ありそうでなかった奇跡のイベント? 練馬区の図書館で練馬の出版社の展示会
「ねりまで本をつくる、本をつなぐ~練馬区出版社展示会~」というイベントが、練馬区立の南田中図書館で開かれ、弊社桃山堂の本も展示していただきました。複数の図書館で開かれている巡回イベントで、五月十四日は南田中図書館の開催日でした。
弊社は桃山堂という出版社を名乗っていますが、立派な事務所をもっているわけではなく、ライター仕事をしながらの出版社のまねごとをやっている程度です。
「練馬区の出版社」なのかどうか微妙な存在ですが、唯一の社員である私が練馬区民なので、練馬の出版社として声をかけていただいたようです。
ありがたいことです。
電子書籍にも注力しているので、電子書籍『秀吉と翼の犬の伝説』もiPadにて展示してもらいました。
文藝春秋社から出してもらった『火山で読み解く古事記の謎』もあわせて出品。
「図書館にある本で、どれか一冊、お勧めの本を」ということでしたので、西郷信綱氏の岩波新書『古事記の世界』にしました。
古事記かんけいの本、あまたあるなかで、学術的な関心にとぼしい私にとっていちばん面白い本です。
こんな感想を書きつつ、ちゃっかり、自分の本の宣伝をしてしまいました。
国文学者の西郷信綱による『古事記の世界』は、ちょうど50年まえの1967年に出版された岩波新書ですが、今なお輝きを放つ言葉にあふれています。
原始や古代が終ったからといって、原始的思考や神話的思考が、跡形もなく人間の精神から消え去るわけではない。それは今なお、私たちの心の中で生命力をもちつづけていると述べたあと、西郷信綱は次のような言葉をしるしています。
「子供的なものが大人のなかに生きるように、人間精神にとっても過去は現在の深みまたは余白に保存され、さまざまな姿と化して明滅しつづける」(『古事記の世界』8ページ)
古事記を「面白い」とおもえるとしたら、それは私たちの精神の底にある〝原始の心〟が反応しているからかもしれません。
もし、『古事記の世界』を気に入っていただければ、同じ著者による『古事記注釈』(ちくま学芸文庫全8巻)がお勧めです。こちらも練馬区立図書館で借りることができます。
実は、桃山堂/蒲池明弘が出版した『火山で読み解く古事記の謎』『火山と日本の神話』は、西郷信綱の古事記論に真っ向から歯向かう内容です。もっとも、西郷信綱が古事記学の横綱であるならば、桃山堂はちびっ子力士のようなもの。王道と異端かもしれません。双方を読むことで、古事記の読み方の多様性を実感していただけると思います。
そこにも古事記のもつ大きな魅力があるはずです。
参加している出版社は、あすなろ社、うぶすな書院、榎本事務所、エリエイ・プレス・アイゼンバーン、音楽の世界社、架空社、子どもの本棚社、秀作社出版、新星書房、STAND! BOOKS、大福書林、段々社、テス企画、永岡書店、ビレッジプレス、桃山堂、リーブル、旅行人、レクラム社の十九社(あいうえお順)です。
それぞれ出版社が、自慢の五冊を展示しています。
中堅の老舗出版社もありますが、ほとんどは少人数の小さな出版社・編集プロダクションのようです。
エリエイ社は鉄道専門の老舗出版社で、改めて日本の出版界の奥行きを実感しました。
医学系の研究者ながら、吉本隆明推薦の思想家めいた学者である三木成夫という不思議な知識人がいました。三木成夫の本をたくさんだしている、あすなろ社の本も展示されていました。
私は最末席ながらも、参加社の一社なので感想を述べるのも変な話ですが、図書館での〈イベント〉としては出色の面白さだとおもいました。
そもそも、「地元出版社の本を展示する」というイベントが成立するのは、都心部に近いようで微妙に田舎である練馬区だかこそできた不思議な企画です。
本の町神保町のある千代田区にある出版社は数百を超えるでしょうから、とうていありえない企画ですし、文京区民に改めて、講談社やそのグループ会社を紹介する必然性もありません。
まったくのヤマ勘ですが、杉並区とか世田谷区だと、百社くらいはありそうです。事務的にも、スペースのうえでも難しいとおもいます。
練馬の十九社というのは多すぎず、少なすぎず、ちょうどいい頃合いで、まさに、練馬区の図書館だからこそ実現できた奇跡的な(?)イベントです。
