『「馬」が動かした日本史』、北上次郎氏に紹介していただきました。
拙著『「馬」が動かした日本史』(文春新書)を、「本の雑誌」の創刊メンバーで評論家の北上次郎(目黒考二)氏に紹介していただきました。
「日本は『草原の国』であったという指摘が新鮮だ」という書き出しで、<なぜ、日本列島には、相当に広い草原エリアがあったのか>という本書の主要テーマのひとつを話題にしていただいています。
それは火山の国であったからだ。
火山のまわりに草原ができやすいのは、巨大な噴火によって火砕流、溶岩がちらばり、その上に土が堆積しても他の場所に比べて土壌の厚さが不足しているので、樹木が根を張り、十分な水分、栄養分を得ることは難しい。
その結果、生まれるのが「黒ボク土」で(厳密には火山灰に由来しない黒ボク土もあるようだが)、農地には適さない草原となる。
こうした日本列島の草原的環境にもっとも適した野生動物のひとつが鹿であり、5世紀ごろ日本に持ち込まれた馬であった、というのである。
馬がとくに好むエサは、分類上、イネ科植物と呼ばれるものです。
身近な事例では、エノコログサ(ネコジャラシ)、ススキ、ササといったところ。
じつは野生の鹿が好きなのも、同じイネ科植物であり、馬と鹿のエサはかなり重なっています。
鹿は現在の日本列島に、三百万頭ほど生息していると推計されています。
今でさえそうなのですから、江戸時代、奈良時代、縄文時代と古い時代にさかのぼるほど鹿の生息数は増えるはず。
鹿の繁殖する草原的環境は、馬にとっても望ましい大地だったのです。
北上氏がとりあげてくれたもうひとつの論点は、<なぜ、有力な武将、武士団は東日本と九州南部に集中しているのか>というテーマです。
関東に武家政権を築いた源頼朝、徳川家康。平安時代に関東の独立を目指した平将門、東北で黄金文化を開花させた奥州藤原氏、甲斐の武田信玄、すべて黒ボク地帯を軍事的な地盤にしていた、というから興味深い。
ちなみに、島津氏が出た九州南部も、平清盛が出た伊勢国も、黒ボク地帯だ。日本史で活躍した多くの武将が黒ボク地帯から生まれているのだ。
つまり馬は軍事的財産であり、それを手に入れることのできた武将が活躍したということだ。
広大な草原が広がっていて、そこを馬たちが疾駆する。そんな光景が浮かんでくる。とっても刺激的な論考だ。
日刊ゲンダイの書評記事は、こちらのリンクからご覧いただけます。
古代の浅草は馬の放牧地だったのか?
内外の観光客でにぎわう東京・浅草の浅草寺。
浅草の界隈には、平安時代あるいはそれよりもずっと古い古墳時代から、馬の放牧地があったという説があります。
拙著『「馬」が動かした日本史』(文春新書)のなかから、謎多き浅草寺の歴史に関係するかもしれない、浅草と馬にまつわる話を紹介します。
修学旅行の学生。外国人からの来訪者。多くの観光客でにぎわう浅草寺の境内に鎮座する浅草神社。
浅草神社には、この地に朝廷の管理する馬牧があったということが、断定口調で書かれたパネルが設置されています。
ごぞんじのとおり、東京都と埼玉県に神奈川県の川崎市全域、横浜市の半分以上を加えた地域を、古代以来、武蔵国といいました。
平安時代の行政がわかる「延喜式」には、武蔵国に朝廷の牧が六カ所あったと記載されています。
古代の東京周辺は人口が少なく、馬の放牧地が目立つ地域だったようです。
武蔵国にあった六カ所の馬牧はどこにあったのか?
立地場所については諸説紛々ですが、そのうちのひとつ「檜前(ひのくま)馬牧」の有力な候補地が台東区浅草なのです。
浅草寺の門前の道を今も「馬道通(うまみちどおり)」といいますが、この地名の由来はよくわからないそうです。
馬道通を隅田川の方に歩くと、駒形橋のたもとに「駒形堂」があります。
浅草寺の発祥地ともいわれる特別の場所ですが、駒形堂はその名の通り、馬頭観音を本尊としています。
馬頭観音は、各地の馬産地で信仰されています。死んだ馬を供養するとともに、さらなる繁殖への祈りも込められています。
そのような馬頭観音が、なぜ、浅草で信仰されているのか?
