空気を読まない──あるいは、あえて空気を読まないタイプの研究者なのかもしれません。
邪馬台国論争は、大学に属するプロの研究者が論ずるべきテーマではなく、アマチュア研究者の集う場所になっています。
わかりやすく言えば、邪馬台国研究は、アカデミズムの文献歴史学者にとっては、キワモノです。
東大、京大で歴史を学んでいる大学生が、卒業論文に邪馬台国をやりたいと言っても、おそらく認められないはずです。
『邪馬台国の原像』の著者である平野邦雄氏は、東大出身の歴史学教授で、文科省の文化財保護行政にも長年、かかわっているのですから、どこから見ても堅気の研究者です。
いまやキワモノでしかない邪馬台国の問題に、首をつっこむメリットは何もないと思うのですが……。奇特な先生というしかありません。
なぜ、平野氏はあえて、邪馬台国をタイトルにかかげる本を執筆したのでしょうか。
このささやかな謎を探ることも、『邪馬台国の原像』の読み所ではないかと思います。
「銅鏡百枚」について
邪馬台国論争史では、九州説の東大、近畿説の京大というまとめ方もありますが、文献史学者は九州説、考古学者は近畿説という傾向もはっきりしています。
京都大学系の考古学者たちは、発掘された鏡についての詳細な分類にもとづき、卑弥呼が魏の皇帝から賜ったとされる「銅鏡百枚」を、三角縁神獣鏡にむすびつけて、体系だった学説をつくってきました。
私のような学界の部外者のところにも、その学説をめぐる動向は伝わっているのですから、その情報発信力は相当なものであったと思います。
「邪馬台国は近畿で決まり!」という風潮がつよまったのは、鏡についての理論のみごとさに、多くの人が幻惑されたからだと思われます。
そして、纒向遺跡(奈良県桜井市)での大型建物群の発見が近畿説の決定打であるように報道されたことも、まだ記憶に新しいことです。
堅気の研究者である平野邦雄氏が、あえて、邪馬台国をタイトルに掲げる著作を、世に問うたのは、考古学者によって主導される邪馬台国をめぐる議論に、強い違和感をいだいていたからではないでしょうか。
平野氏は、鏡をめぐる考古学者の説に、このように反論しています。
魏帝の詔書に「銅鏡百枚」を下賜すると記された部分は、まさに「別貢物」(別禄)に該当する。より多くは「方物」としてよりも、「交易品」として輸入されたと推定せねばならない。
(『邪馬台国の原像』P163)
小林行雄氏をはじめとする京大系の考古学者によって提示された説によると、卑弥呼が入手した「銅鏡百枚」は、卑弥呼を通して、全国各地に有力者に配布され、それが政治的な従属関係を示すと説明されていました。
三角縁神獣鏡の分布の中心は明らかに近畿地方にあるので、邪馬台国の所在地が近畿であることが科学的に立証された──。そう信じる人が少なくありませんでした。
上で引用した平野氏の見解は、従来、<政治的>に解釈していた鏡の問題を、交易すなわち<ビジネス>として解釈しようとするものです。
銅鏡の研究が緻密になって、邪馬台国の時代であっても、中国の大都市では、市中の店舗で銅鏡が売られていたという事情も明らかになってきたようです。
銅鏡が<お金>を出せば買えるものならば、平野氏がいうように、交易という観点が重要になるのは明らかです。
個人的には、平野氏の記述にリアリティを感じます。
九州説のバージョンアップ
邪馬台国の所在地について、平野氏は明確な場所を特定していませんが、九州説を支持しています。
これまでの論争史をふまえて、よりバージョンアップされた九州説であるといえます。
「魏志倭人伝」には倭国を構成する国々の有力者によって、卑弥呼が「共立」されたと記されていますが、「共立」は近畿説だと説明が難しいことを平野氏は根拠としてあげています。
個人的に面白いと思ったのは、「明史」が豊臣秀吉のことを「倭奴平秀吉」と記していることに着目して、志賀島の金印にある「倭奴国」を、倭国のうちの奴国ではなく、倭国の蔑称であると解釈していることです。
このように、『邪馬台国の原像』は、「後漢書」「魏志」から「明史」に至るまでの中国の正史を比較検討することを通して、邪馬台国の問題に理詰めで迫っています。
文献史学者としての意地のようなものを感じます。