次回は、六月十一日(日曜日)、六月十八日(同)、それぞれ大泉図書館、貫井図書館で開催されます。あわせて、出版社の編集者による説明会も企画されています。(こちらは事前の申し込みが必要)
貫井図書館は、ユニークな活動が全国的(もしかすると世界的?)に注目されている練馬区立美術館と隣接しているので、ほかの区の皆さまも美術館めぐりのついでに、ぜひ、図書館ものぞいてみてください。
練馬区美術館は、歴史的に埋もれていた才能を発掘し、光をあてる活動で知られており、話題の展覧会を連発しています。メディアでもたびたびとりあげられています。
「練馬の出版社」のイベントの日は、この展示です。「漆の画家」というタイトルだけで、すでに面白そうな気配を漂わせています。
「学芸員はがん」発言の背景──観光をめぐる地域社会の過剰でゆがんだ期待
「学芸員はがん」という発言で問題となった山本幸三・地方創生担当相は、博物館、美術館の学芸員に、「観光マインド」──つまり、集客努力が必要だと主張しています。
単なる政治家の失言というだけですまない厄介な問題だとおもうのは、学芸員に集客や観光PRを期待する声は以前からあって、近年、一段と勢力を増しているように見えるからです。
地域社会から、たちの悪い「観光マインド」を求められ、困惑していた学芸員、自治体の研究職の人たちを見たことがあるので、山本大臣の発言を考えるデータとして報告したいとおもいます。
学芸員の利益相反
現在、私は個人営業で出版社のまねごとをやっているのですが、大学卒業後は新聞社で記者をやっていたので、博物館、美術館には取材者として出入りしていました。
取材をとおした個人的な経験以上の知見は持ち合わせていませんが、その範囲で書いてみます。
学芸員は、美術、歴史、文学から、生物、地学、天文学まで、それぞれの領域で高度の知識をもつ研究者/専門家であると同時に、博物館や美術館を運営する地方自治体あるいは企業、団体の一員という一面もあります。国立の施設の学芸員なら国家公務員であり、研究者としてもトップクラスです。
地方で活動している学芸員のほとんどは県庁や市役所の職員ですが、自分の専門分野の学会に属する研究者としての顔をあわせもっています。
あるいは、考古学の調査などを担当する市役所、県庁の職員も、研究者であり地方公務員です。
研究活動を通して、地域に貢献できれば、お互いにハッピーなのでしょうが、昨今のように、観光客の動員を数値的に期待されると、ひとりの学芸員の中で、研究者としての自己と自治体職員としての自己が「利益相反」を引き起こす恐れが生じます。
大統領としてのトランプ氏と企業経営者としてのトランプ氏、この二つの立場に利害の矛盾した場合どうするのだという「利益相反」の問題は、学芸員について典型的な当てはまることです。
自治体職であり研究者である地方在住の学芸員。二つの立場に矛盾が生じて、困惑している現場を、実際に見たことがあります。
観光PRか、それとも研究者/専門家としての良心か──
ずいぶん前の話ではありますが、NHK大河ドラマで、ある戦国武将の物語がとりあげられ、例によって各地で関連イベントや展覧会が開かれていました。
これもまたよくあることですが、その戦国武将の一族の来歴ははっきりせず、先祖伝承が全国各地に残っています。
アカデミックな歴史学では史実とされていない話で、テレビで放映された大河ドラマでもとりあげられていないにもかかわらず、虚実のはっきりしない伝承のある複数の地方都市で、大河ドラマに便乗したイベント、展覧会が行われていました。
NHKなどが主催する展覧会が公式イベントであるとすると、文字通り、非公式イベントです。
◯◯県では、学芸員や研究職の人たちが、展覧会、観光イベントにはある程度、協力して、パネルや資料などで、史実と伝承の違いを注記するという工夫をしていました。
これはこれでスマートな対応だとおもいます。
同じようなケースに遭遇した場合、学芸員の多くは、そうしてバランスをとっているのではないでしょうか。
別の県ですが、観光イベント、PRにはいっさい協力しないというAさんという人がいました。
その当時、五十代で、市役所の組織においては幹部的なポジションでした。