浅草という地名の「草」にも、馬牧のある風景が見えています。
浅草の歴史には「馬」の影がちらついているのです。
浅草寺から歩いて十数分、隅田川をはさんで対岸の墨田区向島に「牛嶋神社」が鎮座しています。
このあたりには、古代の牛の牧があったと伝わっています。
浅草は隅田川の下流域にあたり、古代であれば氾濫原草原が広がっていたはずだ。
向島は隅田川と荒川がつくる三角州に位置しているが、三角州は馬が逃げるのを防ぎやすく、古代の馬牧の適地とされる。
伝承や現在の地形など状況証拠からの推定ではあるが、浅草周辺に古代の馬牧があった可能性は相当に高いと思う。
(文春新書『「馬」が動かした日本史』P142
この牛をなぜると、御利益があるそうです。
浅草に古代の牧場があったという話は、JA(農業協同組合中央会)のウェブサイトにも出ています。
野馬土手──千葉県の各地に残る幕府直営牧場の遺構
拙著『「馬」が動かした日本史』(文春新書)掲載のこの地図は、幕府直営牧場の領域を示したものです。江戸時代半ばの地図をもとに、千葉県が復元したものですが、下総国(千葉県北部)の五分の一くらいを放牧地が占めている印象で、にわかに信じられないような広さです。
幕末期の飼育頭数は小金牧千頭、佐倉牧三千頭、嶺岡牧千頭と推計されています(大谷貞夫『江戸幕府の直営牧』)。
一か所あたりの飼育頭数でいえば、佐倉牧はこの時期、国内最大級の牧場です。
千葉県にあった幕府直営牧場のはじまりは、徳川家康の時代にさかのぼるとも言われていますが、創設期の実態については不明な点が多くあります。
幕府の放牧地の柵や馬の誘導のために造られた土手が、千葉県の各地に残っています。
これが、野馬土手(のまどて)です。
これはJR南柏駅から、十分たらずの場所にある「松ヶ丘野間土手」。
保存状態が良好な野馬土手のひとつで、詳しい説明パネルもあるので、野馬土手の見学にはお勧めのポイントです。
柏市側に馬の放牧地があり、流山市のほうにある民家、田畑との境界線に野馬土手が築かれていました。
土手と土手の間に、堀がつくられているので、比高でいうと、四、五メートルありそうです。
ここが、土手のあいだの堀の部分。
野馬土手をもう一か所、紹介します。
新京成線の北初富駅から東に約三〇〇㍍。千葉県鎌ケ谷市のこのあたりは「下総小金中野牧跡」として国史跡に指定されています。
鎌ケ谷市役所の主催による野馬土手の見学会があったので、取材をかねて、参加させていただきました。
見学会のあったこの場所を、捕込(とっこめ)といいます。
一年に一度、放牧地で暮らしている何百頭という馬を一か所に駆り集めて、幕府の役人が馬を吟味し、優良な馬は放牧地から離され、乗馬としての調教を受けました。
民間に売却される馬もピックアップされ、それ以外は再び牧に戻されます。
馬たちを追い詰めて、最後に誘導する施設を捕込といいました。
「下総小金中野牧跡」は小金牧跡地に残っている唯一の捕込の跡。一〇〇㍍四方の広さが土手によって三区分されており、持ち出す馬、牧に戻す馬を分けて、一時的に置いておくスペースができていました。
鎌ケ谷市の新富中学校の校庭に沿ったところにも、野馬土手があります。
放牧地にいる馬たちを水飲み場に誘導するための土手なので、それほど高くありません。
文化庁などによって作成されたパネルには、「馬は牧の中で放し飼いされ、水のみ場のほかはえさも与えられず、ほとんど野生の馬だったことから、野馬と呼ばれていました」と説明されています。
「ほとんど野生の馬」とはどういう意味なのか。
なぜ、由緒正しい幕府の牧場に「ほとんど野生の馬」がいたのか。
説明パネルを前にいくつもの疑問が生じた。
「野馬(のま)」とは何なのか。ここにも「馬の日本史」のひとつの謎がある。(文春新書『「馬」が動かした日本史』)
馬の産地ではよく見かける馬頭観音。
アパートに沿った緑地。
その正体は、野馬土手でした。
土を積み上げて、土手をつくった歴史が見えてきそう。
寒立馬──下北半島で自然放牧される馬たち
2020年1月20日刊行の文春新書『「馬」が動かした日本史』にかかわる写真を中心に関連する記事を書いています。今回は下北半島の話題です。
下北半島の北東部突端にある尻屋崎(青森県下北郡東通村)に、自然放牧されている野飼いの馬が三十頭ほどいます。「寒立馬(かんだちめ)」の愛称で知られている馬たちです。
一頭ごとに外見が異なるのは、さまざまな種類の馬が混血した雑種であるからです。
現在、尻屋崎の放牧地にいる馬たちは、アングロノルマンなどによって〝改良〟された南部馬の子孫が、さらにブルトン種などと交配された馬です。
お腹ポッチャリで、下半身はがっしり。そうした体形は日本の馬の特徴を保っているものの、カラフルな毛並みをした馬が多く、良くいえばハーフ美人の雰囲気があります。
白い灯台のある岬の突端が馬たちのお気に入りであるのは、海からの風が最も強く吹く場所だからです。海風は馬にまとわりつくアブ、ハエを追い払ってくれるのです。
私が訪れた日は、快晴でしたが、台風の接近時のような強い風が吹きつづけていました。
海辺など強い風の吹く土地は大きな木が育ちにくいので、草原的な環境が形成されます。
学術用語では「風衝草原」というそうです。
四方を海に囲まれ、山や谷が複雑な地形を作る日本列島は、局所的な強風地の多い「風の国」でもあると、気象学者の吉野正敏氏は著書『風の世界』で述べている。
鯉のぼり、たこ揚げ、風車(かざぐるま)。そうした風にまつわる伝統行事や子供の遊びが多いのも、「風の国」ならではの光景だ。
恐山の霊場は水子供養の空間でもあるが、硫黄をふくんだ黄色い岩地に水子地蔵が置かれ、花の代わりに手向けられたおびただしい数の赤い風車がカサカサと音をたてつづけていた。
そういえば、宮崎県の都井岬でもたえず海風が吹いていたし、群馬県も「カカア天下とからっ風」の土地柄だ。
大阪・河内地方の花園ラグビー場(東大阪市)といえば、生駒山から吹いてくる「生駒(いこま)颪(おろし)」。正月の全国高校ラグビー大会では、勝敗を左右するほどの強風がしばしば話題となる。(『「馬」が動かした日本史』第四章)
下北半島の強風を利用した風力発電の風車が、車窓から見えました。
寒立馬の放牧場の近くには、仏教霊場として名高い恐山があります。
恐山は水子供養の聖地でもあります。
花の代わりに手向けられた風車がカサカサと回り続けていました。
硫黄によってイエローに染まった地面。
恐山は気象庁により指定されている活火山のひとつです。
馬産地の背景に、火山的な土壌が見えるのは、ほかの馬産地と共通しています。