専門家としての自信はもとより、年齢的な重みもあって、協力拒否という強気の対応をとることができたのかもしれません。
最初、電話で話したとき、こんなことを言っていました。
「この土地に◯◯氏という武士がいて、戦国武将◯◯△△の先祖であるという話もありますが、信頼できる史料によって考えると、その可能性はほとんどありません。市役所の観光関係部局、地元の観光業者が、大河ドラマに便乗できる千載一遇のチャンスと考えるのはわかりますが、私の立場で、誤った伝承を根拠とする観光イベントに協力することはできません」
市役所内部、あるいは地域社会のなかで、なにかと面倒なのではないでしょうか──と私は質問しました。
「たしかに針のむしろです。大河ドラマが終わるまで、じっと我慢するしかないとおもっています」
トンデモ観光イベントに暴走する地域社会
実は電話で話をしていた時、私は、専門家としての良心はわかるけれど、すこし意固地すぎないか──そんな感想をもっていました。
大河ドラマに便乗して、ちょっとしたイベントをやるくらい、いいんじゃないの? という認識だったのです。
史実とはいえないとしても、伝説・伝承のたぐいは無視できないほどあって、それはそれで歴史マニアの興味をひくものであるからです。
しかし、実際に現地に行ってみると、もし、私が学芸員や自治体の研究職であったとしたら、相当、つらい状況だなあ、と思わざるをえませんでした。
町じゅうにのぼり旗がひるがえり、すっかり、お祭り騒ぎになっていたからです。
そこかしこに立てられている真新しいパネルには、不確かな伝承でしかないことが史実であるかのように書かれ、立派な石碑まで新設され、その手のことが彫られていました。
両論併記的な書き方をして、史実と伝承をわけて説明するべきだとおもうのですが、すべて断定調の文章です。
どこかの独裁国家ならともかく、現代日本の光景です。
あまりにも、自分たちの地元に都合のいい、歴史解釈はかえってマイナスの印象を与えかねないのに──と心配になってしまいました。
ちょっとゆがんだ意味ですが、実に興味深いパネルと石碑でした。
官民をあげた観光PRの成果なのでしょうが、いつもはその地域で見かけることのない大型観光バスが、毎日のように来ていたようです。
でも、そこから実りある展開が生まれたという話は、残念ながら耳にしません。NHK大河ドラマに便乗したあの観光イベントが一過性のものであったことは明らかです。
百台だか二百台だか聞いていませんが、大型観光バスが来たのですから、大河ドラマ便乗企画は成功だったのでしょうか。
私の勝手な感想でしかないのですが、どのような観点から判断しても、成功だったとは思えないのです。
もちろん、山本大臣はそのような怪しげな観光イベントにまで協力するよう、学芸員に求めているわけではありません。
また、新聞記者時代の私は地域の観光業界も取材先でしたから、地域社会が学芸員や研究職の地方公務員に「観光マインド」を期待する切実な気持ちがわからないわけではありません。
それが一〇〇パーセント悪いと言うつもりはないのですが、集客数や経済効果に結び付ける議論には危ういものを感じます。
NHK大河ドラマをめぐる地域社会の暴走は、極端な事例かもしれません。
しかし、イベントによる観光客の誘致は常態化しており、そこに学芸員や研究職の人たちがかかわるのも珍しくはないでしょう。
一人でも観光客を増やしたい観光業界からすると、学芸員や研究職の人たちの対応は腰が引けて、非協力的に見えるはずです。その気持ちもよくわかります。
山本大臣の耳には、そうした観光関係者の不満の声が入っており、それによって、学芸員に対する心証が形成され、当の問題発言に結びついたのではないか──。
私のまったくの憶測でしかないのですが、そのあたりに問題発言の<根っこ>がある気配を感じます。
ずいぶん前の話で、Aさんは定年退職して久しく、もう時効であろうと判断して、ここに書かせていただいた次第です。
ことの性質上、話をぼやかしたうえで、少しだけごまかしの表現もあります。
電話での会話については、メモや録音をきちんと残しているわけではないので、私の記憶にもとづく再現ですから正確ではありませんが、話の趣旨を伝えることはできたとおもいます。
レベルの高い、<学び>の観光モデル?
学芸員の社会的な存在意義は、調査・研究をとおして、地域社会の知的な資産を充実させることであって、集客や観光PRはそれに付随するものであるはずです。
もし、学芸員、研究職に「観光マインド」を求めるとしたら、名所旧跡めぐり、温泉、グルメ、土産物屋にとどまらない、<学び>を起点とする、レベルの高い、未来的な観光モデルを考えてほしいものです。
学術的な知見によって、住民も気づいていない地域の価値に光をあて、訪れる人を現実世界の再発見に導くような──というと大げさですが、知的な刺激に充ちた観光のPRであれば大歓迎です。
長い目でみれば、それが地域社会の魅力を高めて、観光にも好影響をもたらすとおもうのですが、どうでしょうか。
でも、これは、山本大臣の求める「観光マインド」より、さらに難しいテーマかもしれません。
勝手なことをいろいろ書いて、結局のところ、学芸員の仕事をさらに増やそうとしているだけなのかもしれません。
「学芸員はがん」? 新聞社、出版社、あらゆる物書きには心強い存在
本をつくる仕事をしていると、博物館などに勤務する学芸員に問い合わせることがしばしばあります。大半は面識のない人です。
素人じみた当方の質問、疑問に対し、いつも的確な返答をいただき、たいへん助かっているので、「学芸員はがん」という山本幸三・地方創生担当相の発言には強い違和感を覚えます。
個人営業の超零細出版社の視点から、この問題を考えてみます。
学芸員は大学の研究者と並ぶ専門家集団
報道によると、山本大臣は「一番のがんは文化学芸員と言われる人たちだ。観光マインドが全くない。一掃しなければ駄目だ」と述べたそうですが、批判をうけ、一応、撤回しています。
博物館、美術館に勤務する学芸員の仕事はさまざまですが、それぞれの担当分野の専門家であることが必須条件であり、調査・研究が職務の基本であるとされます。(実際は、雑務が多くて、研究職の実態は乏しいという話も聞きます)
学芸員は国家資格のひとつなので通信教育で勉強して資格をとることは可能でしょうが、資格保持者のうち、実際に学芸員のポストにつくことができる人は一パーセントというデータもあります。非常に狭き門です。
博士号をもっている学芸員は少なくないし、古代史の研究者である◯◯教授、美術評論で有名な◯◯教授も、若いころは博物館、美術館の学芸員でした。
日本の社会を俯瞰すれば、学芸員という存在は、大学の研究者に次ぐ、学術的な世界の専門家集団といっていいとおもいます。
でも、その歴史は比較的浅く、社会的な認知を十分には得られていないのではないでしょうか。
私が新入りの新聞記者として、美術館、博物館をうろうろして、学芸員さんたちから話を聞いていたのは、三十年くらいまえですが、当時からすると、日本の学芸員さんの世界は格段にレベルアップしています。
県立の博物館、美術館くらいにしか学芸員はいなかった時代は、そう昔のことではありません。
だから、山本大臣は、こう言えば良かったのです。
「今や日本の各地に専門知識をもった学芸員さんが勤務する博物館、美術館があり、欧米先進国に引けを取らないレベルに達しています。
しかし一方で、人口減少などによって、地方の博物館、美術館で経営的に厳しいところが増えているのも事実。
したがって、私ども政治家の立場から学芸員の方々に提案したいのは、どのように地域の情報を発信していけば、地域社会の盛り上がりに結びつくか──地元の人たちといっしょに知恵をしぼってほしいということです」
大臣発言を好意的に翻訳(意訳?)すれば、こんなところだとおもうのですが、どうでしょうか。
本やネットで調べてもわからないと、学芸員に頼ってしまう悪いクセ
ところで、私自身の博物館、美術館との接点は、見学者としての訪問のほか、<取材先>としてのかかわりでした。
博物館、美術館の学芸員は、資料を収集・整理して、展示するというだけではなく、新聞社、出版社、アマチュアの研究者、物好きな旅行者など、各方面からの問い合わせや情報提供の依頼に対応するという仕事があります。
電話で問い合わせると、だいたい、学芸員さんのところにつながれます。
学芸員の業務としては、本業からはずれた、その他もろもろのひとつだと思いますが、そのわりに時間もかかるし面倒なはずです。
私はまさに迷惑をかけている一人です。
今は本の作り手として、かつては新聞記者として、さまからさまざまな知識と情報を提供していただきました。
図書館で本や論文にあたり、インターネットで調べても、解消されない疑問はかならず残ります。
私もそうですが、大学や学会などの組織に属さずものを書く個人にとって、そうした疑問に答えてくれる学芸員は非常に心強い存在です。
プロ/アマを問わず、いえることだと思います。
宣伝になってしまうので恐縮ですが、といいますか、このブログそのものが半ば宣伝なのですが、私が個人営業する出版社から、『火山と日本の神話』という本を出したときは、島根県の博物館の学芸員さんにレクチャーしてもらいました。
提供していただいた資料をふくめて、その学芸員さんをとおして、出雲エリアの地質学的歴史を学び、それを本のなかに反映させています。
三月に文藝春秋社から新書として刊行された『火山で読み解く古事記の謎』を書いたときにも、各地の博物館に問い合わせを繰り返しています。
八ヶ岳は気象庁によって指定されている活火山のひとつですが、最後の大きな噴火は縄文時代のはじめのほうで、弥生時代から現在に至るまでおとなしくしているので、火山としての八ヶ岳についての資料はあまりありません。
八ヶ岳総合博物館に問い合わせをして、縄文時代に生じた最後の噴火についての概要を知ることができました。
本のうえでは十行足らずの記述ですが、質問に答えてくれる窓口があるのは、とても心強いことです。
鹿児島の開聞岳火山については、指宿市考古博物館に問い合わせました。
必要なデータと必読の学術論文を教えてもらいました。
ほかにも問い合わせの事例はいくつもあります。
本を書くための取材だというと、企画書を出してほしいとか、上司の許諾がいるとか、話が複雑になることもあるので、「物好きな観光客」のふりをして、学芸員さんに質問をさせてもらったケースもあります。
悪気はないのですが、締め切りが迫った中での確認作業でした。
その際はたいへん失礼しました。この場を借りて、お礼を申し上げ、ご無礼を陳謝します。
山本大臣が言うように、全国の学芸員が一掃されてしまったら、私のような超零細出版社/個人のもの書きは、お手上げです。
その分野の専門家である大学の研究者に問い合わせることができればいいのでしょうが、大学に問い合わせの電話をして、はい、はい、わかりました、と取り次いでくれることはまず、ありません。
博物館は社会に開かれた組織ということもあるのか、びっくりするくらい敷居が低く、簡単に担当の学芸員の席に電話がつながります。
その結果、さまざまな雑務が学芸員のもとに、積み上がっていくのだと想像されます。
学芸員は若手新聞記者の<教育者>でもあること
私がY新聞に入社したばかりの若手記者の時代には、美術館の学芸員さんの話を聞いて、その受け売りで記事をこしらえていました。
A新聞とかY新聞のような全国紙でも、美術専門の記者なんて一人か二人しかいません。
だから、新聞に出ているほとんどの展覧会記事は、ふだん警察まわり、県庁・市役所まわりをしている記者が書くのですが、大半はピカソとダリの区別もあやしいくらいです。
科学や歴史・考古学についてもまったく同様です。
新聞社の地方支局に、科学や歴史の専門家記者がそろっているはずがありませんし、デスクがそうした教養をもっているケースは皆無に近いといえます。
科学や歴史にまつわる博物館記事がもっともらしい内容になっているとしたら、その裏には、学芸員の周到な指南があると考えられます。
私の限られた経験からの感想ですが、地方社会では、博物館、美術館の親切な学芸員が、若手新聞記者の<教育者>という役割も持っていることがあります。
生半可な耳学問であるとしても、優秀な学芸員によって、プチ専門記者ができあがります。
成り行きというか、行きがかり上というしかありませんが、これはこれで面倒な仕事です。
全国各地の博物館、美術館に専門知識をもった学芸員がいて、新聞社、出版社、今なら、さまざまなネットメディア(個人をふくめて)からの問い合わせに対応しています。
それによって、記事や本のレベルが支えられています。
その記事や本をみた読者が、その分野に対する関心を高め、博物館に足を運び、それによって何かの閃きを得るというケースはきっとあるはずです。
美辞麗句にすぎるかもしれませんが、そこには、<知識の循環>のようなものが見えます。学芸員の蓄積した知識が、その循環を促していることは言うまでもありません。
近年は個人のウェブサイト/ブログであっても、専門的な内容のものが増えており、当然ながら、そうした個人からの問い合わせは少なくないはずです。
関心の方向性も知識レベルもわからない人からの問い合わせへの対応なのですから、想像するだけで、その面倒さがわかります。
新聞記事、本、ウェブサイト/ブログ。
あらゆる領域の日本語表現は、全国各地の学芸員からの専門知識の提供によって、その知的な水準が維持され、すこしずつであるとしても、引き上げられています。
学芸員の本業ではないでしょうが、そうした一面があることを、偉い政治家の人たちにも知っていただきたいとおもいます。
原稿がまるで書けない僕を救済したのは、ワープロ専用機(東芝ルポ)だった。
最近このブログで、Y新聞社に入社した三十年まえのことを書いたからでしょうか、封印がはずれたかのように、いろんなことを思い出すのですが、いかに原稿が書けなかったかという悪夢のような記憶もよみがえってきました。
旧石器時代の新聞社
何年かまえ、三十代半ばとおぼしき新聞記者(女性)と業務上の会話をしていたとき、ふと、私が新聞社に入ったときには原稿を手書きしていたという話をすると、ものすごい驚愕の表情をされたことがあります。
旧石器時代人を見る現代人のような──という比喩が誰かの小説にあったとおもうのですが、大枠では同じ現生人類とはいえ、進化の系統図のまったく別の段階にいる人であると思われたのでしょうか。
三十年まえの新聞社で、新入社員に基本的な人権がなかったのは確かですし、デスクは支局で仕事をしながら日本酒を水がわりに飲んで、暴れ回っていましたから、混沌とした状況でした。
旧石器時代よりは進化していたはずですが、前近代的であったのはたしかです。
悪夢的記憶はとめどなくよみがえるのですが、悪夢の光景のなかに新聞記事用の原稿用紙があります。
学校の作文、あるいは昔の小説家の先生がつかうような四百字詰めの原稿用紙ではなく、マスは二センチくらいあって、五十字も入らないようなヘンテコな原稿用紙です。
今の新聞社とちがって、記事の書き方のマニュアルなどなかったし、手取り足取り親切に指導してくれる人もいませんでした。
先輩が書くのを見て、まねしながら覚えていくのです。
まるで、職人とか料理人の世界。
徒弟社会の雰囲気でした。
優秀な先輩
同じ支局には、端正な原稿を、すらすらと書きあげる先輩がいました。
涼しい顔をして、原稿用紙にマジックペンで記事を書いていくのですが、棒線で字を削除したり、カッコで挿入することもほとんどなく、やや神経質な文字が原稿用紙をきれいに埋めてゆくのです。
厳しいデスクのチェックも短時間で通過し、ほぼそのままのかたちで次の日の朝刊に掲載されます。
同じ長さの原稿を書くのに、私はその先輩の三倍も四倍もの時間を要し、五枚も六枚も原稿用紙を丸めて、はじめから書き直していました。
たいへんなのはそこからです。
デスクは私が苦労して書きあげた原稿を修正して、商品レベルにもちあげようとするのですが、なかなかうまくいきません。
やがて表情は怒りでゆがみ、「お前は俺を殺す気か」と低い声でつぶやきます。
さらに、ひどい出来の原稿のときは、
「死ね!」
と言って、原稿をまるめて、ゴミ箱にポイされました。
「半年もすれば、誰でもうまく書けるようになるよ」
とその先輩はなぐさめてくれました。
「パターンを覚えてしまえばいいんだ。新聞記事なんて、いくつかのパターンの繰り返しだから」
でも、一年を経ても、二年が過ぎても、原稿を書く早さも、品質も低レベルのままでした。
ライター的な仕事を経験した人であれば誰もが考えることですが、原稿を書くのがうまい人には天性の才能があるように見えます。
読書量とか経験とか努力ではなく、書くのがうまい人は、最初からうまい──という説は酒席ではしばしば話題になりますが、研究者によって証明された学説ではありません。
でも、私が見聞きした範囲だけでも、状況証拠は十分にそろっているとおもわれます。
歌をうたうのがうまいとか、走るのが速いとか、そういう世界と似ているところがあります。
その先輩には文章を書く生まれながらの才覚があり、残念ながら、私にはその種の才がないことは歴然たる事実といわざるをえません。
ワープロ専用機は僕のへたくそな原稿を突如、レベルアップしてくれた
Y新聞の地方支局で、手書きの原稿からワープロ原稿へ移行したのは、一九八八年だったと記憶しています。
私が入社して三年目か四年目です。
メーカーは東芝で、「ルポ」という機種名。
現在のノートパソコンより、二回りくらい大きく、重量感がありました。
ワープロに「モデム」とかいう装置をつけて、原稿を電話回線で、送信していました。
原稿の末尾に、+++ のマークを入れて、実行すると、
ぴー、しゅー、ぴいーーー
というような、せつなげな電子音とともに原稿が魔法のように飛んでゆきました。
どんな仕組みだったのか、謎です。
【楽天市場】ワードプロセッサー > ワードプロセッサー 東芝【TOSHIBA】 > 東芝Rupo【ルポ】その他 > JW01:CREWBAR LAND
ワープロ専用機の出現によって、私の原稿は突然、レベルアップしました。
ゆるやかな上昇カーブの曲線ではなく、棒グラフのように、非連続的に、原稿がうまく書けるようになったのです。
どうしてこれを記憶しているかというと、デスクに手直しされる青のマジックの分量が目に見えて減ったからです。
当時の私は原稿を人並みに書けるようになったのは、それなりに努力した成果であり、仕事になれてきたからだと、自分を高く評価する方向で解釈していました。
しかし、いま、第三者的に当時の自分をおもいおこすと、原稿がレベルアップした要因の九〇パーセント以上は、ワープロの機能に由来すると結論づけざるをえません。
というのも、その後、新聞社に勤務した十数年、そして現在に至るまで、入社四年目の原稿レベルから、たいして上昇していないからです。
このブログは原稿料が出ない文章だから、手を抜いてダラダラ書いているのかと誤解されるかもしれませんが、一生懸命書いても、こんなものです。
文章をうまく書けないという自覚症状はいまでも持っており、最近、アマゾンキンドルで、『わかりやすい文章を書く全技術 100』(大久保進)という本を買って読んでいるところです。
小林秀雄先生にもお勧めです。
小林先生が、この本を読んでいれば、受験生が正解を誤るような文章を書くこともなかったのにと悔やまれます。
でも、それだと、現代国語の試験にはならない?
なぜ、ワープロがあれば、あるレベルまで原稿が書けるようになるのだろう?
新聞記事の大半は、一日で完結する仕事です。
昼間に取材したり、記者会見で聞いたことを、夕方、原稿にまとめて、次の日の朝刊に掲載されるというパターンです。
午後六時までには原稿を出せといわれていました。
刻々と迫る締め切り時間。
ある行を削除し、新たな言葉を挿入する。
それでもだめで、頭をかかえて何度も修正を重ねる。
冷や汗がじわり。
マジックペンでの手書き時代、あせればあせるほど、原稿用紙は文字と線が入り乱れ、収拾がつかなくなってしまうのでした。
しかし、ワープロは、削除も挿入も移動も整然とおこなってくれます。
実に助かりました。
急ぐ原稿ではなくて、特集記事、連載記事のような長い原稿を書くときに、ありがたかったのはプリントアウトの機能でした。
プリントアウトされた原稿からは、流れの悪さ、不必要な記述、不足の要素など、原稿の欠点が、マーカーペンで色でもつけているようにはっきりと見えたのです。
それは、原稿用紙の手書き原稿を推敲するときとは、まったく違う感覚でした。
しつこいほどプリントアウトをくりかえしました。
五回、十回と重ねるうちに、どうしようもなかった最初の原稿を、まあまあのレベルまで引き上げることができるようになりました。
プリントアウトを見ているあいだに、新しいアイデアが浮かぶという恩恵もあります。
その習慣というか悪癖は、本を出す作業をするようになった現在もつづいており、今回、文藝春秋社から『火山で読み解く古事記の謎』という本を出したときも、最終段階のゲラで、大幅な直しをすると言いだし、担当編集者さんを困らせてしまいました。
一回分、よけいにゲラ出しをしてもらったので、コスト的にも迷惑をかけてしまい、この場をかりて陳謝する次第です。
ところで、原稿のうまい先輩は、メカにもつよかったようで、支局のメンバーのなかでもいちはやくワープロに習熟し、あいかわらず、軽やかに原稿を仕上げていました。
ほとんど完璧な原稿を一発で書いてしまうので、プリントアウトも必要ないくらいです。
ほどなく、新聞社の地方支局にワープロがあるのが、当たり前の日常的な風景となりました。
先輩の原稿は相変わらず、みごとなものなのですが、あるとき、かつて感じていたはるか彼方の雲の上というような、絶対的な差がなくなっていることに気がつきました。
その理由ははっきりしています。
先輩はワープロの恩恵をほとんどうけないほど原稿がうまかったのに対し、私はワープロによる伸びしろが、ものすごく大きかったからです。
一筆書きのように、サラサラと完璧な原稿を書くことができる人は、脳内に特殊な回路が最初から出来上がっているとしかおもえません。
そうした脳内回路を保有していない私は、何度も行きつ戻りつ、モタモタと原稿を書くしかないのです。
あのころもそうだし、今もそうです。
そのような人間にとって、ワープロの出現は、たいへんな恩恵だったと今になって痛感しています。
がんばれ、東芝
東芝が発明したわけではないと思いますが、記憶の中のワープロ専用機は東芝に結びついています。
ありがとう、東芝ルポ!
ダメダメ記者の僕にとって、あなたは救いの神でした。
「神」というのが言い過ぎなら、「育ての親」かもしれません。
二十代だった僕が、伝えることができなかった感謝の言葉を、ここに記しておきたいとおもいます。
その東芝が今、かつてない苦境のなかにあります。
日本の良き技術文化を継承する東芝の復活を祈っています。